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子育てと介護から見つけた幸せのカタチ

私はもともと絶対に子どもを産みたいという気持ちは持っていなかった。

一個人の自分として生きていくことが楽しかったし、充実していて、言い方は悪いけど、「子供が出来る=自分の自由を犠牲にする」という方程式が頭に浮かんでしまって、世の中の女性がなぜそんなに子どもを産みたいのか、正直あまり理解できていなかった。

そんな私は、想像以上に我が子を溺愛しメロメロになっている。おそらく自分が一番驚いている。おっぱいあげて満足したと思ったら泣きじゃくって寝れなくて、「量が足りなかったのかな?」「おむつ汚れてるのかな?」とやっている自分を俯瞰してみていると、すごく愛おしい時間だなと思う瞬間がある。

生後1ヶ月経った今感じるのは、介護の仕事が好きだった私にとって子育てには共通するものがあるんじゃないか、いうこと。

子育てと介護の共通点。
それは、「この世に自分にとって大切な人がいる」ということ。
暮らしの中に入り込むからこそ自然と関係性は深くなっていく。
正直、どっちも相手次第で振り回されることはある。
事前に予定していたシナリオ通りにはいかず、やろうとしていたことに手が付けられない日もある。実際、この記事に手をつけてから何度手を止めたことか。

それでも、その人が笑っていたらつい自分も笑顔になって、もっとそんな時間が増えて欲しいと願い出来ることを、もし泣いていたら同じように悲しくなって、どうしたら悲しくならないのかを考えて必死に調べて改善策を練っていく。
そんな時間を共に過ごす中で、その人との時間は自分の人生の一部になっていく。

今更だけどガリレオシリーズの映画版、「容疑者Xの献身」を観た。一人の人間にとって生きる希望とは何かを考えさせられ、その答えの一つとして、自分という人生のドラマに確実に存在する登場人物がいて、その人達との関係性が満ち足りているかどうかなんじゃないかと思っている。

自分以外の幸せを願えることが、こんなにも自分を幸せな気持ちにするのだ。
子育てと介護は、そんなことを実感できる時間だと思う。

そんなことを言いつつ、「子供が出来る=自分の自由を犠牲にする」という考え方が、ゼロになったわけじゃない。やっぱり自分の時間も欲しいし、自分にとっての幸せも大切にしたい。
でもそれは「いない方がいい」というわけではなく、「子供も自分も、両方の幸せを追求したい」という気持ちに変化していったのだと思う。
介護も同じ。一方通行だけでは壁にぶち当たってしまうから、ちょうどいいグラデーションを見つけるのが大事だと、子育てをしても気づかされた。
人と人との関係性って面白い。

最後に、
自分以外の誰かのことを考えるのは充実感のある一方で、自分以外にパワーが向けられるということでもある。
一人で必死に考えるだけだと限界もあるし、精神的にもきつい瞬間もある。
でも、誰かと一緒に考えるのは楽しい。

「外に出かけられるようになったら、〜〜したいね」
これからの楽しい未来を考える他者がいること。
一人ではなく、誰かと一緒に考えられるということ。
そんな幸せのカタチを、見つけられたことが嬉しい。



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