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【特集】下窪俊哉『海のように、光のように満ち──小川国夫との時間』のライナー・ノーツ

深い影のなかは、あとあと時間かけて探ればいい。大事なのは出合うことだ。(小川国夫)

ここでは1ヶ月ぶりに書きます。5月は4月以上に調子がのらなかったので、ここは無理してもしょうがない、すでに始まっている仕事をぼちぼち進めよう、と考えてあまり表立った新しいアクションは起こさず、「やり過ごした」という感じの1ヶ月になりました。そういう時も、ありますよね。若い頃は苦しくなるとがむしゃらになってああしよう、こうしようとして夢中で墓穴を掘ったものですけど、いまはそういう元気もなくなったのか、あるいは自分も少しは大人になったということなのか、いや、少し歳をとったということでしょうね、力を抜いて、風に吹かれているような状態になっています。

さて、先月(4月)、『海のように、光のように満ち──小川国夫との時間』という本をアフリカキカクから出しました。(若い頃の私が出会った)晩年の作家・小川国夫の姿と声、言葉を伝える1冊。

私の著作としては、昨年の6月に出した『音を聴くひと』に次ぐ本ですけど、これはじつは11年前につくった本のリニューアルと言った方がよいもので、当時は『海のように、光のように満ち──小川国夫の《デルタ》をめぐって』というタイトルでした。

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※左が2010年版、右が今回の2021年版です。

11年前の『海のように、光のように満ち』は、映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』のためにつくったものでしたが("副読本"と呼ばれていました)、公開直前に急に計画された本だったせいか、何やら勢いだけ凄くて、いま読むと少し恥ずかしいところがありました。

恥ずかしさの理由には、いろいろあると思っているんですが、それは来月(6月)に出る予定の(日常を旅する雑誌)『アフリカ』次号に載っているインタビューでいろいろ語っていますから、それを読んでいただくことにして… 今回の本では、ほぼ全ての原稿に手を入れました。

11年前に戻って書き直したようなものすらあります。ただ、いまだからこそ書けることを書くのは、止めました。あくまでも11年前の自分になりきって、書き直す作業をしました。

いまの私は、このタイミングでやっておきたいと思う仕事をたくさん抱えていて、小川文学に再び、深く入ってゆく余裕がない。つまり、もっともっと書こうと思えば書けるだろうけど、それをしていたら、本ができるまでにあと数年はかかるだろう。ただ、小川国夫さんのことを書いた以前のエッセイを読んでみたいというご連絡を最近、よくいただいていたので、ひとまず、その声に応えようとしたものです。

このパンデミックの時代、自分だっていつ死ぬかわからないといえばわからない。としたら、ひとまずでもとりあえずでも何でもいいから、本にして残しておきたいと考えたところもありました。

それから今回は、映画『デルタ』のパンフレット的な要素は外して、あくまでも自分の出会った「作家・小川国夫」を伝えるものとして、再構成しました。

ついでに、その後に依頼されて書いたエッセイも、ひとつだけ、ですが、追加で収録しました。

収録しているエッセイを、ひとつずつ、ご紹介しましょうか。

「絵画のように、音楽のように、そして映画のように」

本のタイトルの由来になった小川国夫の随筆からの引用文があって、その後、いきなりこのエッセイが始まります。2010年版のために書き下ろしたもの。その時は、「『アポロンの島』から」という副題がついていましたが、今回は外しました(読めばわかりますからね)。

小川国夫の小説は「難解」と言われることが多いようなのですが、文章自体はとてもシンプルなものです。では何が「難解」なのか…? という問いを軽く浮かべてみたような短文。「小川国夫の小説は現代アートに近い」なんて言ってますけど、つまりどういうことかというと、小説というジャンルは、たとえば美術や音楽が20世紀後半にやってきたような冒険をサボっても何とかやってこれたのではないか、その点、小川国夫は果敢な挑戦をしていたのではないか、という仮説を立てている。と、まあそういう感じです。

「励ましの言葉」

目次やら何やらを挟んで、次は「励ましの言葉」です。私が"小川先生"のことを書いた、最初のエッセイ。

亡くなる数ヶ月前に『藤枝文学舎ニュース』から頼まれて書いたもので、この本の中で、これだけは小川国夫さん自身も読んでいたと伝わっているものです。

私が大阪で会っていた小川国夫さんは、とにかく明るくて、楽しそうで、若かった私と一緒に悪ふざけをするような側面すらあり、ちょっとパブリック・イメージ(?)とは違うかもしれない。共に過ごせた時間は、全て「励まし」になっているという気持ちで、書きました。

まだ存命中に書いたものなのに、過ぎ去った時代を書いている感じがあるのは、大阪での仕事は全て終わった後だったからでしょう。

「過去や幻との交信──『黙っているお袋』から『止島』まで」

私は大阪芸術大学の文芸学科というところを卒業して、そこで数年、研究室のスタッフとしても働いていました。小川国夫さんはそこで教えていたんです。なので、私は作家を先生呼ばわりしませんけど、小川国夫さんは"小川先生"でした。小川先生にとっては私は、ある時までは学生で、その後は大阪でのスタッフというか付き人のような存在でした。ま、他人事のように言うと気に入られていたわけです。私にとっては幸運なことで、気風が合ったんだろうという感じもありました。激しい気性を秘めつつ、いつもボンヤリしているというか何というか…(うまく言えませんけど)

「過去や幻との交信」は、大阪芸術大学の雑誌『河南文藝』の小川国夫追悼号から頼まれて書いたブック・ガイド。その頃はもう大学からは離れていましたけど、関係は続いていました。

その時は小説の本ばかり紹介していたんですが、随筆集や、『聖書』関連の仕事について、今回大きく加筆しました。しかし「1990年代から亡くなった2008年までの本を紹介する」というコンセプトは守りました。

『河南文藝』はその頃、大阪芸大で教えていた漫画原作者の小池一夫さんが、密かにかかわっていました。小川先生は"小川漫画"と称する絵をたくさん残していますけど、晩年に漫画制作を仕事とする人たちとのクロスオーバー(?)があったことを、私はたまに思い出します。

「恋は恋のなかに」

小川先生の没後、『藤枝文学舎ニュース』から再び依頼されて書いたもの。

1990年代、日本の大学にも文芸の創作コースが出てきて(私がいたところもそのひとつだったわけですが)、「小説を書くことは、教えられるものなのか」という議論もありました。

私は自分が学生としてかかわっている、その、創作ワークショップという場(仕掛けというか、アイデアというか)がどこから来たかということにも当時から関心をもって調べていて。それはなぜかというと「教育」のあり方を深く考えていたからではないか、と思う。そしてそのような話を小川先生にも(当時、付き合いのあった他の先生にも)私はしていたんです。

そういったことが、この「恋は恋のなかに」の中には出てきていると自分では感じます。

小川国夫の書いた恋愛小説や、自分の傍にあった恋ともからめて、また「みんな小川国夫に"恋"をしているようだった」という比喩もふりかけて、「恋」を中心に置いて書きたいと思ったのですが、その狙いは上手くいっているかどうかちょっと自信がありません。

ちなみに、私にとって創作ワークショップをやることの一番の狙いは、プロの「読者」を育てることではないか、という思いは、当時も、いまも変わっていません。もちろん私ひとりでそう考えたわけではなくて、いろんな人と語り合う中でそう考えるようになったのでした。

「『弱い神』の傍らで」

これは『アフリカ』第9号(2010年5月号)掲載。私が毎月のように小川先生と会っていた時期は、作家・小川国夫が『弱い神』の連作を書き続けていた時期と、重なります。いつも未完の長篇『弱い神』と共にあったと言っていい。なので、『弱い神』が本になった暁には、ぜひ『アフリカ』でもインタビューさせていただきたい! なんて話してましたが、それは叶いませんでした。完成を直前にして、お亡くなりになったからです。

せめてその本を記念して、ご紹介したい。『アフリカ』に載せるなら小川文学とまだ出合ってない人にも、どこか響くようなものにしたいと考えて、私の紹介文と『弱い神』本文から引用文を切り貼りしてコラージュにしたような「『弱い神』の傍らで」が生まれました。

これは私のエッセイというには、あまりにも引用が多い。とはいえ、引用の仕方と、その並べ方は私のオリジナルと言ってよいものです。

「わからなさをめぐって」

ここに書かれているエピソードは、前半はとくに、私たち学生の間では有名だったもの。じつはそこに私はいなくて、小川先生からいつも聞かされて耳タコになっていた話です。後半のエピソードは、『海のように、光のように満ち』の装丁(表紙デザイン)をしている守安くん(彼もそこにいました)が当時、書いていた小説(実際には詩だったような気もする)をめぐって、小川先生と語り合った時の話。懐かしい時間の記録です。

小川先生が「わからない」ことを大事にしていたという話から、『弱い神』をどう読むか、どう捉えるか、という話に流れてゆく。これも『藤枝文学舎ニュース』から依頼されて書いたもの。

「不在をめぐる三篇──映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』」

これは、小川先生亡き後のエピソード。2010年版のために書き下ろした映画『デルタ』の紹介文と、『アフリカ』第10号(2010年11月号)に書いた「不在をめぐる三篇」から、今回、いいとこ取りして編集し直したエッセイです。

当時の私は、小川国夫にかんする既存の評価(の仕方)をなぞることに、なぜか抵抗があって、またそうした自分の感じ方を支えるような話もいろいろと見出されてきていましたが、生意気を言っているという範囲を超えることは、あまりできなかったような気もします(若気の至りと言いましょうか)。ただ、何よりも嬉しかったのは、自分と年齢の近い人たちが「ここに何やら面白い作家がいるよ!」と小川国夫の小説に取り組んでいるところに居合わせることができたことでした。

だからあえて、小川文学の詳細を書き連ねることを避けて、まるで何も知らない人のようになって、感覚的なことだけで押してみようとした。──そんなふうにも言えるかもしれない。思えばまだ31歳だった自分の、ちょっとした決意表明のようにも感じられる。そんな一文を書かせてくれた映画『デルタ』に、いま再び感謝したいと思っています。

「『夕波帖』のむこうに」

2016年の秋、久しぶりに『藤枝文学舎ニュース』から依頼あり、久しぶりに書いた小川先生の思い出話。当然ですけど、2010年版には載ってません。

著名人が亡くなると、「○○さんと私」という追悼文があちこちに書かれます。そういうのが私はあまり好きじゃなくて、2010年版をつくった頃は、できるだけ「私」を消して、「小川国夫さんのこと」を書きたいと思っていた。でも、2016年の秋には、どういう依頼のされ方だったのか、私の個人的なことを少し書いてみてもいいかという気になっていました。

それまでも、書いていなかっただけで、個人的な付き合いのある人に話してはいたので、親しくしている人たちに「あの話を書いたら? というのがありますか?」と聞いてみたりして、それで書いたのが「『夕波帖』のむこうに」でした。

今回、どうして小川国夫が「賞嫌い」だったのか、その理解が少し深まったような気がしました。2016年の時点では、まだ、いまほど感じられていなかった。そんな話も『アフリカ』次号で"語って"います。

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そんなわけで、新たに書き下ろしたのは「あとがき」だけの本ですが、何だかそんな気がしないという感想も聞いています。加筆、修正が大きく入ってますからね。収録されている元の原稿は同じですけど、構成が違うし、全体としても新刊と呼んでいい本になったかもしれません。

小川先生は「君の声をしっかりのせた言葉で書きなさい」と言われていたような気がする。語彙は多くなくていい、上手くなくてもいい、でも、君だからこそ聴こえているかけがえのない言葉で文章を組んでいってください、と。今回の本も、そうなっていることを願います。

(つづく)

その『海のように、光のように満ち──小川国夫との時間』は現在、アフリカキカクのウェブ・ショップ珈琲焙煎舎ほかで発売中です。新しい情報があれば、特設サイトでお知らせします。気になる(ありがたい)方がいらっしゃったら、たまにご覧ください。

「道草の家の文章教室」、「よむ会」ほかのワークショップも毎月、ぼちぼち開催中。それも詳しくはアフリカキカクのウェブサイトをご覧ください。

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