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(困難に対して)虚勢を張る

ぼくは自分のことを不器用だと思っているのだが、見る人によってはとても器用に見えるらしい。たしかに、あれも、これも、それも、自分でやってしまえる器用さはあるのかもしれない。
しかし(たぶん、いや、これは確信をもって言うのだが)社会に対しては、不器用なのである。
社会に対しては器用で、それ以外のことに対しては不器用という人が多いということだろうか?(だとしたら、自分は器用に見えてもおかしくないと、確かに思います)
いや、でもそうだろうか。「社会に対しては器用」なように見せている人が「社会」の中では目立っている、というだけではないのか? と思う。

社会に対して器用であるとは、つまり、極端なことを言えば、他人にどう伝わるかばかりを気にかけているということになりそうだ。

ぼくは正直、そこにはあまり力を入れていない。どうにでも見ていいですよ、と言えば極端すぎるかもしれないが(気にならないことはない、むしろ気になって仕方ないことの方が多いかもしれない)、でも、生命は全方向に対して力を存分に発揮できるものではないらしくて、要は「何を大切にするか」なんだろう。「他人がどうか」の優先順位は自分の場合ちょっと低いのである。いつも、それどころではない、と言えば、わかりやすいだろうか。

全てを一気に解決してしまえるほど、自分は万能ではない。

みんな、それぞれの向いている方向に力を発揮して、もちつ、もたれつ、やってゆこうというのが「社会」というものではなかったのか?

「自分はこういうことをしてみますよ」「私はこれを」と話し合いながら、のんびりと「社会」づくりをしてゆけないかと思うのだが、あっちを向いても、こっちを向いても、「できない」ことに躍起になっており、苦しいなあと思っている。

「社会」というのは、そもそもフィクションのようなものなのだから、「はい、もういいよ、リセットして、次にゆこう」と言いたいし、言ってほしいのだが、「何ともできないのなら、殺してやる」というような勢いが(妄想かもしれないが)凄くてひるむ。

いや、相手は虚構なのだからひるむな、自分よ。こちらも「殺せるもんなら殺してみろよ? あ? 話を聞け」というくらい虚勢を張ろう。

(つづく)


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