見出し画像

『街の手帖リーディング2』を読みながら

「場所」は見えない。可視化できるのは「空間」。使い古された二本の歯ブラシがささるプラスチック製のコップ自体は「空間」の一部。そこれから彼女と過ごした「時間」を思い出し、うるっときたとすれば、そのとき思い出した「彼女と過ごした時間」は「場所」に連なるものになる。

港ノ マチノヒ「そろそろ「場所」に帰ろうか」(『街の手帖リーディング2』より)

仕事で週の半分以上通っている大田区に「コトノハ」という出版社があって、『街の手帖』という冊子を発行している。今週、遅ればせながら(昨年の暮れに出ていた)『街の手帖リーディング2』というのを入手して、読んでいた。

「時と陰陽」──変化してゆく"街"が編集のテーマだったようだ。

冒頭で引用したのは、そこに収録されている、ある文章から。書いているのは港ノ マチノヒさんで、Twitterで毎日のように書かれているのを読ませてもらっている。
「空間」と「場所」は違う、という話から始まる。
それを読みながら、思い出すことがいろいろとあった。

住人を失った家が荒れている様は、自分も見たことがある。実際に荒れるのだ。人が手を入れて、住んで、初めて家は家としての姿を現わす。いま、自分たち家族が住んでいる家を「道草の家」なんて名付けて(誰がそう名付けたのだが忘れているが)、愛しているのだが、この家は出会った時から「いい気を持った家だな」と思っていた。しかし、住めば住むほど、その「気」は柔らかくなってくる。守られている、という感触が大きい。それはおそらく、清潔さというようなことには関係がない。汚れていても親しいものとしてあれば、「気」はよいだろうし、清潔でも親しくなければ「気」は荒れる。

それはおそらく店でも同じだ。少なくともこの社会では、街は店によって成り立っていると言っていい。『街の手帖リーディング』を読んでいても店の存在抜きに成立している文章も写真も、ほぼない。街=店なのだ(それ以外の何かを見出せたら、大発見! ということになりそう)。

しかし、そこで行われる商売と住人との距離が離れたら、そこの「空間」はどんどん冷たいものになる、と港ノ マチノヒさんは書いている。そうかもしれない。そうでない街にするために一番よい方法は、その街に住みながら商売をする人が増えることだろう。

と書いている自分も、横浜に住みながら横浜では殆ど仕事をせず、電車で30分くらい行った先の大田区で働いている。家で密かにしている仕事はありますけど、それを出してゆく場所も住んでいる地域ではないので…

それを可能にしているインターネットの存在を含めて考えてゆくと、「空間」と「場所」という概念には「時間」を介入させて初めて感じられることが多いような気がする。

そう思っていると、『街の手帖リーディング2』のラストには、大森の古本屋・あんず書房の加賀谷敦さんの「日常のすきまへ」という文章があり、「とき」の考察で始まる。

「とき」というものは、もう二度とないものだけれど、そこに確かにあったもの。

加賀谷敦「日常のすきまへ」(『街の手帖リーディング2』より)

それに対して、計算できたり消費できたりするものは「時間」なのだ、という。ちょっとことばを抱きしめすぎかという気もしないではないけど、言いたいことは感じられる。

ふたりの文章を読んでいると、利便性よりも、いかに手間暇かけた「場」をつくることができるか、と街の人は自然に考えるものなのではないか、という気が自分にはする。いま、それを抑制している何事かがあることは認めつつ。

「あんず書房」へは行ってみたいと思っているのですが、営業日と自分の予定がとても合いづらいようになっていて、うーん、でも近々何とか時間をつくって、仕事抜きで大田区へ遊びに(!)行ってみたいと思っています。仕事以外で行くことがないから新鮮だったりして?

今週、『街の手帖リーディング2』を読みながら、自分の関心の一番深いところに降りてきたのはじつは「編集者に会いに行く」で、都築響一さんのインタビュー、題して「雑誌づくりにコロナなんて関係ない」。

港ノ マチノヒさんの文章も、加賀谷敦さんの文章も、うん、うん、あ、そうですよね、と思いながら読めるのだが(それはそれで勉強にもなります)、都築さんの話にかんしてはそんなふうにゆかない。ひっかかるところがあるわけ、つまり自分には彼のように話せない、さーて、そういう話の中にこそ何かあるんだ、と思いながらくり返し読んでいます。

(つづく)

ここで触れられなかった文章も興味深く読んでます。編集後記も!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?