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見えていない景色を、感じる。

最近はなぜか昔のことばかり思い出している。まだ死にたくはないが、死をどこか近しいもののように感じているのかもしれない。

2011年の春が、そうだった。ぼくの身近には、震災による直接の死者はいなかったが、間接的に死者となったような人(?)なら何人もいた。どこからともなくしのびこんできたような死こそ、リアルだったという感触もある。

昔というのは、ほんとうにこどもの頃だったり、20歳前後の頃だったり、10年くらい前だったり、あるいは、自分が生まれる前のことだったりする(それは「思い出す」とは言わないか)。

いま、自分は不安なのだろうか。──と問うまでもなく、ぼくはいつだって不安にまみれている。ずーっと、そうだった。先のことが見えない(わからない)。それはいつだってそうだった。

いま、特別に先が見えない、というふうには思わない。どのくらい(どんなふうに)見えないか、少しは見えている。

ただ、いま見えている通りの道を進めばいいかというと、必ずしもそうじゃない。見えている景色は、必ず変わる。

変わる時は、動く時だ。

動いた後のことを、ぼくは心配していない。気になるのはいつも、動く前の景色がどうなっているか、だ。

個人的には危機の連続だったから、ある意味、危機には慣れている。そう簡単には倒れない。しぶといというか、諦めが悪いというか。何もできないことにすら希望を見出してるというか。

 *

書いては消し、書いては消し、としている。書いて残したものよりも、消したものが重要なものだった、ということも少なくないのかもしれない。そう思うから、消したものも、別に取っておく。しかしそれもいつしか失くしてしまっているのだが。それがある時、ひょっこり出てくることがある。

大事なのは、書き続けること。そして、どんなにくだらないものだと感じても、残しておくことだ。"なりゆきの作法"は、その先にある。

(つづく)

あの大陸とは“あまり”関係がない道草の家のプライベート・プレス『アフリカ』。読む人ひとりひとりの傍にいて、ボソボソ語りかけてくれるような雑誌です(たぶん)。その最新号(vol.30/2020年2月号)、ぼちぼち販売中。


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