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"待つ"の変貌

先週は横浜と府中で2回、「文章教室」をやった。1週間で2回もやるのは初めてだったが、ためしに、2回とも同じテーマ("待つ"ということ)でやってみた。

"待つ"ことが、好きな人もいるし、嫌いな人もいる。"待つ"ということに、良いイメージをもっている人もいるし、悪いイメージをもっている人もいる。参加者ひとりひとりの中に、沈んでいた考えや、思いや、イメージが"待つ"から生まれてくるのを読み、話し合うのは興味深いものだった。

自分は──といえば、"待つ"ことなしに、何事も達成できないと思っている節すらあり、自分の仕事や生活と、"待つ"ことは、切っても切れない関係にあるとまで言ってみたい。

若い頃、はじめて小説らしい小説(どういうこと? 細かいことは今日は省略)を書いた時の作品のタイトルは「十分遅れてくる女」だった。予告通り遅れてくるひとを待っている話である。時は、1990年代末、携帯電話は存在していたと思うが、大学生だったぼくの友人たちで携帯電話を持っている人はまだごく少数だった。「十分遅れてくる女」は携帯電話がないから生まれた小説である。いや、携帯電話が普及する前夜の小説、とでも言おうか。

それから、携帯電話もインターネットもなかった数年間、ぼくのペンは走っていた。書いていた内容は、まぁ、若気の至りと言っておきたいようなものが多いが、走っていたことは確かである。なんとなく苦労し始めたのは携帯電話をもってからであり、インターネットが生活の中に侵入してきてからだ。そのことに、ぼくはものすごく自覚的だった。

電話を携帯できるようになって、"待つ"の質は変わったような気がする。自分にとって、とくに2000年代前半は、そんな気分が濃厚だった。

しかし、来ない(かもしれない)ものにかんしては、そんなことと関係なく、"待つ"が力強く存在し続けている。

つまり、電話を携帯できようが、ウェブでどれだけ"つながって"いようが、得られないものはじつは山ほどあるのである。だよね?

2009年の年始に、ぼくは「待ち時間」という60枚くらいの原稿を書いた。10日くらいで書いたのではないかな、と思う。その後、「待ち時間」の続きを書き、それもたぶん60枚くらいで、「化石談義」という小説になった。「待ち時間」は誰にも読ませたことのない原稿で、自分でも1度も読み返したことがないが(モーニング・ページに似てますね?)、「化石談義」は小説になり読まれたし、こんどできるぼくの作品集にも載る。「待ち時間」は「化石談義」と対になるものだとも言えるし、「待ち時間」の方が「化石談義」の助走になっているとも言える。

少しでも高く跳ぶためには、助走がいる。そして、その助走にも、いろいろあるんだな。

今月の「文章教室」では、そんなことを思い出したり、書いたり、話したりもした。

(つづく)

その「文章教室」、これから春までは、横浜・桜木町で開催予定です。次回は2/1(土)の午後、「幼年時代を書く」です。参加したい! という方はあらかじめウェブから参加申し込みをして、ぜひ何か書いてご参加ください(何も書いてなくても参加はできます)。

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