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梅雨明け、風景、ことば

7月さいごの日、お昼で学校が終わって、さあ、夏休みだ、となって帰宅した息子に、「大発表があります、今日、これからお泊まり旅行に行きます」と話して、わー! と(息子は)なって、3人で出かけて来た。

その半月ほど前、どこに行く? と横浜から行きやすい場所をあたっていたら、湯河原にある面白そうな(そして比較的、安価で泊まれる)個人経営の宿を見つけて、申し込んでおいたのだった。湯河原なら、電車で2時間もかからない。ちょうどよいのではないか、と。

大変なことになった年の夏、息子にとっては小学1年生の夏の、ささやかな思い出に。

その宿、凄まじい急勾配の坂を登った先にある。だから、というか、何はともあれ、眺めがすごい。泊まらせてもらった部屋の、バルコニーからの眺めがこれ。

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チェック・インして、ニュースを見たら、梅雨明け宣言が出ていた。長かった雨の季節が終わった日。

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海も山もきれいで、ついでに、新幹線と東海道線が真下を走ってる。

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景色というものは、いつまで眺めていても、飽きない。

そこには、ことばは、ない。たぶん、ない。ことばは、いつも、後からやってくる。

というより、自分にとっては、いつだってことばは後からやってくる感じなのだ。

いつも、なかなか、ことばにはならない。

話すことには苦手意識があり(熟練のどもりだからね)、それから、じつは、書くことにも苦手意識がある。

え〜!? という声が聞こえそう。最近は「文章教室」もやって、本を書いて自分で出したりもしているのに、書くことに苦手意識がある???

何かを聞いたり、何かを見たりするのは、好きだ。何かを読むのも。

書くことを禁止されても、ぼくは死にたくならないと思うが、聞くこと、見ること、読むこと、そういったことを全て禁止されたら、ぼくは死んだも同然になるだろうという気がする。──それでも残されている何らかの感覚を駆使して、生きようとするだろうが。

「伝えるのが下手なので、伝わりやすい文章を書けるようになりたい」という話は、よく見聞きする。

気持ちはわかる。けれど、ことばで何かを伝えようとしても大半は伝わらないと、みんな知っているはずだ。伝わるとしたら、それは、すでにお互いが知っていること、わかっていることだけではないか(だから、読者がわかっていることを伝わりやすい文章で書くことは可能なはずだ)。

ぼくは苦手を克服しようとしていない。受け入れていると言えばいいか、そんなことに心を砕いている余裕がないというか。苦手意識は横に置いて、ことばを出し、とりあえず書き始める。

何かを伝えようと思って、書いていない。見えているもの、聞こえているもの、感じられているものを、ただ、少しずつ、ことばに置き換えてゆく。

書いたものは、自分の感じていたままではないが、書くことで、また新しく感じられることが出てくる。必ず出てくる(はずだ)。書かなければ、感じられなかったようなことが出てくる。

さて、ぼくはそこにひろがっている風景を、ただただ、眺めている。目をそこに置いて、また時折、あちこちに飛ばしながら。

よくよく意識して見れば、風景の中には、いろんなことが書かれているだろう。そうなると、読み取ることもたくさん出てくる。

しかし、ことばはその風景を、そのまま書いたりはしない。ことばは、ことばによる風景を、新たに立ち上がらせるのだ。それは読まれる時間に、その都度、立ち上がる。

そこにはある種の、忘れることのできない歓びがある。

(つづく)

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