批判の風景
今日は予定通りにゆけば「批判に対峙する力」と題された勉強会に参加するはずだったが、ゲストの体調不良のため中止になったので、いつもの(週末の)仕事に出ることにした。
さて、批判というのは、奥が深い。──なんて日頃からぼくは思っているのだが、しかし、実際にその批判とやらに遭うと厄介でもある。また、自分が何事かを批判するということも当然、ある。
ということで、今日はいつも以上にまとまらない話を書こう。
批判することは、批判されることにもつながる。自分が一方的に「批判する側」であることなんて可能だろうか?
何か言うと批判も出てくる。また「何も言わない」ことが批判になることだってある。
批判は、まず"聞く"ということに尽きるんじゃないか、という気がしている。"聞き方"が難しいのかもしれない。自分自身から発せられる批判だって、よく聞いてあげたい。
しかし、よく聞こえない! ということもある。批判とは、「聞こえない!」ということだったりして、とか、そう思わなくもない(だとしたら、まず「いま、よく聞こえないんだな」と思うようにすればいい)。
最近はたとえば(少なくとも自分の場合)SNSを通して、何かを批判している声が、批判される対象(ニュースなど)と同時に入ってくることも多くなった。
そうなると、何かの情報(ニュースなど)が「批判つき」で飛んでくるということになり、自分は批判する側なのか批判される側なのかということをつい意識してしまいそうになる。が、しかし、だ、そんなこと考えてどうする?
「批判していることを批判する」というのも、多く見かけるようになった。批判の批判、ということになる。今朝も、山本太郎による野党批判(と批判の批判をする側は言う)を批判する声がチラホラ聞こえてきていた。
言っていることに間違いがあれば、批判するより「それは間違えてますよ」と指摘すればいいのではないか。本当に間違いなら、相手も納得して「なるほど、間違えてましたね、ありがとう」となるだろう。けれどほとんどの場合、そう簡単ではなくて、あるところから見たら間違いなのだが、別のところから見たら間違いではない、ということもよくあるわけだ。
と、なると、どうか。──こちらから見たらこう見える、あちらから見たらそう見えるんだ? ということが、いろいろあるといいんじゃないか。
批判が全くない世界というのをぼくは想像できないが、もし何をやっても何を言っても批判されないという社会が存在したとして、どうか?
批判も、あるべくしてある、というふうに思うこともある。だから、批判の批判だって、必要なんだろう。
批判は、言われた方にも波を立てるが、言った方には言う前から波が立っている。
どこに波が立っているか。──風景を見るように、それがよーく見えてくればよいのだが。
批判って奴は、難しい。
(つづく)
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