見出し画像

縁はどこかに

縁は尻尾だ、と。つまかえないとダメ。でも、先がどうなってるかはわからない。縁をつかむのがうまいやつは尻尾をつかむのがうまいんだ。たいていはみんな尻尾だと思ってつかまないんだよ。頭をつかみたがる。でも縁はね、尻尾にしかない。(大瀧詠一)

先日、初めての家族3人による小商いを、横浜らいずの「丘の上のマルシェ」でやらせてもらってきました。ウイルスをめぐる状況は相変わらず厳しい中、よく無事に開催できたものだ、と、それだけで拍手喝采。以前のようにコンサートは開けないし、屋内で食事はできず、食の提供ができない(いろんな考え方があると思うけど、行政は相変わらずそこに厳しい)。それでもそれなりに人の出入りはあり、まあまあなんじゃない? と思った。そんなふうに、ぼちぼちやってゆけばいいんじゃないかなあ、と。お会いできた皆様、ありがとうございました。

私は他の出展者(≒出店者)との交流が楽しみで、しかも以前のように出展者も少ない。少ないだけに交流はより深くなる。ほぼ全てのブースで買い物をしてしまい、買い物をしに来たのではないかという感じもしましたが、まあ本当に良いと思わなければ買わないので、とても良かったのだ。

縁というのは無理に掴むものではないかもしれない。勝手に向こうからやって来てくれる。しかし、何もしないでぼーっとしていて来てくれたあというものでもないような気がする。それをかつて私は「なりゆきの作法」という短いエッセイで書いたのでしたが(『音を聴くひと』という本に収録しましたね)、つまり、呼ばれた! と思う、その直感がないと縁も何もないわけだ。

大瀧詠一さんは、縁は尻尾にある、と言っていた。なるほど、たしかに、面白いですね。偶然と思っていた出来事の数々が、その後ろを見てみたら、じつは全てつながっていた、というのが縁ですから。

いま、「水牛」に「『アフリカ』を続けて」という連載を書かせてもらってますけど、何のことはない、「続けて」さえいたら何かしらの縁が生まれて当然なのかもしれない。ただただ、続けていさえすれば縁はどこかに派生する。問題はそれに、いつ、誰が気づくか、だ。

(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?