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広場の真ん中で集まって、立ったり座ったり寝転んだりしながら

いまはとにかく考えていることがどんどん変わってゆく。今日はこう考えた。でも明日にはどうなっているかわからない。これまでの約2ヶ月間、そんな日々が続いている。ぼくの場合はいつだってそうだと言えばそうだが、いまはいつも以上にそうだ。激動してる。

ひじょうに疲れますね。休み、休み、ゆきましょう。

自分は──というと、何か気の利いたことを書くより、何が見えた、何が聞こえた、ということを坦々と書いていたいと思っています。以前からそうだった?(どうか)

自分の書いたこと、考えたことにも固執しないでいようと思う。たまに思うことだけれど、それも、いまはより強くそう思う。言ったそばから修正しなければならなくなってしまうような気がする。しかしだからと言って、考えたり書いたりすることを止めたいとは思っていない。

いまいる場所によって、見えているものが随分違うのではないか、ということもまぁあるだろう。しかしそんな言い方は、どこか他所(違う世界)にいる人のセリフみたいで、ぼくにはしっくりこない。いまは、そんなふうに、いま起きていることを俯瞰するような目を持てずにいる。

わからない。しかし、考える。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。しかし、考える。わからない。

せめて、いま見えている光景を、眺めていようとしている。

いま見えている光景を眺めれば、眺めるほど、なぜか、昔の光景が蘇って来るのは不思議だ。思えばしかし、ぼくは少年の頃、星空を見つめるのに魅せられており、その星々の光に比べたら(何光年というほどは)昔ではない。でもせめて100年くらい前への想像力は働かせたいと思っている。

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さて、横浜での「オトナのための文章教室」に、今年になってから参加している数人が、ここ(note)で、その「文章教室」のことを書いています。とても面白いので、ご紹介させてください。まずは、"MiuraZen"さん。

その、「麦わら帽子の隙間から漏れる光」を朗読して、音で聴かせてくれた"むらさき"さんは、「贈り物としての文章」と題して書いています。

この2人に限らず、最近の参加者たちに共通しているのは、おそらく、何らかのかたちで書かれ(発表された、手渡された、etc.)ものを読むことによって「救われた」と感じられるような体験をしているということだ。

しかもそれは、必ずしも"商品"として売られているものではない。奇跡のような、偶然を経て出会い、聴こえてきた声である。

ほんとうに読みたい、聴きたい、と願う時、その声はスーッと届くのだ。そしてそれを聴いた人の中には、"書く"が生まれる。実際に書くかどうかなんて重要なことじゃない。"書く"が生まれることによって、その人はよく聴こえるようになるし、読めるようになる。

もう少し前になるけれど、2月には、"UNI"さんも書いている。

「やわらかいボールで遊ぶドッジボールみたいな感覚」──そんなことばはたぶん、ぼくの中からは出てこない。この人ならでは、の感覚から出てきたことばだ。眩しい。

ウェブ上で、こうやって書いて、表に出してくれている人は一部なんですが、いま、とても面白くなってきているところで、今回の疫病(の世界的な大流行)が来た。これにも何か意味があるのかもしれない。

いま、ぼくはだだっぴろい芝生の広場の真ん中で集まって、立ったり座ったり寝転んだりしながら読みあって、気持ちよく声を出して話して、というような文章"青空"教室を夢想している。雨天中止になりますけど、遠足みたいで、それもまた愉し?

ウィルスという存在を、ぼくはあまり意識して生きてこなかった。その何とかというウィルスと、付き合いながら(程よい距離を保ちながら)やってゆく術はないものか、と考えているのだ。

というわけで、いまはとにかく考えていることがどんどん変わってゆく。

(つづく)

あの大陸とは“あまり”関係がない道草の家のプライベート・プレス『アフリカ』。読む人ひとりひとりの傍にいて、ボソボソ語りかけてくれるような雑誌です(たぶん)。その最新号(vol.30/2020年2月号)、ぼちぼち販売中。


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