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見えるから観えないものと、見えないから観えるもの

息子と、時々やる遊びに
「もしも、〇〇だったら・・・」という【なり切り遊び】があった。

例えば、お散歩中、こんな感じで始まる。

「ねえねえ、アリになったら、このタンポポって、どう見えるのかな!?」

「茎が、こーーーーんなに、ぶっとい柱みたいだよね!」

「黄色い花は、めっちゃくちゃ広い絨毯かな!?」

「水たまりは、大きいプール、いや、海かな!」

眼をキラキラさせて、アリになったつもりで
世界を探検する。

と、その時

そのやりとりを聞いていた小学生の甥っ子が、衝撃の一言を放った。

「アリって、目がよく見えないんだよ」

そ・そ・そうだったのか・・・!!!

人間の眼で観えている世界を、
単純に大きくしたような世界が、
小さなアリの目の前に広がっているとばかり思っていた。

そんなことも知らないのか、と、
小ばかにする小学生の前に、

母親のメンツ、丸つぶれである。

その後、この【なり切り遊び】は
昆虫の習性をザっと調べることから
始めるようになり、

手間がかかるので、いつの間にか、あんまりやらなくなった(笑)

【目の見えない人は世界をどう見ているのか】

という本を読んで、そんな【なり切り遊び】を思い出した。

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目の見えない人の、世界。

今の自分の世界の感じ方から、
【視力】を奪われた状態、だと考えてしまう人が
多いのではないだろうか。

少なくとも、この本を読むまでの私は、そうだった。

しかし、
この本に登場する【目の見えない人】が体験している世界は、
私の想像とは全く違っていた。

それは、いうなれば、

【なり切り遊び】でやっていた
世界を大きくしたり、小さくしたり、
というような単純な変化ではなく、

もっともっとダイナミックなパラダイムシフトだ。

本の中で紹介されていた、
四本脚の椅子と、三本脚の椅子の例えが分かりやすい。

四本あったはずの脚が、一本欠けてしまったら、
バランスが取れなくなる。

しかし、もともと、三本でバランスしている椅子だったのなら?

途中で目が見えなくなった人の場合は、
バランスを取り直す必要がある。

それまでの期間はもちろん
大変なのだとは思うが、

要するに、そういう事、らしい。

そして何より衝撃だったのが、

私たちは、観えているゆえに、
視点に制限されてしまう、ということ。

【視点】があることにより、
【死角】生まれるからだ。

【見えていない人】には
死角は存在しない。

加えて、残念なことに、
私たちは【勘違い】しまくって世界を認識している。

例えば富士山と言ったら、
【見えている人】は台形の形を思い浮かべる。

しかし、【見えていない人】は?

なんと、円錐の上部が切り離され平らになった立体を
富士山として思い浮かべるのだ。

どちらが正確に富士山の形を認識しているのか、と言えば・・・
言わずもがな、【見えていない人】だ。

【見えている人】が
いかに【見えているつもり】になっているのか。

【見えていない人】が、
いかに【観ている】のか。

ちなみに、
【見えていない人】を、全て一括りには出来ない。

個別固有の世界とのつながり方をしているので、
あくまで一例として読んでほしいと、
著者の伊藤亜紗さんが、注意深く念押しをしてくれている。

この本に登場する数名の
【見えていない人】の世界を
ぜひ、疑似体験してみてほしい。

読み終わるころには、
そこに居るのは
【障害を持った人】ではなく
【今までとは違う世界を案内してくれる人】になる。

手を貸さなくてはいけない人、ではなく、
手を取り合う事で、新しい世界に導いてくれる人。

それが、【目の見えない人】なのだと感じられる本だった。

ここまで書いて、気が付いた。

住んでいる世界に優劣は、ないのだ。

隣の人が持っているものを、
自分が持っていないから、と言って

自分が持っているものを、
隣の人が持っていないことも必ずあるのだ。

見えているが故に、【見えていない】事があり、
見えていないが故に、【観えている】という事があるのだから。

え、じゃあ、

劣等感とか、本当に、要らないよね。

ただ、違いがある、だけで。

どんな世界に居ようが、
必ず、そこには最適なバランスのとり方、というものが
あるはずで、

適応することができればいい。

【世界とは、このようにあるべきだ】
という事に囚われなければ、

私たちは、暗闇の中でも、
柔軟に生きられる生き物なのだ。


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