共感主義を捨てられますか?

多様性を認める。それは価値観という視点では、未知の価値観、あるいは、受け入れ難い価値観を認めることだと考えていた。だが、自分に根付いた価値観を捨てることもまた多様性を認めることにつながらないか?そう思った。これに同意してくれる人は少しはいると思うのだが、では、これが「誰もが認める価値観を捨てる」となるとどうだろう?こんな考えを持ったのにはきっかけがある。僕は株式会社コルクが運営する「文学の森」と言うコミュニティに入会している。このコミュニティでは作家の平野啓一郎さんがナビゲーターを担当され、平野さんの話を聴く機会があるのだが、ある時、『「幸福」と「健康」の追求は現代の日本社会で否定し難い価値観だ。』というような旨の話をされた。話を聴いた後にそのことについて考えていると、それでは、「共感」という価値基準もまた日本では否定し難い価値観ではないのかとふと思った。僕たちは何かに好感を抱く時、共感出来ることを理由に挙げる場合がある。この共感出来たことで好感を抱いたという経緯を聴いて、変な理屈だと思う人がいるだろうか?恐らくいない。いたとしても問題視などしない。ところが、多様性を認めなければいけない社会においてこの共感出来るから好感を抱くというメカニズムは厄介な存在になるのではないか。なぜならこの法則を踏まえると共感出来ないから嫌悪感を抱くという理屈も逆説として成り立つからだ。これでは未知の価値観や受け入れ難い価値観を認めることは難しくなる。こと日本において、共感出来るという論拠は好意についての強い説得力たり得る。もし他の国に比べこの共感性への依存度が高いのであれば、日本は多様性を認め難い文化を持っていることになる。嫌悪感を伴う対象を受け入れるのは容易ではないからだ。日本と多様性の親和性が低いという話は以前から聞いていた。それは民族国家の歴史が多様性への拒絶心を高めているという説明だったが、これからは民族国家としての日本は解体されていく、多様性を認める意義はますます大きくなる。それは何か悲痛な事件をきっかけに意義から必要性に変わるかもしれない。何かの犠牲があってから「多様性を認めることが大切だと口にする必要性」から「多様性を認める意識改革の必要性」を語り出すのでは遅いので、たらればの話にはなるが最後にこう疑問を残したい。共感文化なのか共感主義なのかわからないが、もしそれが多様性を受け入れるための足枷になると言われたら、あなたは共感主義を捨てられますか?

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