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スーパーフラットライフで伝えたかったこと

4月3日と4日。Harumari TOKYOとしては初のオンライン演劇「スーパーフラットライフ」が上演されました。これまでカルチャーメディアとして様々なイシューを発信してきましたが、なぜオンライン演劇?なぜ「異性愛者の同性婚」というテーマなの?について備忘録的にnoteしたいと思います。

あ、こんにちは。今日の担当は編集長のしまざきです。

スーパーフラットライフとは?

「異性愛者の同性婚」をテーマにジェンダー、セクシャリティなどをフラットに考え、自分らしい結婚観、自分らしい生き方を見つめ直してもらうための演劇プロジェクトです。
いわゆる“普通の結婚観”をもつ主人公のエリが、コロナ禍でオンライン結婚相談所「スーパーフラットライフ」を訪れ、そこで事実婚や別居婚といった多様な結婚形態、LGBTQ+の人たちの結婚観などに触れながら、エリにとっての結婚を模索していく物語です。

と書いてしまうとヘビーに感じるかも知れませんが、ドラマとして、エンターテインメントとして気軽に楽しめるストーリーになっていて、さらに「多視点オンライン演劇」という新しい表現形式に驚きを持って没入してもらえる作品に仕立てました。

多様性を認めるって難しい

LGBTQ+やジェンダーエクイティについて、その「人権」を認め、主張することにモーレツに反対する人って個人の単位では少ないと思います。多くの人が「反対はしていない」という中で、それでもモノゴトがよりよい方向にすすまないのは、反対はしていないけど、目の前で起こっている課題や現実に「関わらない」人たちが多いことに他なりません。

ほとんどの人が「あなたは多様性を認めますか?」と聞かれたら「認める」と答えるでしょう。でも、実際の所は、「私は私、他は他」という距離を置いた上で、自分とは関係ないことだから関わらないという意味で容認するということなんだと思います。
「ま、いんじゃない?(私には関係ないけど)」
という心持ちです。

それはそれで、妨害したり反対するよりかはもちろんいいのだけど、こういうスタンスの人たちが「世間」や「空気」といった目に見えない同調圧力に(間接的に)加担することになり、マイノリティの存在をより「異質」な存在にしてしまっているという現実もあります。

まあ、いじめとかもそうですよね。いじめは「いじめる人」と「いじめられる人」の二軸だけでなくって、そのいじめを見て見ぬ振りをする多くの人たちによっていじめという現象は構成されている、という現実があるように。いや、いじめの例えは極論過ぎますね、すみません。いずれにせよ「関与する」ということにはエネルギーと確信が必要で、それぞれの日常を生きている僕たちは、その日常に影響を与えそうな現象には距離を置くことで無意識のうちに自己防衛しようとする心理は多かれ少なかれあると思います。

結果、自分では「多様性を認めている」と自認する人たちは、実は、「自分には関係ない」として距離を置くスタンスを取り、多様性は埋没されていく、ということ。

でも、仕方ないと思います。

だって、分からないんだもの。自分はゲイやレズビアンではないし、性別やセクシャリティについて疑問に思ったことすらない。自分が「当たり前」とおもっていることを、疑っている人、自分の「当たり前」に抗っている人たちを前にして、「なんか、よくわからないけど、ま、いんじゃない?」というしかないですよね。自分がもっている「当たり前」を壊したり、再構築するのって、結構メンタル的に大変です。なんとなく不安になるものです。

さらに「応援しよう!」「より良い社会のために頑張ろう!」というかけ声に賛同したり、具体的なアクションを起こしたりしたいか、といわれると、やっぱりそれも難しい。「いいね!」ボタンを押すくらいはできるかもしれません。でもそれ以上は…。だって、本当に理解していないことに対して前のめりになって、持続するって相当なモチベーションとエネルギーが必要ですから。

当事者意識の難しさ

今回、主演して頂いた秋元才加さんは、こどもの頃から身近なところにトランスジェンダーの方がいて、自分の人生や生活に、そうしたセクシュアル・マイノリティの存在が小さからず関わっていたことを語っています。やっぱり、自分に近いところでそうした事象が起こらない限り「自分ごと化」するのは難しいし、彼女の発言は、社会のためである前に、目の前にいる大切な親しい友人・知人のため、という動機付けにもなります。

【俳優・秋元才加さん】出る杭が打たれない社会に。多様な結婚観を提示する演劇「SUPER FLAT LIFE」上演を終えて、思うこと。

では、そうした接点を持っていない僕も含めた大多数の人たちは、動機付けも、自分ごと化もできないのは仕方がないので、ゆっくり、じっくり世の中がより良い方向に向かっていくのを傍観するしかないのかなあ、でもHarumari TOKYOというメディアとして、なにかできることはないのかなあ、というのが僕自身も含めた編集部の悩みでもありました。

社会活動の難しさ

世の中をより良くするために人々が集まって声を大にして主張していくことはとても大事です。明治維新だって、1960年代の学生運動だって、志の高い人たちの声が集まって、社会を、日常を変えていったわけですから。

そして、議論も大切です。誰かが「より良い」と思っていることは、必ずしもすべての人にとってのハッピーとは限らない。LGBTQ+の多様性を認めることは多くの人にとって「より良い」はずですが、「今」のシステムや社会を構成する人たちの一部にとっては短期的には不都合なこともあるかもしれないし、新しい社会にすすむことによって一時的な弊害もでてくるかもしれません。そういう点で、沢山の人と議論を重ね、相互理解と現実的な解決策を一緒に考えていくことも必要です。

SNSでは議論にならない

議論と言えば、オープンにみんなが意見を出し合える場としてSNSがあります。
でもねぇ、ぜんぜん機能してないんですよね、SNSって。
どうしても「ゼロイチ」「賛成か反対か」になってしまう。お互いがお互いの持論を発信し、相手の意見を潰そうとする、その繰り返ししかうまれない。
それは、芸能人のささやかなつぶやきが、壮大な揚げ足取りの炎上祭りになってしまうという、ここ数年のSNS現状をみていれば、みんな納得、そして絶望している部分だと思います。

なんででしょうね。SNSって平和をもたらすツールにはならないんですかね。
関連する動画としてこちらの堀江さんの番組はとても示唆に富んでいます。

保守とリベラル、全ての多様性を奪ったSNSの功と罪【東浩紀×ホリエモン】

世の中をよりよくするためにメディアが出来ること

Harumari TOKYOで、LGBTQ+を特集しようと思ったときに、まずは、この分野における新しいカルチャーや生き方を実践している人たちを取材、紹介しようと思ったのですが、なにをやるにつけても、炎上リスクにびくびくしたり、あるいは、そうした「先進的な」ことがらを記事にすればするほど、そうでない人にとっては「別世界」に見えてしまう。「へー、そんなトリッキーな人も(ことも)あるんだー」で終わってしまうという懸念と絶望を感じていました。
この分野は、自分のライフスタイルの延長で捉えることが難しく、記事にすればするほど自分との「違い」を際立たせてしまうように思ったんです。

ほんと、メディアっていま無力なんですよ。その無力さの中身と、危機意識を語るだけでnote何本分にもなってしまうので割愛しますが、個人ではなく、志とプロ意識と世界観を持った集団であるメディアの編集部が情報発信したからと言って、ネットの世界では無数の発信者の1つでしかないし、個人の方がコスパがいいし、でも、メディアにしか出来ないこともあると思ってやり続けてはいるんですが。

とにかく、WEBマガジンの記事というのは、本当に難しい。雑誌であればページネーションとか、リニアなつながりのなかでじっくり言説をうちだせる。でも、ネットはどんだけ頑張っても、およそ数十秒の読者の可処分時間の中でしか表現しきれない。

「みんな違っていい」じゃなくて「みんな同じ」から始まること

よく「個性」とか「自分らしさ」を謳歌するかけ声のひとつに「みんな違っていい」という意識をもちましょう、みたいな話があるじゃないですか。僕はそれ、半分は正しいけど、ほとんど間違っていると思います。

違いを意識すると、距離が生まれてしまうんです。違いを容認する方法は結構難しくって、ほとんどの人はその違いに無関心でいることで対処せざるを得ないんです。「優しい無関心」とでもいう心持ち。
自分の価値観やライフスタイルの中に違いを内包しつづけるのって、「違和感」を抱えながら生きていくようなもので、それはもやもやしっぱなしの毎日になります。だから距離を置くしかない。
だから違いを認めるの「認める」という適切な方法論が必要なんです。それは、違いとは逆の「同じであること」に気付くことだと僕は思います。

簡単に言えば、「白人も黒人も黄色人種もみんな同じ人間じゃないか」。というような発想です。違いのある価値観や背景に対しての共通点を見いだしてはじめてその違いを“安心”して受け入れることができるし、相手の立場を思いやる気持ちになれるんだと思います。

でも「同じ人間」というのは理屈ではそうなんですけど、それだけではピンとこない。むしろ正論すぎて、それ以上でも以下でもない思考になってしまう。もっと「みんな同じ」ということを心の深い部分にまで浸透させる方法はないのか?

共感は理屈ではなく感情移入から生まれる

そこで、「ドラマ」だったんですね。
まず、いきなり現実だったり議論だったりすると、自分と現実との乖離とか、同じ論点を探すことの難しさとか、もともと「関心のないこと」であればあるほど、議論って前のめりになるのが難しい。でも、ドラマ=フィクションだったら、「感情移入」という回路を持てる。相手の立場や気持ちを理解するときは理屈よりも想像力。想像力を最大化するのはストーリーテリングだ、と思ったわけです。
なので、このテーマを記事だけではなく、ドラマもやろうとおもったのです。

そして、テーマを「結婚」にしました。
同性愛者の同性婚は、目下の社会課題ではありますが、それを「Yes or No」という意見を求める前に、同性愛者だろうが異性愛者だろうが、そもそも「結婚」自体の定義が曖昧で、多様性に満ちているものだ、という現実への気付きからはいって、「結婚」というワンテーブルで、みんなで議論できる場があれば、結果「違う」と思っていたLGBTQ+の存在の中に、「同じ悩み」「同じ希望」「同じわからないこと」といった「同じ」を見いだすことができるのではないかと。

だれでも、仲良くなるにも共通点ってあったほうがいいし、違いしかない人より「同じ」を共有できる人の方が、信頼したいと思えるでしょう。

スーパーフラットライフで描きたかったこと

今回のドラマは、結婚の「当たり前」についてフィクションを通じて疑い、その本質を考え始めることで、セクシャリティの違いを超えた「同じ結婚の悩み」「同じ結婚の希望」の存在に気付いてもらうことを目指しました。

違いを認めるために同じに気付くこと
その視座転換をうながすクリエイティブに挑戦したのです。

その結果はどうだったのでしょうか。
リアルタイムで寄せられたコメントや、SNSの反応を見る限り、僕たちが願っていた方向になっていった気がします。

スーパーフラットライフのSNSの反応はこちら

みなさんの反応を見る限り、結婚の当たり前を疑い、自分にとっての結婚観を考え、その上で多様な価値観に耳を傾け、「同じ」部分や共感できること、自分とは違うことをフラットにみつめていただく機会になっていたのではないでしょうか?

僕たちは、別に先頭に立って世の中を変えたいとは思っていません。世の中をよりよくするためのブレーキにならない方法を提示するくらいには社会に貢献したいなと思っています。

このドラマを視聴し、この思考プロセスを経ることによって、LGBTQ+の人たちが何に悩み、何に希望を持ち、何と戦い、それに対して社会がどうあるべきか、「(私には関係ないけど)ま、いんじゃない?」以上の自分ごと化にむけた第一歩になっていれば、この上なく幸せです。

さて、今日はこの辺で。

次は、「スーパーフラットライフ」という作品について深掘りするnoteを書いていきたいと思います。

脚本、ストーリーについて
それから「多視点オンライン演劇」という新しい表現を実現した裏側についてお届けしたいと思います。


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