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亡霊のアキレス腱

 浮世を彷徨う記憶の亡霊は文章にすると成仏する気がしているので、今さら言っても面白いことはないが、前進するために書いてみようと思う。
 小学6年の冬、不登校になりかけた時の記憶だ。

 あの頃、6年生を送る会が間近に迫っていて、毎日練習に追われていた。来る日も来る日も組体操の4段タワーとソーラン節と合唱の練習をやらされていた。わたしは平成生まれのゆとり世代だが、わたしの通っていた小学校は時代とは逆行していて、地元では軍隊と呼ばれていた。今でも小学校の名前を聞いて思い浮かぶ四字熟語は、一致団結・集団主義・連帯責任の3つだ。いつ何時、先生の怒号と鉄拳が飛んでくるか分からない。令和では絶対に考えられないタイプの学校であった。
 昼休みも放課後も、自由参加とは名ばかりで強制的に「練習したい」「させてください」と言わされ、精神と肉体を酷使していた。全体の意志に逆らおうものなら、先生以前にクラスメイトから総スカンを食らう。あるいは、上級生が教室に乗り込んで「おまえらそれでいいのか?」と教え諭しに来る。マジかよと思うがマジである。
 そこまでの異分子はいなかったからこれは予想でしかないが、逆らったらたぶん、異端児を改宗させ、みんなに従わせるための学級会が開かれて、踏み絵を踏むまで吊し上げられたりしたんだろうなぁと思う。“地獄へようこそ”的環境だった。

 その頃のわたしはすでに集団行動を毛嫌いしていたが、生来曲がったことが嫌いで規則を忠実に守る堅物な性格をしており、昔は勉強も得意だったので、一部の面においては学校の厳格さとも相性が良く、大まかな括りで言えば結構優等生であった。
 球技が異様に苦手だったので下手すぎて叩かれたことはあるが、先生からもわたし個人に対しては特に厳しくされた記憶はない。国語で文章中の分からない言葉の意味を調べてくる宿題を忘れたことがあったが、全員立たされこっぴどく叱られる中、わたしは「分かるだろうと思って調べなかったら分からなかったからやっぱり調べるべきだった」みたいな無理のある弁明でも切り抜けられたくらいには真面目な生徒であった。

 人間関係にも問題はなかった。女子特有のグループ行動みたいなものとの相性は悪く、趣味でもその他の言動でも何となく周りから浮いてはいたが、そのことで不利益を被ったことはそこまでない。集団になると嫌いなだけで、個人としては誰とでもうまくやれていた記憶がある。この違いは何なんだろうと不思議だった。
 でも、学校のやり方にあまり良い印象を持っていない子達の方が好きだったし仲が良かった。同じ中学に行きたかったが、わたしなどより成績が良い彼らはだいたいみんな中学受験を控えていた。受験する子達は、理由はよくわからないが先生からいつも嫌味を言われていた。地元の中学へ進学するわたしは「なんか変なんじゃないのか」と思いながらも、当事者ではないからただ見ているしかなかった。

 ややこしい人間模様に全然興味がなかったので、仲良くしたいと思えば男女問わず誰とでも普通に仲良くしていたが、ある友達から卒業式の日に「仲間外れにしなかったのはあなただけだった」と真面目にお礼を言われて、「ええ…? そこまで大変なことになってたの?」と驚いた。わたしはその子と仲が良くて好きだったから、それ以外は何も考えていなかった。今振り返ってみると、無関心さを責められるならともかく、感謝される謂れはないように思う。とにかく人の心の機微に鈍いぼんやりした子どもであった。
 その子は、変に気を遣うでもないわたしの適当さに感謝してくれていたから、きっと間違ったことはしていなかったはずだが、友達に対して冷淡すぎたんじゃないかとずっと悔やんでいる。いじめる心理は分からないけど、きっと孤立させやすくて反撃しなそうな方を狙ったんだろうから。中学もそんな感じだった。道理に反するようなことはしていないと思うが、他者への興味が薄く、決して友達思いではなかった。もっと想像力を働かせるべき局面が山ほどあったなぁと思う。

 とにかく、どこも問題なさそうに思える鈍感なわたしが突然体調を崩した。咳が止まらなくなったのだ。そして微熱が出て早退する。そのまま病院へ行っても、どこにも問題はない。医者からは精神的なものでしょうと言われるし、わたしの成長過程を見てきた家族もまあそうだろうと納得する。
 今振り返ると「そりゃ学校と先生のせいだろ〜〜休め〜〜」一択なのだが、当時のわたしは先生を嫌ってはいなかった。自分の通っていた小学校が普通だと思い込んでいたのもあるが、授業が分かりやすくて面白かったので嫌う理由があまりないように感じていた。あの時のわたしの中では「先生=勉強を教える仕事の人」だったから、授業が面白いかどうかが好き嫌いの第一基準だった。
 どう考えても体罰の理不尽さを好悪の基準に含めるべきだったが、それはなんかそういうものなんだろうと思っていた。自分はたまたまうまくやれていたから、理不尽を具体的な対象ではなく、抽象的な空間全体に見出していたのかもしれない。

 当時のわたしが嫌っていたのは、あくまで「先生の前でだけ良い顔をするようなズルい子達がクラスを仕切っていて、その子達に従わなくてはいけないこと」であった。でも、わたしはいじめられてもいなかったし、客観的に見れば不満を感じる理由がどこにもなかった。それ以前はどちらかと言えばリーダーシップを取りたがる子どもだったので、仕切る側の快楽を理解できてしまうことの方が嫌だった。
 どう考えても気分次第で怒ったり良い加減な評価をする先生こそ理不尽でズルくて、めちゃくちゃな環境だったが、小学生の頃はそこまでの視野は持てなかった。自分に自覚できた範囲でしか気持ちを説明できないから、それだとあまりに小さなことに躓いていて、人に理解してもらうことは難しかった。

 しっちゃかめっちゃかな悩み方をしていたために自分が挫折したきっかけはよく分からないのだが、突然、学校が怖くて嫌でたまらなくて今までのように登校できなくなった。
 6年生を送る会に参加していないのはわたしだけである。それで正解だったと思う。
 でも当日の朝、行くか行かないかを階下から聞かれて、咳き込みながら無理だと答えた時の情けなさは今でもよく覚えている。階下から声をかけられるのは今でもドキッとして苦手だ。
 行事が終わってしまえば普通に登校できるようになり、誰も問題にしない、なんてことのない個人的な出来事のひとつとなったが、わたしは片時も忘れたことがない。他の人からしたらくだらないかもしれないけど、明確な理由を説明できないまま躓くことが本当に恐ろしい。
 あれだけ一致団結とかクラス皆でとか言っている割に、わたしがいなくても別に「全員の思い出」には影響ないのだなあと思った。それ以降のわたしはなおさら捻くれたことしか言わなくなったが、布団を被って泣いていた時、本当は皆みたいにやりたかったし、誰かと何かを共有したかったのだと思う。

 今、あの時のわたしに会いにいけたなら一体どうするだろう、と考えることがよくある。たいていの心身の不調は、当時と似通った感覚で、あの頃の延長か同じ繰り返しのように感じるからだ。
 心が弱いわけではないと信じて欲しい。理由なんかなくてもわたしの感覚を信じて欲しい。己の内面的欲求はいつもだいたいこの2つだ。それは自分でもよく自覚している。
 こんな風に小学生の頃を思い出して過去の願いを叶えてやることなら簡単に出来るが、リアルタイムで実行することがこれほど難しいとは。亡霊のアキレス腱ときちんと向き合うべき時が来たんだろう……。


 というわけで!今日は!仕事!休んだ!ぞ!心が!ちょっと!軽い!

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