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ふしぎに思うこと

 前からふしぎに思っていることがある。
「やらない善よりやる偽善」という言葉。

 なぜ「善」と「偽善」を対比関係にするのかがふしぎでならない。

 たしかこれは『鋼の錬金術師』に登場するロックベル夫妻が敵味方の区別せず戦地で医療行為を行なっていた時に、それは偽善だという非難に対して答えた時の台詞だったと思う。(他にもあるだろうけどわたしはハガレンで記憶している)

 ロックベル夫妻は、なにも「善」を成そうと治療にあたっていたのではなく、ただ「悪」を許していなかったから、悪以外なら何でも構わなくて「偽善で結構」という態度をとったんじゃないのか。

「やらない善よりやる偽善」は、信念が非難よりも先に存在しているから言える言葉であり、それ自体が信念になる類の言葉ではないとわたしは考える。

 なのに、非難を受ける前から言ったのでは、たんに周りに対して予防線を張っている態度が示されるだけで、なにか意志表明として機能するようには思えない。ひとを「善/偽善」の行動へと突き動かすものは、本来「悪」に対する怒りや恐れなのではないか。
 それとも世間体なのか。規範意識か。
 善意に真偽を問う後ろめたさの正体はなんなのだろうとふしぎに思う。

 善と偽善は見方によっては同義で紙一重かもしれないが、善と悪のあいだにはもっと根本的な隔たりがあるのではないかと思う。
 正義/悪であれば、単純に二分化できない複雑で流動的な概念のように感じるが、善/悪はもっと普遍的かつシンプルに善/悪で捉えられそうな気がする。どうなんだろう。

 どうしてもっと「悪」を問題にしないのだろう。

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