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青い空に祈る


 休職して時間ができた。いつものことなんですけどよくツイッターを見ている。

 目に飛び込んでくるのは、虐殺された人の身体、手足があるはずの場所に何もなく剥き出しになっているベッド、白い布で巻かれた遺体を抱きしめる人の涙、患者でいっぱいの病院の床、空爆で破壊された建物、廃墟と化した街などである。
 働いていた時は自分のことが手一杯で、ニュース記事になっているものは読んでいたものの、それ以上深く現地の情報を追ったりはできなかった。

 今わたしは会社を休み、苦痛から切り離された生活を送っている。それ自体はしょうがない判断だったはずだが、わたしなどとは比べようのないほどの苦痛が溢れている。自分のしていることが分からなくなってしまった。
 わたしは外国語がからきしだが、現地の報道で使われている単語は限定的であるから、英文なら翻訳ボタンを押さずともすぐに意味を取れるようになった。それだけ何度も繰り返されているのだ。

 画面の向こうには、己の身も安全ではないのに、人間だけではなく傷ついた動物の手当てもしてあげている人がいた。親を失って泣く少年に自分の上着をかけてやる男性もいた。砂漠地帯はいつでも暑いようなイメージでいたが、今の季節は凍えるような寒さだという。
 きっとこのような連帯は、誰もが同じように多くのものを奪われ、等しく理不尽な痛みを味わったことがある証拠に相違ないと思う。

 一方で、病院に避難していた人たちを重機で轢き殺し、生き埋めにされた遺体を猫が食べているという報道も目にした。意味がわからなかった。
 非人道的な行為の背景を理解したくないが、きっと一度でもこんなことをしてしまったら、なんらかの形で正当化し、倫理観を歪め続けない限り生きていけないだろうとも思った。

 わたしは人間性を失わずにいられるんだろうか。人間性って何なんだろう。ここにいるわたしって何なんだろう。
 あたかも自分は正しさを知っているかのようだが、今現在自分が身の回りの人たちにかけている迷惑を棚に上げて、考えごとばかりしているわたしは正しくはないだろう。わたしはもともと生活や感情のピント調整が下手だが、ぽつんと家にいると遠近感が狂う。

 ただ、殺戮は絶対に間違っている。人間を人間扱いしないことが正当化されたり、許されてよいわけがないと強く思った。

 戦地で人の死や痛みを撮影し、世界に伝える人は文字通り命懸けである。家族ごと標的にされているとも聞いた。けれど、身内の死を悲しむ時間もなく、ありとあらゆる死を報道する。負傷して包帯を巻かれていながら、これほど力強い腕を持つ人は見たことがないように思った。
 そうして伝えられた情報を画面越しに受け取って、ただ見ることしかできないわたしはどうしたらいいのだろう。どう受け止めて、どう扱ったらいいのだろう。

 例えば事故の現場などでスマホのカメラを向ける野次馬がいて、わたしはそういった軽々しい行為を醜悪だと感じる。
 でも、誰かが命を懸けて一人ひとりの尊厳を訴えるために報道したものを、何かの片手間に流し見るただの情報にしてしまったら、わたしが嫌悪感を抱く野次馬とわたし自身の行動の間に違いがあると言えるのだろうか。

 わたしは現実に即した物事が全般的に苦手なので、特に政治経済については門外漢であるし、歴史や文化の理解も浅いが、生きている人間だ。どうせ自分にとっての善を見つけることしかできないのだから、せめて良心を失いたくない。でもそれって一体何なんだろうということを最近よく考える。

 一刻も早い停戦と平和を祈る。

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