プロミシングヤングウーマンを観た感想

プロミシングヤングウーマンを観た。
公開は2021年で、その当時の自分にはきっと辛いだろうなと思い、映画館でポスターを見たり、ネット上の感想をさらっと見ただけで終わった。
ずっと見たい気持ちはあったものの、転職など他の生活の要素に割くメンタルのキャパ比重が高い状況が続いてなかなか配信も見れずにいたけれど、先日長期間で取り組んでいた仕事の目処がつきそうで気持ちが少し楽になったのもあり、金曜日の夜の高揚感の後押しもあってネトフリで配信を見た。


https://www.netflix.com/jp/title/81035544

キャシーの悪になりきれないままならなさ

キャシーの復讐の矛先はバーでひっかかる男性だけではなく、かつてニーナの証言を信じようとしなかった女性たちにも向けられる。けれど、ホテルのレストランで泥酔させた同級生に対しても、当時大学の相談窓口としてニーナの件に当たった教諭の娘に対しても、結果として暴力や危害は加えていない。
キャシーは決して非道で血も涙もない復讐魔ではない。優しいのだ。胸糞悪くなるような悪事を働けるほど悪になりきれない。けれど、そんなキャシーの他者への優しさは、作中では彼女自身に向けられることはなかった。強いて言うなら、ライアンと付き合うことを自分に赦したことくらいだろうか。

十字架を背負い続ける罪の意識

ニーナの母親との会話で「あの時、一緒に行っていれば」とキャシーが弱々しい声で後悔するシーンがある。字幕がないと聞き取れないかもしれない、それくらいか細い声で。それまでのキャシーの話し方とは異なっていて、キャリー・マリガンの演技と役の解釈に感動したシーンでもあった。
このシーンで、キャシーは何よりも後悔しているのだと思った。事件が起こった日に、ニーナと一緒にいなかった自分を、誰よりも責めているのだと。
彼女の復讐や怒りは、女性を性欲の捌け口としてしか認識しない男性や、性暴力の被害を訴えても信じようとしない人々にだけではなく、キャシー自身にも向けられている。だから、悪になりきれないのだ。全てを他責にして自暴自棄になれていたら、もっと違った復讐劇になっていたかもしれない。

すべてをキャシーになすりつけるな

あらかじめ断っておくけれど、これは決して脚本への文句ではない。
ニーナの訴えを取り下げるべく尽力した弁護士の男性や、かつての同級生に向けての感想だ。
許すことは簡単ではない。時と場合によって、許してくれと乞うことは、許されたい側の我儘だと思う。許してくれと乞うことは、意思決定のボールを相手に渡してしまうから、ボールを渡せる側としては当然楽になれる。
けれどボールを渡された側はどうだろう?
作中で何度か、許してくれと願われるキャシーは許さないといけないのか?許せばニーナが戻ってくるわけでも、事件にまつわる全てが明らかになり公的な裁きを受けるわけでもない。許したところでキャシーに残るものは何だろうと考えたところで、キャシー自身を責め続ける悔恨の念だけだと思うと、そんな都合の良い話ないだろうと思ってしまう。

ちなみに弁護士の男性と大学の教諭の女性の設定や役回りにはハッとさせられた。女性だからといって必ずしも女性の味方になるわけではないし、男性に対しても同様のことが言える。これは決して、女の敵は女という手垢がもうたくさんついたことを言いたいわけではない。女性も男性も、前提として個であるため、個の意思や選択が性別に結びつけられ論じられる場合は、そもそもの前提条件が違ってるのだ。
あの弁護士は男性だからニーナに対する自らの行いを後悔したわけでも、あの大学共有は女性だからニーナの証言を信じなかったわけでもない。それぞれに個の選択だったわけだが、この男女の対比にハッとさせられたのは私だけだろうか。前半部分を通して、「男性」という曖昧で大きな集合体への怒りと憎しみを持ち始めていた私は、このシーンで自らの短絡さを反省した。

さいごに

アトロクのムービーウォッチメンでライムスター宇多丸さんが男性側からの感想を話していて、とても良かったので聞いてください。

宇垣さんが『過去の自分は果たして性暴力の被害者に対して、冷ややかな目線を向けたことが本当になかったと言えるだろうか』と自らを顧みたと言っていて、この言葉は私にとってもぐさりと刺さった。

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