『秘密の森の、その向こう』


見終わってすぐに(美しいな)と心のなかでため息を吐いた。
2020年公開の『燃ゆる女の肖像』が印象的だったセリーヌ・シアマ監督。
その次に日本で公開されたのは『TOM BOY』だったと思うが、タイミングが合わずで観に行けなかったので、私が観れたのは今作で漸く2作品目。
たった2作品しか観ていないけれど、彼女の作品に漂う穏やかな静寂にひどく胸が打たれた。

誰かの『母』『娘』の前に『ひとりの人間』であること

人は色々な顔を持ちながら、日々を送る。主人公ネリーの母親で
あるマリオンの場合、『母』であると同時に『娘』でもある。そして往々にして私はそのことを忘れ、自分の母に対しても『母』というフィルターを通して見てしまう時があり、その度にひどく反省する。
マリオンがネリーと同い年の姿で現れることで、ネリーにとって『母親』であった存在が『マリオン』という名を持った個に変わる描写に、だからこそ心を強く打たれた。『母』である前に『人』であるという当然のことに私が気づいたのはここ十年ほどのことで、ネリーは8歳にしてそのことに気づき、呼び方も『ママ』から『マリオン』へと変化する。最後のシーンでマリオンがネリーを抱きしめるシーンは、母を喪ったマリオンがネリーの前で強がるのをやめたようにも見えた。

人と人という土台で話すネリーとマリオン

もう一つ印象的だったのは、子供の姿のマリオンとネリーが、大人のマリオンが家を出ていったことについて話しているシーン。
正確なセリフは忘れてしまったのだけれど、ネリーが子供のマリオンに対して大人のマリオンの話をする時、人称を"Tu"にしていることで、ネリーの中ではマリオンの存在は過去未来の文脈で途切れておらず、未来の母であるマリオンも目の前のマリオンも同じ存在として受容しているのだと感じた。それはある意味、母親であるマリオンを『マリオン』として、1人の個として受け入れているともとれる。
先ほどと話は重複するが、『母』というフィルターを物語によって自然に取り払ってしまう描き方が美しいと思った。

結論、書いた文章はすぐに投稿しろ 

 上記の感想を書いたのはおそらく2ヶ月前。
ずっと下書きに埋まっていて、あまりにも可哀想だったのでお焚き上げをここでします。それにしても本当に美しい映画だった。
来年もたくさん映画を観たいです。


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