『フーガはユーガ』感想文
以下の文書は読破後すぐに書いたものですので、文章表現の拙い部分や文脈がバラバラな部分が発生すると思います。それでも読了して頂けると幸いです。
全ての人がハッピーエンドで終わる人生を送っている訳では無い。
人間誰しもが自分の犯した過ちや後ろめたい、消し去りたい過去が存在する。
ましてや、偶然出逢い、手に持ってきた人形を「お守り」と称してあげた人が殺害されてしまったら、一生忘れることは出来ないだろう。
足枷で縛られたまま歩き続けているようなものだ。
ふとした瞬間に足枷の鎖が絡まって転ばされるよう、現実を叩きつけられる。
罪悪感や後悔を忘れることはできないし、乗り越えるには時間と労力がかかる。
また、その後悔はどんな形で植え付けられるかはコントロールすることができない。
誰だって両親から愛されたいし、友達にも虐められたくない。この世に生きる者全員が円満な生活を過ごしたいと願っていて、良好な人間関係を築きたいだろう。
しかし、円満な家庭で育った人間は虐待された子供や家族に愛されなかった人の気持ちを理解することはできないだろう。家族に愛されているが良くも悪くも当たり前なのだ。
いじめっ子はいじめられっ子の気持ちを理解できるようになるには、立場が逆転する以外に方法はない。だが、本能的にいじめられっ子になろうとは到底思えない。
よく「他人の立場になって考えよう」という謳い文句が存在する。確かに想像力を働かせるのは人間関係において不可欠だ。だが、相手のことを理解できるなんて烏滸がましい話だ。
ヒトは一生他人のことを本当に理解することは出来ない。
そこで、自分達が他人に出来る最大限の配慮は何だろうか。
私は、自分が傷つくことだと考える。
失敗や挫折、思い出したくもない過去を抱えた人間でないと他人に優しくすることはできない。
鬱患者に向かって励ましの言葉は暖簾に腕押しであり、最も効果的なのは痛みを共有することだと思っている。
「優しさ」と定義されそうな励ましや応援は、時に矢となり心を抉っている。しかし、その事実にすら気付かないことが大半。
それでも身近な人間を助けたいのなら、黙って隣に座るのが最適解だろう。
そばにいるってことが何よりも心の支えになっているかもしれない。
そう考えると、自分も母親や兄、友人の役に少しは立ったのかも。
私は、「友達いないから」や、「自分は他人に理解されない」と過去のトラウマから人間関係を避ける傾向がある。
何故そのような発言をしてしまうのか。
発言の裏側には、嫉妬や羨望といった渇きが存在している。
周りへの嫉妬を認めたくないからこそ、防御壁を立てて素性を隠したがっている。
つまり、傷つきたくないのだ。
他人を羨ましがる姿は弱く見えると感じ、強くて孤高というイメージを与える方がずっと楽だ、自分を洗脳していた。
そうでもしないと自分の周りにはヒトが消えてしまうのではないか、そんな恐怖感に苛まれている。
けれど、自分によって助けられたヒトがいることを見落としている可能性だってある。
ハルトくんがフーガに声を掛けた時のように相手はずっと覚えているパターンもあるだろう。
他人と接することは悲しみを生み出すが、それ以上に喜びや感謝を創造する。視野狭窄になるのは勿体無い。
もし今後、私が人間関係から回避することやなす術がない災難と遭遇したら、親指を横に向けよう。それが現実に挑むサインとなる。
自分の人生は自分で選べないし、デリートすらできない。それならコンティニューして何度でも立ち向かおう。
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