見出し画像

過度な自己肯定感とセルフラブ

「自己肯定感を高めよう」

ここ数年で耳にタコが出来るほど聞いた話だ。
欧米諸国を含めた幸福度調査などを引き合いに出されて「日本人は自己肯定感が低すぎる」と著書やメディアで煽られる。

自分のことを大切にしようとSNSで優しげな言葉が溢れ返ったが、本当に自己肯定感の高さが必要になのか疑問に思う瞬間がよくある。

自己肯定感を高めるフリをして、怠惰を許容する理由を探しているだけに過ぎないのではないか?

正しくは
「過度な自己否定は今すぐに辞めるべきだが、定期的に自尊心や自信が粉砕されるような挫折や失敗をして一歩ずつ前に進むしかない」
だと考える。

これは多様性を認める社会に発生するケースだが、自分が傷ついたことに対する攻撃や防御の手段として自己肯定感や多様性を持ち出している気がする。

「私はこんなに傷ついたから、貴方(あるいは社会)は傷ついた私に謝罪して認めるべきだ」

こんなメッセージに聞こえてしまう。

確かに他人を無碍に傷つけていい理由は滅多に存在しないが、自分が傷付いてはいけない理由も存在しない。何も傷付かず挫折もない人間は他人の痛みを理解することが出来ない。

自己肯定感に関しても同様だ。自分はダメな人間なんだと人格否定をすることに生産性や意味は一つも存在しないが、自己肯定感が元々低かった人間の方が共感能力も高い。加えて、過去の自分のコンプレックスを克服した経験が他人の苦しみに重なり励みになるケースも多い。

一時的に自己肯定感が低い状態や自信を喪失した経験は自分を強くしてくれる。

ここで、自己肯定感だけを上げたケースを想定してみる。自己肯定感のみをあげると「自分が一番好きだから自分のことを認めてくれない相手が悪い」という全て他責にしてしまう可能性が生まれる。

人生全てが自己責任とも思わない。しかし、どこまでが自分の可変部分でどこからが不変部分なのか棲み分けられる能力は必要だと思う。そうでないといつまで経っても独りでは何も出来ないお姫様になってしまう。

第一、自分に価値を与えてくれない人間と付き合いたいとは思わないだろう。体型や見た目を整えもせず会話も下手でロクに勉強しない人と友達や仲間になりたい人間などいないだろう。無条件で愛してくれる人など親ぐらいだ。
(そうではない親も存在するかもしれないが)

もっと定期的に自信を失い、傷付き、学び、身体を鍛えて、実験を繰り返すことでしか魅力度は上らないのかもしれない。

自己肯定感をひたすら上げる暇があるなら、野菜食って筋トレして読書し、価値提供しよう。

これは弱い自分への戒め。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?