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『花は今日も咲いている』

 私が新川さんに出会ったのは四年前のことだった。
 あの日の日付は忘れたがとても寒かったことは覚えている。特急列車を降りた途端、凍てつく寒風に迎えられた私は首を縮めて改札へ向かった。改札口はまだICが対応しておらず、紙の切符を通して出た。

 一人旅行が趣味な私はこうして時々ふらりと特急に乗ってあてもない場所へ行く。これまで訪れた土地のほとんどが騒がしくないので、無意識に行先を決めていたのかもしれない。
 そしてこの日も同じだった。
 時計塔を中心に弧を描いた小さなロータリーがあるだけで迎えの車やタクシーはいない。駅の端にあるバス停でニットを着たご婦人たちが静かに話しているだけの小さな町だった。

 私は弛んだリュックを背負ってまずは宿へ向かった。宿では腰の曲がった女将が招き猫のようなしなやかな挙措で迎えてくれた。女将の先代が築いたと言う歴史ある日本家屋は木の香りと音がした。
「それではごゆるりと」
 女将が去ってからわたしは靴を持って再び外へ出た。静かな町を淡々と進む。商店街のほとんどはシャッターが閉められていたが、それでもところどころ灯りがついており、まばらに人が集っていた。滑り台だけがある公園に子供の姿はなく、グラウンドの至る所から雑草が生えていた。

 しばらく歩いていると遠くから波打つ音が聞こえた。
 民家を抜けた先は小川が流れており、遠くには堂々たる山が聳えていた。けして高くはない。しかし、周りに何もない事で余計に存在感がある。風に煽られてざわざわと葉を靡かせる姿は人の出入りを拒む門のようで、同時に静かに見守る神の棲家のように見えた。
 土手に沿って歩いていた私の目に一人の老人が写った。白髪の頭髪の上にハンチング帽を被った彼は組み立て式の椅子に座って何やら手を動かしている。傍の犬はおとなしく座っていた。
 挨拶をしようと近寄った私は目を見張った。彼の前に置かれたキャンバスには今まさに私の目前に広がる景色だった。まだ色は塗られていないが、景色をそのままキャンバスで透かしたような正確かつ人の手が描いた独特の味わいがあった。
 思わず見惚れている私を置いて老人は鉛筆で線を入れていく。彼の手が動くたびに景色は濃厚により現実味を増す。

 老人が手を休めた時を見計らって私は声をかけた。
「よくここで描かれているんですか?」
 老人はゆっくりと首を回らせて私を見た。
「一週間から十日に一度というところかな」
「上手ですね」と告げれば老人は意外にも高らかに笑った。
「退職後の暇つぶしさ。家内も先に逝ってしまって、やることのない老人のささやかな趣味だよ」
 犬の頭を撫でた老人は鉛筆や消しゴムを筆場後にしまい始めた。イーゼルに掛けられたキャンバスは未だ黒と白の世界で止まっている。
「色は塗らないんですか?」
「ここではね」と老人は椅子を畳んで続ける。
「いつも色は家で塗るようにしているんだ。明日くればそれは別の景色、世界になっている。だからよく目に焼き付けて記憶の中の色を再現するんだ」
 老人の声は低いにもかかわずよく通り、私の胸に届いた。私は顔を上げて遠くに見える山を眺めた。きっと明日も変わらず立つ山であってもそれは少しずつ変わっていく。
「それでお嬢さんはどうしてこんなところに?」 
 老人の問いに私は端的に説明した。老人は朗らかな表情で口を開いた。
「色々な地を訪れる事は良いことだ。世界の大きさと人間の小ささを知ることができるからね」
「おじいさんはずっとここからの景色を描いているんですか?」
 そうさ、と老人が告げたと同時にどこからか黄色い声が飛んできた。見れば少し離れた場所で咲いている花に学生らしき少女たちが必死にカメラを向けている。どこへ行っても少女たちの中の「かわいい」ものや、横柄な人たちがいる事は変わらない。ごく自然な景色だった。
「今の人間たちには花しか見えなくなったんだね」
 振り返ると老人は目を細めて少女を見ていた。

「みんな美しい花や赤く染まる葉にしか目が行かなくなったのさ。
その下はまるで地獄だって事は知らずにさ。日が当たらなければ育たない。日照りが続けば枯れて雨が続けば耐えられずに朽ちてしまう。動物や虫からは昼夜問わず狙われている。喰われ引きちぎられてもなお、花を咲かそうとするその姿が植物なのさ。なぜかわかるかい? そこに命があるからさ。茎や幹、葉から次の命は生まれない。どうしても花弁が必要なんだ。華やかな花弁だけで判断しないことだね」

 朗々と語る老人は何かに気づいて顔を反対側へ向けた。私も同様に首を巡らせたと同時に轟音が頭上で鳴り響く。鳩の群れが驚いて一斉に飛び去っていった。空中に掛けられた線路を新幹線が走り去っていったのだ。
 次第に音が遠のいて再び静かになる。老人がふと山の麓を指差した。目を凝らしてみれば赤土が顕になって、手前には重機が並んでいた。

「あそこに新しい街を作るそうだ」と話す老人は続ける。
「街ができれば人は賑わう。なら他の生き物はどうだい? 存分に降り注いでいた日差しがコンクリートに遮られて森を崩される。行き場の無くした彼らは別の棲家を探すが、そこにだって生き物がいて、他者に分けてやるほどの余裕はない。人間は自分たちのことしか考えずに、他の生き物がどうなろうが知らん顔だ。そうでなければ、あんな事やろうとは思わないさ」

 しばらく眩しそうに見つめていた老人は、画材を入れたリュックを背にしてとぼとぼと去っていった。リードにつながられていない犬は老人の後ろをついていく。
「また、来ても良いですか?」
 気づけばそんな言葉が口を走っていた。老人は足を止めて振り返り、そして片手を上げただけでまたゆっくりと家へ帰っていった。

 それから私は半年に一度、最低年に一度はこの地を訪れて老人と話すようになった。老人は島内さんと言い、利口な愛犬はサクと言う。島内さんは唸るように暑い夏でも雪がしんしんと降る冬でも変わらず同じ場所でその日の景色を描いていた。特に観光地でもない田舎町に足繁く通う私に「物好きだね」とにやりと笑う島内さんはリュックからみかんやらお漬物をお裾分けしてくれた。

 そして三年目のこと。再び島内さんを訪れに来た私はいつもの土手へ向かったが、島内さんの姿は見えなかった。家で色を塗っているのかと島内宅へ向かおうとしたところ、知り合いになった主婦から島内さんが亡くなったことを告げられた。みっちりと詰まった毬栗が土手に転がる秋のことだった。
 彼女に聞いてわたしは町の小さな寺へ向かった。そこの合葬墓に島内さんは奥さんと眠っているらしい。
 住職に案内された墓石に目を凝らすと島内夫妻の名前を見つけた。
 私は墓参りに来た報告を手を合わせて唱えた。
 住職の話によれば、島内さんと家にはものが少なく、絵も一枚だけだったという。
「単なる趣味だから」と常々話していた島内さんは描きあげた絵に執着していなかった。
「実は島内さんから預かってまして」
 そう言って住職が持ってきたのは一枚の絵だった。青々とした葉に空も雲も濃厚な、夏の景色だった。渡されるがまま受け取ったその絵をしばし見つめる。きっとこの日も、島内さんは変わらない様子で絵を描いていたのだろう。
「物好きなお嬢さんが再びこの町に来たら渡して欲しい。彼女がいらなければ燃やすなり裁断するなり構わない、とのことでした」
 顔を上げた先の住職の口調は島内さんのものだった。
「頂いてもいいですか?」
 私の問いに住職は当然と言った如く頷いた。

 私は島内さんがデッサンしていた場所へサクと来ていた。島内さんが亡くなってからサクは近所の方が引き取ってくれたそうだ。
 私は四年目の山を眺める。初めに見た頃より山は削られて、マンションが立ち並んでおり、威厳が薄れて見えた。ここに来る時も駅舎の改札口は全てIC対応に変わっていた。
 これから人間はどこへ向かうのだろう。常々島内さんが口にしていたことを自然とこぼしていた。
 残念ながらわたしには島内さんのような画力があるわけではない。しかし、写真に収めるというのは何か違う気がした。
 ふとあることを思いついた私は、リュックから日記帳とペンを取って感じたまま文字にした。作家でも雑誌のライターでもないので、稚拙な文章だが、これなら私にもできると確信した。 
 そして、今日も私は折り畳み椅子に腰掛けていた。傍であくびをするサクの頭を撫でて私はペンを走らせる。

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