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萩原治子の「この旅でいきいき」(だった)

シリーズVol.12 エジプトの旅 (下編) 2018年11月

その2  旧約聖書、新約聖書との関係&コロナウイルス禍の中で     考える

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vol.11エジプトの旅 2018年11月(下編)その1
vol.10エジプトの旅 2018年11月 (上編) 
vol.9 モロッコ旅行初めてのアフリカ国 2018年9月
vol.8 パリと南仏の旅 2015年5月
Vol.7 オーストラリアとニュージーランドの旅2017年10月(下編)
Vol.6 オーストラリアとニュージーランドの旅 2017年10月(上編)
Vol.5 アイスランドの魅力 ベスト5」 2017年夏
Vol.4 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(下編)
Vol.3 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(中編)
Vol.2 ヴォルガ河クルーズの旅 2016年6月(上編)
vol.1 アイルランドを往く

エジプトと旧約聖書との関係

私の家も、従って、私もキリスト教徒ではないし、高校まで公立学校だったので、聖書についての知識は少ない。それでもVol. 8「南仏の旅」で書いたが、イスラエルに行ったとき、ヨルダン側のネブ山の上で、モーゼが「約束の地」をここから眺望したと伝えられる丘に行った時、旧約聖書の話が急に現実味を帯び、ざっと読んだことがある。そのほか、フィレンツェでミケランジェロのダビデの像(アート・スクール内にある本物)を見たとき、ダビデという王様のことを読まずにいられなかったし、トロイ、クレタ、ギリシャの遺跡をみて、彼らの歴史が少しわかると、では旧約聖書のユダヤ人との関係は?という疑問は常に湧き、いろいろ本をつまみ読んだこともある。

「出エジプト記」のモーゼの脱出の話は史実か?

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モーゼの話はもちろん、映画「十戒」で私も知っていた。エジプトで虐げられた奴隷の身分だったイスラエル人を、モーゼが引き連れて逃げ、海を越えてシナイ半島に脱出する話を、英語では単に「The Exodus脱出」と呼ぶ。日本語では「出エジプト記」と、エジプトとの関係が強調されている。

史実かどうか別にしても、エジプトを舞台にしたこれだけ有名な話が、古代エジプト史の中では、どう取り扱われているかに、当然私は興味があった。ところが、最初に買った2冊の旅行書、Lonely Planet と DK Eyewitness Travelのエジプト編には、これに関する記載は、一切なかった。歴史は勝者によって書かれるものだから、時のファラオたちはシナイ半島に脱出したユダヤ民族については一切記録から削除したのだろうと解釈した。それにしても、英語で書かれた欧米人対象の旅行書に、何の説明がないことは不可解で、この話は伝説の域を出ていないのだろうか?という疑問として残った。

かすかに、カイロのホテルで買った欧米観光客向け(学術レベルではない?)の年代表には、余白に1900年BCにアブラハムがエジプト入り、ヘブライ人のエクソドスは早くて第18王朝期、1500年BC頃、遅くともラムゼス2世の1300年BCと書かれていた。興味深いことに、その間に、一代きりの宗教革命を起こした、アメンホテプ4世、別名アクナトンの治世期がある。

これに関する資料がなかっただけでなく、私自身もエジプトとエルサレムが、地理的にこうも近いことに、気が付いていなかった。シナイ半島の荒野で40年近くも、モーゼとその民が、彷徨っていたからかもしれないし、今も昔も人種も文化圏もまったく違うということもあったかも知れない。私にはユダヤ人は白人でキリスト教の前身のユダヤ教を信仰した民族で、現在は西洋文化の一部、エジプト人はちょっと浅黒いアラブ系でイスラム教(彼らも旧約聖書を共有していることは、かなり最近知る)の人々で、中近東文化の一部だという頭もあった。

ユニワールドのツアーではどう扱われたか?

ユニワールドのツアーでも、ユダヤ人脱出のことも、これと関係があると言われるアクナトンの説明は一切なかった。

ナイル河渓谷クルーズのあと、カイロに戻ったとき、私はカイロ市内のコプティック・カイロ見学に希望参加。コプティック・クリスチャンというのは、エジプトの現行のキリスト教の宗派で、バチカンとは別に、独自の総本山をカイロに持っている。

コプティック地域はカイロの中心部、タヒール広場よりずっと南にある。そこに近づくと、グループの一人が、ファラオの妹が籠に入った、ヘブライ人の紋章付きの布に包まれたベイビー・モーゼを見つけたのは、この辺か?と質問する。サメーの回答は「イエス」だった。やはり、西洋文化ではモーゼの話はただの伝説ではないのだ。

「出エジプト記」によるモーゼのお話

ものの本によると、モーゼは実在の人間だったと言われる。「出エジプト記」には伝説上の一生が詳しく書かれている。彼が生後すぐ、ナイル河に流されたのは、当時のファラオは、ユダヤ民族の人口急増で彼らの台頭を恐れ、ユダヤ人の赤児男子の殺害命令を出したから。そのファラオは誰だったか? セチ1世(1312年 ~ 1298年BC)という説が一番有力らしい。さらに、モーゼと対決し、脱出を認めるのは息子のラムジス2世(1298年~ 1235 年 BC)。彼はモーゼにエジプト脱出を許したが、気が変わり、彼らを追いかけるが、紅海で海が割れて、ユダヤ人は逃げ切る。映画「十戒」ではラムジス2世をユール・ブリンナーという俳優が演じ、凄みがあった。アメリカ人観光客はみんな覚えている。

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アメンホテプ4世=アクナトンとはどんなファラオ?

モーゼの話を進める前に、アクナトンというファラオのことを書かないといけない。

アメンホテプ3世(1408~1372年B C)は、新王国時代の第18王朝期のファラオで、エジプト王国は繁栄の絶頂にあった。彼の死後、息子がアメンホテプ4世として、あとを継ぐ。即位して5年後、彼はそれまで絶大な勢力を握っていたアメン神のカルトを排斥して、アトン太陽神に改宗する。自分の名前もアクナトン(アトンにありて生くるものの意)と変名し、都もアマルナ(カイロから300キロ南のナイル東岸)に遷都して、新たにアトンを祀る神殿などを建造する。信仰神が変わっただけでなく、その時代の様式・アートは、他の時代と全く違うリアリスティックなものに変わる。

なぜこのファラオは2千年も継続してきたファラオ文化に、革命を起こしたのか?

私は日帰りでアレキサンドリアに行ったとき、そこの博物館で初めてこの異端ファラオ、アクナトンの顔の彫像を、まじかに見るチャンスに恵まれる。

この特徴ある長い顔。その日のガイドのムハメッドによると、古代エジプトのファラオ・アートは理想主義で、ファラオの像はすべて理想的な体躯、顔つき、静的なポーズになっているが、彼のだけは実物に近い写実的だという説明をする。この長い顔が本物的か? もちろん本物を知らないから何とも言えないが、、
バスB組のガイドだったこのムハメッドは、エジプト博物館で見た「村長さん」タイプの丸顔、私たちA組のガイド、サメーを例にとり、こう言う長い顔の人はいると彼は言った。

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それまでにアクナトンの像の写真は、私もあちこちで見たことはあり、このファラオだけはすぐに誰かがわかる、つまり、写実的だから、特徴が出ているからと、言えることに気がつく。
アクナトンの治世は1372~1354年B Cで、モーゼの出エジプトは、その前か後だと言われているから、エジプトにはすでに大勢のユダヤ人が定住していたと考えられる。ひょっとすると、アクナトン自身、その長い顔から見て、ヘブライ人の血が濃く入っていたのかもしれない(彼の母親にはエジプト人以外の血が混ざっていたと言われる)。または彼らに似た風貌を好んで、こういう像を作らせたのかもしれない。

イスラエル人に限らず、古代エジプトには中近東の放牧民族が入り込んでいた様子がある。下の絵は1900年BC頃のファラオの墓所の中の壁画の模写。先頭のエジプト人の後に続くのは、明らかに違う人種の人々。着ているものの柄、スタイル、履物、などから、「創世記」に出てくる「様々な色の服を着た、、」セム系の商団だと言われている。1900年BCと言えば、私の年代表に「アブラハムのエジプト入り」とあった時代だ。その頃すでにセム系放牧民(ユダヤ人はセム系)が、エジプトと深く繋がっていたと考えられる。

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アマルナ・アート

前にも書いたように、アクナトンの宗教革命は彼の代で終わり、そのあとのファラオ(2代下のツタンカーメン)はアメン信仰に戻り、首都もテーベに戻す。アマルナは放置され、その後、特にラムジス2世のとき、アクナトン関係の記録、遺跡は徹底的に破壊される。全代ファラオのリストからもその名前を削られていた。20世紀になってようやく、アマルナ遺跡の本格的な発掘調査が行われ、アクナトンの治世が知られるようになる。粘土板にクサビ文字で書かれたシリアとの外交通信である「アマルナ書簡」も見つかり、この時代の様子、中近東諸国との関係なども次第にわかってくる。

アトン太陽神信仰は、「エジプト博物館」の項のツタンカーメンの玉座の背もたれのレリーフ画のところで書いたが、陽光がさんさんと照らす太陽がシンボル。それまでは真っ暗な神殿の奥が神の鎮座だったが、アトン神の神殿は明るい太陽が照らす場所。愛と真理を追求し、戦争を嫌い、家族生活を大事にした。また、「アマルナ通信」によると、シリアやヌビアといざこざがあったが、出兵せず、平和主義を通す。しかし、アメン神派の僧侶団の巻き返しが起こる中、アクナトンは没する

アマルナ神殿などは破壊されてしまったが、遺跡の中にアーティストの工房跡が見つかり、制作中途の作品や、試作、模型など多くが、ドイツ人の考古学者によって発見される。現在ベルリンの美術館にある彼の王妃、ネファティティの胸像(試作らしい)はその一つで、美貌のエジプト王妃として有名。また燦々と陽光がさす太陽のもとで、夫婦で娘たちをあやすレリーフ画などから、彼らの家庭生活が画題になっているのも、アマルナ・アートの特徴。
このように、エジプトのアートがリアリスティックなスタイルに変リ、アマルナ美術時代として知られる。この治世時以外にはみられなかったこと。

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彼の信仰は一神教の元祖?

彼が何を意図としたかなど、その行動やアートから判断することは難しいが、彼が改宗で主張したことの一番の特徴は、アトンだけが唯一の神様、つまり一神教だったこと。さらに偶像崇拝は禁止だったと言われる。通常ユダヤ教が、人類初の一神教宗教だと言われている。それで、彼の出現とモーゼの話は関係があったのではないかという説がある。少なくとも、彼の宗教哲学と、のちにユダヤ民族が確立したユダヤ教とには、共通点があるとされている。

モーゼとの接点

アクナトン治世とモーゼの脱出には関係があると最初に書物で表したのは、心理学者のシグモンド・フロイトだった。彼は1939年に発表した「モーゼと一神教」という本で、モーゼはエジプト人でアクナトンのアトン教の僧侶だったという説を唱えた。アクナトンの没後、アメン神宗派の勢力が再び盛り返し、モーゼはエジプトを追われ、シナイ半島からカナン地方に帰った。アクナトンの一神教はモーゼによりカナン地方の放牧民(ベドウィン)の一神教と合流して、ユダヤ教のもとを作ったと。

フィリップ・グラスのオペラ「アクナトン」

2019~20年のニューヨークのメトリポリタン・オペラの開幕オペラは、フィリップ・ロスというユダヤ系アメリカ人の作曲による「アクナトン」だった。このタイトル役をソプラノよりも声域が高いカウンターテナー(男声)が歌い、大評判になったが、このオペラはフィリップ・ロスの歴史的偉人を主題とした3部作オペラの一つで、他の二つはアインシュタインとガンジーを扱っている。3番目にアクナトンを選んだ理由として、彼はアクナトンのアトン太陽神の宗教は、一神教の始まりだったのではないか?と言っている(現在の世界中の主要宗教は皆一神教)。彼はユダヤ人だから、もちろんフロイトの本を読んでいるだろうし、ユダヤ民族がエジプトで奴隷という迫害を受けたのは、単に民族、宗教が違うということからではなく、萬の神信仰が当たり前の時代に、一神教徒だったからではないかということを言っている。アクナトンは時代的に早過ぎたのだ。それで、萬の神信仰の宗教カルト団体から、迫害され、彼一代で終わってしまったのでは?

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アクナトンとツタンカーメンとの関係

さらに、この話にツタンカーメンが入る。1922年に「王陵の谷」で彼の墓が見つかり、研究が進んだ頃は、記録から彼はアクナトンの女婿だと、言われてきた。それを証明するアクナトンのミイラはアマルナでは発見されなかった。

1905年にKV55で発見されたミイラをレントゲンなどで調査すると、ミイラの主は奇形児とも思える体躯:後頭部が異常に長く、手足が異常に細く、お腹が異常に大きく、さらに腰回りも異常に膨らんでいた。そういった体の特徴などから、アクナトンのものでないかと、推測されてはいたが証明はできなかった。

ところが最近はDNAというものがあり、ファラオたちのミイラから、さまざまな新情報が習得できるようになった。特に血縁関係については。

KV55で発見された男性ミイラだけでなく、KV35の墓の主の女性のミイラのDNAテストも行われ、男性ミイラはアクナテン、女性ミイラはその妹のものだと判明。さらにKV 62で発掘されたツタンカーメンのミイラのDNAテストから、アクナトンはツタンカーメンの父親だったということが、解明される。母親はその墓所の主、妹だと証明されている。スキャンダラス!!な事実が解明される。

<注> エジプトは兄弟、姉妹間の結婚が認められていた。

アクナトンの信仰とアマルナ・アート

エジプト博物館のツタンカーメンの玉座の背もたれのレリーフ画のところで書いたが、そこにはアトン神信仰のシンボルがあった。生後、ツタンカートンと名乗り、アマルナで生活する。ファラオに即位後、数年はアマルナに留まっていたが、アメン神信仰のカルト勢力を抑えきれず、テーベに戻って、アメン神信仰へ切り替えて、名前もツタンカーメンとする。

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それにしても、ツタンカーメンの墓所KV62が一連の発掘作業の一番最後(1922年)まで見つからなかったこと(ということは、発見物については、学術的に正しい処置が取られた)、ほとんど無傷で素晴らしい芸術品が多く発見されたという事実、さらにその中にはアクナトンが奨励したアマルナ・アートの影響が見られものもあったという事実!何か幸運の女神に守られていたかのようではないか!

アラブ人もユダヤ人も、ヨーロッパの白人と同じコケージョン人種に属する。両方とも元は中近東の砂漠地帯のベドイン、放牧民。何千年のうちには、いくつかの特徴ある民族に分かれ、お互い争い、戦い、奪い合い、より優れた金属(例えば鉄)を持つことで、他民族より優勢になり、弱い民族は奴隷という被圧政グループになる。イスラエル人の場合、鉄は持たなかったが、一神教とか、救世主のコンセプトの宗教で、人々はそれまでと、全く違う考え方、生き方をするようになり、それが人々の心を惹きつけ、他民族より、優勢になっていったのではないだろうか?

コロナウイルス禍の中で、映画「十戒」を観てみると

この記事を私はここ1ヶ月で書いた(2020年3月)。その間にニューヨークはコロナウィルス症のエピセンターとなり、外出禁止になる。オペラもコンサートも中止、延期され、時間を持て余した私は、エジプト記(1)で書いた、映画「十戒」を取り寄せ、50年ぶりに観てみる。

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チャールストン・ヘストンが演じるモーゼは、本物らしい風貌だし、全体迫力あるスペクトル映画で、ハリウッドの全盛期をうかがわせる。これを観ることによって、モーゼの一生、ユダヤ民族の脱エジプト過程、神の主導、神とモーゼの契約など、改めて詳しく知ることになる。ナイル河の景色とか、使われている小道具のデザインには、エジプト博物館で見たようなものが沢山出てきて、相当研究されて、作られた映画だとわかる。
一応この映画製作に際して、各方面の権威ある学者、専門家が考証しているらしいので、そう間違った、興味本位、またはエンタメ用のものではないことも確認する。

映画の後半で、モーゼが「Let our people go」と、ラムジスに迫り、お互いの魔術力の試し合いをする。モーゼの神は彼らの全面解放を拒絶するラムジスを懲らしめる。ナイル河が血に染まり、魚が死んで、臭くなったり、イナゴの襲来や、霰を降らせたりする。お話では神のなす業ということになっているが、こういう自然災害は当時も今も実際に時々起こること。つまり、現象はそれほど、おとぎ話的ではないのだ。

それでも降参しないので、神が「エジプト全土の人間を含む全ての生き物のFirst Born 第一子」を死に至らせると宣言。3日間、全土に闇が覆い、実行される。

コロナウイルスのパンデミック禍にいる私が、今見ると、これは明らかに疫病の蔓延だったとわかる。そして、ユダヤの神はユダヤ民に、その疫病から身を護るには、羊を殺して、その血を入り口に塗って、あとは家にこもって疫病が過ぎるのを待てと命令する。彼らがその通りにすると、ユダヤ民の第一子は助かり、疫病は過ぎ去って、「Passover過越し」となる。

なんとも、現在進行中のパンデミックの様子と似ているではないか!!

放牧民族のサバイバルの知恵

さらに考え進めると、エジプト人は農耕民族、ユダヤ人は放牧民族、疫病の菌は今回も大昔も、動物からくることが多い。ユダヤ人はいつも動物を扱っていたので、免疫があったのではないか? それに比べると、エジプト人には、たとえ、ファラオの嫡子といえども、免疫が無かった。それで死んでしまう運命だったのでは?

放牧生活の中で、羊などの血が傷口や口から、人間の体内に入ったりすることで、体内に免疫ができることを、ユダヤの賢人は体験から知っていたのではないだろうか?(ひょっとすると、彼らの「割礼」は、赤ん坊の時の予防注射だったのでは?) それが家の入り口に免疫の素である羊の血を塗って護身するというシンボリックな筋書きになったのでは?

雌ラクダの膣に石ころを入れると、妊娠しないということを、昔からアラブ人は知っていて、長いキャラバン旅に出るとき、途中でラクダが妊娠しないように、石コロを入れていたということから、現代の人間の避妊道具のひとつであるダイアフラムが発明されたと、昔どこかで読んだ。

こうしたことは、放牧民族の何千年もの体験からの「知恵」だったのではないだろうか?と、私は映画のこの場面を見ながら、考えたりした。

このパンデミックはBiblical?

毎日ニューヨーク市で感染拡大の緊迫した様子をテレビで見ていると、ある時、倍増する感染者を対処しているドクターが、このコヴィット19パンデミックは“Biblical“とコメントしていた。この「Biblical聖書の」という形容詞は、想像を絶するスケールを表現するときに使われる。普通は悪いことについて。
日に日に、私もそのコメントに同意し始める。

映画「十戒」の後半、シナイに逃げ切ったあと、モーゼが神が鎮座する山に登り、神と対話をしている間に、民衆は「金の牛」を祭り上げ、踊り狂うシーンがある。この狂乱する醜い人々のシーンで、私はこのところずっと気になっていたことに気づく。

トランプ大統領は2017年に就任してからすぐに、自分の支持層(older, uneducated people in Red States)を対象に、各地で政治集会を開いてきた。4年後の再選を目標に。こうした集会での、トランプの酔っ払いがするような行動、低級な演説、それに応える民衆、その程度の低さ、その憎しみあらわな醜い歓声。私が観る正当派のテレビニュースでも、時々はこの内容が話題に上がる。その醜さ、狂乱する愚民、アメリカにこれほど、程度が低い人たちが、相当数いることに私は驚き、表現する言葉を失い、されにそのような「らんちき」模様をどこかで見たような気がしていた。

それがこの映画「十戒」の「金の牛」の狂乱場面だった。

トランプという堕落した利己的人間が、歴史上最も偉大な国家と言われるアメリカ合衆国のトップに立ち、サイエンスにも今まで築き上げきた人類の知識も無視したやり方で、勝手放題をこの3年半やってきて、歴代最低の大統領になると言われる。さらに、あのヘブライ人の「金の牛」ほどの価値もない、このマフィア的大統領の支持層は、(トランプのお抱えテレビ局と言われる)フォックス・ニュースしか見ないというアメリカ分断社会の現状! このパンデミック禍中の大被害はこうした悲劇的現象がもたらしたアメリカの不幸な事件。これほど低俗な現象はBiblical というは言葉は使いたくないが、Historical、歴史には残るだろう。

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エジプトと新約聖書との関係

では、コプティック・カイロ見学の趣旨であった、キリスト教新約聖書とエジプトはどういう関係にあったか?
エジプトのキリスト教派をコプティックという。サメーの説明によると、現代のエジプト人は90%イスラム教徒で、10%がこのコプティック・クリスチャンだという。エチオピアなどにも2千年前からのキリスト教徒が、密かに信仰を守り通してきたことも、私は知っていたので、エジプトも同じような状況かと思っていたが、全く違っていた。

聖家族がエジプトに?

コプティック・クリスチャンの地域だという所で、バスを降りて、ユダヤ人の一番古いシナゴークに向かって歩いていると、赤ちゃんのキリストを抱いたマリアが、ロバに乗り、ジョセフが手綱を引いている絵やレリーフが目にとまる。えっ!これどういうこと? これが私の最初の反応だった。

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公立学校に行った私は、そんなことは聞いたことがなかった。ミッション・スクールに行った友人に聞くと、彼女は知っていた。あくまでもひとつの説で、それに基づいた中世の絵画もたくさんあることを知る。

ここで私はエルサレムとエジプトが、実に近距離だということに、やっと気づく。しかも山などの障害物もないし、海岸を通れば、迷うことなく、カイロに着く。
赤ちゃんのキリストを抱いたマリアはロバに乗って、その手綱をジョセフが引いて、彼らは、エジプトを旅し、1、2年滞在したという。

どのコースを取って、各地で何日滞在したとかまでの資料、または伝説もある(下の地図の通り)。彼らが滞在したと言われる洞窟の所在地に、その後教会ができて、ここでお水を飲まれたという井戸もある。さらにこの地図にあるように、彼らはナイル河に沿って、移動している。彼らが数ヶ月生活したという場所場所の跡に、その後、修道院が建てられているという。

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ローマのユダヤ人迫害

後で調べると、キリストが生まれた年、BC4年、当時のイスラエルのハロッド王は、キリスト(=メシア、救世主)誕生を告げるエンジェルとか、3人の学者とかの巷の噂を知り、恐れてユダヤ人の赤児男子殺害命令を出した。それで聖家族は一時的にエジプトに逃げたのだった。

もともと古代ローマ政府は兵役に応じないユダヤ人を迫害する。その一環でエルサレムで、キリストは処刑され(キリストはユダヤ人)、ユダヤ民族はエルサレムを追われ、最後の砦、死海近くのマサダに籠るが、ローマ軍に攻め込まれて、西暦73年に陥落。それ以来ユダヤ民族は“さまよえる人々”、ディアスポラとなる。

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その日の見学はコプティック・カイロ最大の「ハンギング・チャーチ、宙吊り教会」を観る。ローマ時代の水門兼砦の上に建てられた、相当規模の大きい教会。聖家族の旅姿の派手なモザイク画が、そこに至る参道を飾っていた。エジプトのコプティック・チャーチはそこが原点なのだ。

現在も使われている教会なので、礼拝堂も立派で、美しい。

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キリストの処刑、そして聖マルコによるエジプトでの布教

ここでまた驚いたことは、キリストが処刑された後、641年にイスラムが来るまで、エジプト民は皆キリスト教徒だったという!

西暦30年にキリストが十字架に架けられたあと、彼の教えがキリスト教として確立するには、少し時間がかかったが、西暦45年にはアフリカ生まれの聖マルコ(キリストの12使徒の一人)という使徒が、すでにローマから、アレキサンドリアに布教にやってきている。
支配者のローマ帝国は、キリスト教という新興宗教が、熱狂的な信者を集めつつある現象に対して、残酷な弾圧をする。聖マルコは、囚われ、アレキサンドリアの町を引きずり回された後、殉死する。しかし、そのあとこの国で、キリスト教は静かに広まっていった。325年に東ローマ帝国がキリスト教を認める時代になるまで、弾圧は続いたが。

旅行書によると、3世紀に布教に努めた聖アンソニーという僧が、このエジプトで、信仰修行の場所として修道院という形態を確立する。それでエジプトにはあちこちに古い時代からの修道院が散在する。聖家族が留まったとされる洞窟の跡や、シナイ半島ではモーゼの逸話が起こったとされる場所、砂漠の中のオアシスなどにも。

「タイースの瞑想曲」

私は昔ヴァイオリンで「タイースの瞑想曲」という美しいメロディの曲を弾いたことがあったが、これが「タイース」というオペラの一部とは、4年ほど前にメトロポリタン・オペラが上演するまで、全く知らなかった。
「タイースの瞑想曲」はアリアではなく、第2場面の冒頭に、コンサートマスターがソロ・ヴィオリンで奏でる。
お話は、西暦4、5世紀のエジプトを舞台にしているという説明を読んだ。

非常に熱心なキリスト教の僧侶が、華やかで、虚楽的生活を送る美しい歌姫タイースにキリスト教信仰の素晴らしさを説きほどく。歌姫は真摯なキリスト教徒になり、昇天するが、それまでにこの僧侶は彼女の魅力の虜になるという筋書き。彼女が修行のために行ったところは、砂漠の中にある修道院だった。

今になって、ようやく私はそのバックグランドが理解できた。

アレキサンドリアにその足跡は?

私のツアーには、地中海沿岸にあるアレキサンドリアが入っていなかったが、ツアー終了の翌日に日帰りのツアーに希望参加する。

アレキサンダー大王は遠征中、征服した地にアレキサンドリアという名前の都市を、幾つも建設したが、エジプトのアレキサンドリアが一番栄えたという。彼の死後、マケドニア大帝国は分割され、大王に一番気に入られていた将軍が、エジプト領土を分捕り、彼の遺体を携えて、新ファラオとして、アレキサンドリアに戻って来る。こうしてその後、約300年続くプトレマイオス王朝というギリシャ王朝時代は、アレキサンドリアを都として始まる。最後のファラオ、クレオパトラ7世の自殺のあとの、ローマ大帝国の一領地としての時代も、ここアレキサンドリアがエジプト領の首都となる。

シーザーとクレオパトラ、マーク・アンソニーのドラマもここで繰り広げられた。このデルタの横に建てられた都市には、ファロスの灯台とか、大図書館とか古代の最も文化程度の高いところとして、栄えたが、何回かの地震で、当時の巨大モーニュメントは海の底に沈んだらしい。アレキサンダー大王の墓もクレオパトラの墓も未だに発見されていない。

名声は高いが、めぼしい遺跡に乏しかったこの街に、比較的最近(1965年)、アパート群建設時に偶然ローマ時代の町の遺跡が発見され、発掘される。現在の地上レベルから10メートル下には円形劇場を初め、住宅街などが眠っていた。並んだ大理石の柱とか、モザイクの床とか、典型的なローマの街の様子で、ガイドのムハメッドは、あちこちの石に刻まれた十字架を指して、キリスト教が信仰されていたことを説明する。

<注> ギリシャ王朝時代の町はさらにこの10メートルくらい下にあるという。それが発掘されるのはまだまだ先のことらしい。

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21世紀のエジプトの宗教政策

7世紀にイスラム教徒がエジプトに侵入して、キリスト教徒は迫害されたが、なんとか一部はサバイブして、コプティック・クリスチャンと呼ばれるキリスト教徒は、現在エジプト人口の10%を占めるという。
サメーの説明によると、現代エジプト国ではイスラム教かキリスト教かの2者選択のみ、他の宗教も無宗教も認められていないという。これはイスラムの戒律主義的政策なのだろうか?

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カイロのイスラム地区

現在、エジプトの人口は約1億。カイロは2千2百万。その90%がイスラム教徒というから、カイロには立派なモスクが沢山ある。

ユニワールドのツアーの第一日目はカイロのイスラム地区の見学だった。灰色の空に覆われた、スモッグがひどい日に、1300年、完全に根付いたエジプトイスラム文化を代表する大モスクを見学する。

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イスラム教のアラブ人征服者は、カイロの東北方面に首都を建設する(それまではアレキサンドリアか、メンフィス)。

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目指した名所はシタデル、要塞でその中にあるモハメッド・アリ・モスク。
この人はオスマントルコ帝国の一将軍(アルバニア出身)だったが、エジプトを任されると、独立宣言をして、王朝を確立。1805年のこと。ナポレオンが撤退した後のドサクサ中に起きた。当時オスマントルコ帝国の力は弱り、その機をついたらしい。彼はエジプトの近代化を推し進め、近世エジプトの父と言われる。1952年の革命まで彼の王朝は継続する。このモスクは純トルコ式で建てられ、コートヤード、内庭側はアラベスクの壁で美しい細工が施されているが、現在は砂埃で茶色。真ん中にある噴水というかモスクに入る前に足を洗う所の彫刻は素晴らしい。中に入ると、イスタンブールのブルー・モスクとそっくり。真似て造られたという。

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【付録】

1.アレキサンドリアの美術館

〔アレキサンダー大王の大理石の立像〕 紀元前332年にアレキサンダー大王は、アレキサンドリアからエジプトに上陸した。その前にペルシアを下したので、ペルシアから解放されたエジプト民は彼をファラオとして迎えた。常に民意をつかむことに心がけた彼は、ここから数日かけて、西部砂漠地帯にあるシワ・オアシスのアメン神殿にご神託を受けて出向く。そこでアメン神の預言者から「アメンの子」という神託を受け、彼はそれを「神の子」と解釈して、征服者/解放者としての使命感に燃えたと言われる。

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アレキサンドリア美術館で見たこの大理石の立像は、正確にいつのものがわからないが、明らかにエジプシャン・アートではなくギリシャのもの。彼はとてもハンサムだったといわれる。

〔ファロスの大灯台〕 

ナイル・デルタの西端に位置するアレキサンドリアは、良港として、ラムゼス2世の時代から、クレタなどとの貿易に使われていたという。大王の死後、プトレマイオス王朝初期の紀元前3世紀半ばに、当時の技術を集結して、この高さ100メートル、3階建ての大灯台は建設された。ここから東のエジプトの地中海沿岸は、砂地で地理的目印が欠け、航海者にとって難所、船の遭難が多かったことからという。一番上の塔の中で焚火が炊かれ、凹面鏡で光線方向を調節したそう。古代世界の7不思議のひとつだったが、10世紀から13世紀にかけての地震で完全に崩壊。

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〔クレオパトラ七世の大理石像〕

紀元前30年作とある。クレオパトラが自殺した年だから、生前の彼女を知っているアーティストのものと思われる。歴史上に残る絶世の美女クレオパトラと、私たちは理解していたが、ガイドは彼女は美人でもなんでもなく、普通の顔だったと強調する。どこの国の男性も自分の国の女性が一番美しいと自慢する。このコメントもそのひとつか?

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2.新設アレキサンドリア大図書館

ヘレニズム文化の殿堂ともいうべき大図書館は、プトレマイオス時代(紀元前3から1世紀)に建設された。この施設を中心に当時の地中海文化の精鋭学者たちが集まり、図書館が維持された。自然科学系の学者が特に活躍。幾何学のユークリッドもここで研究活動をしたという。また天文学者がこことアスワンでの天文観察から、地球の円周を計算した。シーザーが戦争で攻め入ったとき、火事になり、かなりの部分が消失。さらに地震などで、完全に消失。近年、その跡地に超モーダンな図書館が建設される(2002年に完成)。

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3.ベスト・シーフード・レストラン

余談になるが、ガイドのムハメッドはカイロへの帰途につく前、私たちを友人が経営するレストランに案内してくれた。シーフード・レストランで、氷の上に並べられた地中海からの新鮮な魚介類は見事だった。好みのものを選び、好きなように料理してもらうこともできる。

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私たちは注文は彼に任せたので、この店のお得意料理が次々に登場。

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シーフードだけでなく、直火で焼いたラム肉のハンバーグも出てきて、これがまた美味しかった。

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一般にエジプトの料理は美味しいとは言えないというのが、私の感想だったが、このレストランは例外、旅行中で一番美味しい夕食になった。さらにムハメッドは私たち5人と、運転手にご馳走してくれたのだった。どうして? これがエジプト式おもてなし?

次回は最終回で『オペラ「アイーダ」鑑賞とスエズ運河見学』です。お楽しみに!     

次号(その3)につづく


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萩 原 治 子 Haruko Hagiwara

著述家・翻訳家。1946年横浜生まれ。ニューヨーク州立大学卒業。1985年テキサス州ライス大学にてMBAを取得。同州ヒューストン地方銀行を経て、公認会計士資格を取得後、会計事務所デロイトのニューヨーク事務所に就職、2002年ディレクターに就任。2007年に会計事務所を退職した後は、アメリカ料理を中心とした料理関係の著述・翻訳に従事。ニューヨーク在住。世界を飛び回る旅行家でもある。訳書に「おいしい革命」著書に「変わってきたアメリカ食文化30年/キッチンからレストランまで」がある。

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