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萩原治子の「この旅でいきいき」Vol.3

ヴォルガ河をクルーズする2016年6月(中編)

Vol. 2 ヴォルガ河クルーズの旅(上編)2019/05/09掲載
vol.1 アイルランドを往く 2019/04/01掲載

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5月29日 ラドガ湖からスヴィール川へ

一晩走り続けても、まだ同じような湖畔を走っていた。19世紀に行われたこの辺り一帯の水利工事の前は、このラドガ湖はバルト海に繋がる湖だったそう。私たちはその南岸を北東方向に横切るだけ。そのあと、スヴィール川に入り、お昼頃、マンドロギというところに停泊。ここはちょっとしたテーマパークになっている。余りに広いロシアの平原をクルーズする場合、観光客が喜びそうな見所はあまりないし、見所から見所への距離は絶大。船の客は途中で退屈してしまう。

マンドロギの民族公園でピクニック

ペテルブルクから適当な距離に造られたこの島のテーマパークで遊び、ピックニック・ランチに参加するために下船する。船のキッチンスタッフも一緒に下船して、ピクニック場でランチの準備している間、私たちは2、30軒ある半ミュージアム、半作業場兼土産物店を見て回る。ここのテーマは19世紀の古い時代のロシアの農民の暮らしの再現。この島にもともとあった村は第2次大戦中の爆撃で破壊されたが、その跡にあっちこっちから、古い農家を移動して、このテーマパークは作られた。日本でも高松の屋島に同じようなコンセプトのパークがある。羊毛を紡いで、染色し、織物にしていく過程を見せ、その産物である手製の手織物グッズを売っていたり(私はボイルドウールと呼ばれる、フエルトで作った美しい藤色の花のブローチを買う)、または薬草やハーブを干してポッポーリやハーブティーを売っていたり、そうした居住兼納屋のような家々の前にはコサックのブラウス(名前がある、トルストイが着ていた)を着たミュージシャンがバラライカを爪弾きながら、ロシアの古い歌を歌っている。

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このクルーズに来る前の下勉強の一つで見た映画の中で、私は「シベリア物語」という、旅行書には載ってなかった映画に一番、感動した。1900年ごろからの激動の70年間、ほとんどシベリアと呼べるウラル山脈近くにある寒村の3代に亘るお話。そうした村でも貧富の差は激しく、貧農のやんちゃな男の子に富農の娘が惚れて、暴れた後傷ついて川に流された彼を追って、村を出ていく。この肝の据わった、魅力的な女はライフルを担いて(クマに出くわした時の護身用)原始林を歩く時、大声で歌う。その伸びやかな美声、高らかに歌う歌のなんとも言えないメロディー。ロシア人はもともと音楽的才能のある国民ではないか? この後東欧を旅行した時にも、スラブ人(ロシア人もスラブ系民族)は音楽的ではないかと、感じた。国民楽派の作曲家を多く輩出したのは偶然ではない。

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農民にとって、一番手短で無限にある資源は木である。ネヴァ川を溯上するにつれ、周りを包む森林の中に白樺の木が目立つようになる。白樺はロシアのナショナルツリーである。木細工も伝統工芸の一つ。考えてみれば当然のこと。長い冬の日を過ごす、最高の手仕事だっただろう。伝統的な家々の軒下の切妻にはレースのような木細工があるし、ペトロゴフの大広間の床は色違いの木片のモザイクだったし、この島の特産品の一つに、箱根の組み木細工と同じような、手作りの箱などがある。ガイドの説明によくと、白樺(バーチ)の木は白いが、柔らかいので、屋根など、家の外装には向かない。ここで使われるのは、アスペンという、やはり幹が白樺の木の種類。アスペンの木は米国コロラド州の同名の避暑地で初めて見た。白樺種と違い、葉っぱは栗の形で、その美しい形を生かした、ブローチなどが売られていた。

船のキッチンスタッフが作るランチのメインはマリネートした肉や野菜を串に刺したシャシリクと呼ばれる(シシカバブ?)バーベキュー料理。そのほか、ボルシチ風スープやサラダ。それに何種類ものデザート。ここにはピロシキの専門店もあった。何十種類もの甘い、甘くないピロシキを作っていた。日本で知っていたピロシキとはちょっと、違う。

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屋根付きのこのピクニック場には、何組ものツアーグループが来ていた。こういうところで上下船するときには、横付けに停泊した同じような観光船を何隻も横切って乗り降りする。その中にはロシア人用の船もあった。ピクニック場で、隣のグループからラウドなライブミュージックが聞こえ、昔懐かしい70年代、80年代のヒット曲が演奏され、間で観客からの手拍子や熱狂的な歓声が聞こえる。ロシア人のグループだと気づく。彼らもこうやって、休暇には楽しみが増えたのだろう。それにしても、ソ連時代、ビートルズが禁止されたというのは、どういう魂胆だったのだろう。全く理解に苦しむ。退廃文化ということなのだろう。時代の移り変わりは激しい。

この日のお天気は曇り空。気温は10度くらい。まだ夏にはほど遠いにも関わらず、大きな蚊がすでにうろうろしていたらしく。皆ソックスやシャツの上からいくつも刺された。農薬を使っていない証拠かも知れない。これに懲りて、次に下船するときは必ず、虫除けのスプレーをたっぷりかけて、出かけるようになる。

クルーズは再開、ただひたすらに水の上を走る

ピクニックから帰ると、すぐ出航。先は長い。スヴェール川をさらに東に進み、オネガ湖に入り、北上する。その夜は11時なっても、12時になっても、空が暗闇にならなかった。

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朝食の時、朝3時ごろに東の空が真っ赤になっていたと話題になる。カナダ人学者の女性がここは緯度何度くらいかしらと質問する。誰からもはっきりした答えはなかったが、その会話の中で、北国カナダの人々は北極圏が90度の3分の2である66度と3分の1から始まるという常識を持っていることに驚く。中学で地理を習って以来、常識的知識もぼやっとしか思い出さない私とは違った。あとで調べると、そこは62度位だった。そしてカレンダーは5月30日、夏至までまだ20日ある。その時の私にとっては最北地点で、一番白夜に近い体験だったことになる。

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あるカナダ女性のロシアとの繋がり

早朝のコーヒー・サービスでコーヒーを飲んでいる時、隣に座った女性と話す。彼女はカナダ人で、お母さんがなぜか一人で1930年ごろ、この地方からカナダに移民したという。カナダでの移民先はアルバータの東辺り、自然環境はこの辺りとそっくりだそう。カナダ政府は未開発の森と湖の大自然の開拓を進めるために、同じような環境のところから、植民したのだ。政府から森の中の少しばかりの土地を貰い受け、ある程度の援助はあっただろうが、あとは貴方たち勝手にやりなさいということだったらしい。その後戦争もあり、同じような境遇の男性と結婚して、家族もできたけど、もちろん一度も故郷のロシアに帰ったことはなく、3、4人いた兄弟、姉妹とは手紙をやり取りしていて、いつも大泣きしていたそう。それを見て、この彼女は大学を卒業して、先生として働き、お金を貯めて、母親を70年代にロシアに連れて帰ってあげたという。新大陸には、まだそういう移民の1世や2世がいる。日本人移民だって、いろいろ悲しい話はある。私はつくづく、自分が戦後の生まれで、この70年間、大戦がない時代、平和な時代を生きてこられた幸運さを感じる。

今の移民はまた違う。カナダへの移民も、最近のニュースでは、シリアからの難民をあるカナダ人家族が個人的に受け入れた美談も新聞を賑わしていたが、その『その後』ストーリーでは、シリア人一家族4人を受け入れたら、毎晩、本国に残った親戚、友人から携帯電話でいろいろな要求を懇願されているという。その一つにはもちろん自分もカナダによんでくれというものらしい、昔のような移民残酷物語は全くなくなったわけではないが、比較的簡単になった現代の移民の流れは止めることができない。世界中で移民対地元民の対決が起こるだろう。そういう世の中になって、果たして、人道的な行動、博愛主義が守れるか?

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5月30日(月)あこがれのキジ島に到着

ヨーロッパで2番目に大きいオネガ湖を半日北上して、キジ島に到着。ここはユネスコ文化遺産に登録されているところ。大中小のいくつもの白木製のオニオンドームが林立している教会で有名。水岸近くの草原に立つ(私はヴォルガ河の河畔だと思った)この教会の写真に私は魅せられ、このツアーに興味を持ったのだ。これがこの巨大な湖の北の端っこにあったことも知らなかった。そして、この日も快晴で青い空、全くラッキー!

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船がこの教会の横を通ったとき、私たちは皆(皆のあこがれ!)カメラを構えて、シャッターを何ども切る。感動の瞬間。

船を降りると、地元のガイドが出迎えてくれていた。教会は遠くに見える。草むらを歩きながら、説明を聞く。ここのガイドの英語はアメリカ的(住んでいた)だが、残念なことにあまり良くない。

木製オニオン・ドームの教会

22個のオニオンドームを掲げた最も有名な教会は1714年に建設されたもの。しかし、この辺りは12世紀から、村があり、もっと粗末な教会もあったらしい。

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この教会の外部は全て木でできている。厚み1センチくらいの板を削り、だんだんに重ねて、ドームは作られている。そのほか、屋根も切妻の装飾板も外壁もすべて白くて丈夫なアスペンの木片でできている。何年かおきに葺きかえる。現在のものは10年くらい経っているのだろうか、薄いグレーに色変わりし、それが太陽の光で銀色に輝いている。

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オニオンドームのデザインはどうして生まれたか?

いろいろ説があるらしいが、一番本当らしいのは、ドームに積もった雪が溶けた時、一番膨らんだ真ん中の部分から水は下に落ち、ドームの根元に湿気が溜まらないようデザインされているからという。大中小22個のオニオンが屋根の上に林立しているのだか、その大きさ、高さ、角度を考えに入れた配置から、美しさが生まれている。これは相当才能あるアーティストの仕業としか思えない。日本のお寺の屋根の美しさに、匹敵する。どこにでもいつの時代にも、素晴らしいアーティスト(ほとんどが無名)がいることに気づく。彼らのアーティスティック・センスは教会とかお寺とかに多く見られる。やはり、精神的な使命感と関係あるだろう。

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いろいろな角度から見るため、教会の周りをぐるりと一回りする。大中小のオニオンは変幻する。形、配置だけでなく、太陽の光で、色も違って見える。残念ながら一部大修理が進行中で、あっちこっちに足場が組み立てられて、美観を損なっているが仕方がない。彼らの活動時期は短いのだから、観光客のことばかり考慮していられない。

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礼拝堂に入る

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この有名な教会も大きくはない。一回りした後、正面から中に入る。入り口ホールを通って、礼拝所に入る。30人くらいでいっぱいになる大きさ。黒いギリシャ正教の僧服を着た僧侶に迎えられ、まずはこの教会の歴史と、内装の奥にあるイコノスタシスを飾るアイコン絵、その周りの天井、壁を覆うフレスコ画などの説明を受ける。農民はほとんどが文盲だったから、聖書のお話を絵で表した。ロシア正教の教会の礼拝堂には椅子がなく、信者も皆立ったまま、1時間くらいのミサを受ける。説明の後、この3人がアカペラで短いミサ曲を歌ってくれた。その声の美しいこと、そのハーモニーの美しいこと。迷わず私はiPhoneで録画、録音する。

それから2ヶ月後、私はたまたま高野山の一乗院で朝の勤行に参加して、5人のお坊さんの歌を聞いたが、彼らの合唱には、ここでの音楽のような心に染み透るような美しさはなかった。これは単に私が西洋音楽に慣れているからではないと考える。
日本では人間の中心は腹にあると思われてきた。西洋は心臓だ。感情の起伏の根源は自身の経験から、心臓がドキドキしたり、心がキュンとしたり、心臓にあるのが正しいと思う。その意識から、西洋人の感情と美意識が生まれると私は思う。美しい気持ちで胸を張り、息を大きく吸い込み、首を正して喉の奥から声を出して歌うと、美しい澄んだ響きが頭の後ろから抜けていく。これについては日本のテレビでたまたま見たコーラスのコンテストの先生もそう言っていた。

そのほかの見所

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この縦長の島は国立公園にもなっているので、この地方にあった古い2階建の家屋をここに移動して、ミュージアムになっている。その農家は大きさだけでなく、軒下と切妻、2階の手すりの木細工から、かなり裕福な家族の家だと分かる。1階の入り口を入ったところに大きな暖炉があり、右側がキッチン、左側の南側が居間的空間になっている。そして、奥にはベッドがいくつも。つまり、大きな一部屋の大きな暖炉の周りで、生活のすべてが営まれるようにできている。2階には、積雪期の出入り口もあり、そのため、ソリ、農工具などの納屋も2階にある。19世紀の農婦の格好をしたおばさんが、そばの机に座り、真っ赤な糸を使った伝統的刺繍を見せている。冬は積雪問題だけでなく、ほとんど、1日暗闇の中で生活するのだから、こんな真っ赤な糸を使うのだろう。

ベルタワーからの鐘ミュージック

細長いキジ島を反対側に向かって歩くと、同じような木でできた水車小屋があり、その隣には、ベルタワーがある。2階に鐘があり、私たちが近づくと、その鐘を使って、メロディーを演奏してくれた(キャリロンという)。この島は全体が国立歴史公園なので、現在は誰も住んではいないが、19世紀までは、村もあり、多少の農業と主に魚を獲って生活していたという。さらに何千年前の石器時代にはすでに湖岸に狩猟採集の人々が住んでいたらしく、原始人の岩石彫刻も見つかっているという。今までクルーズしてきた川も湖も11月から5月初めまで凍りつくこの寒地にと思うが、食べ物さえ手に入れば、生活の仕様はある。ひょっとしたら、北海道に来ていたオフォーツク人の先祖かもしれない。ユーラシア大陸に来た私はいつもそこを通ってきただろう日本人の祖先を意識してしまう。

キジ島をあとに、出航。丸1日船の中

ロックを通過

船に戻り、すぐに出航。スケジュールは厳格に守られる。というのも、ペテルブルクとモスクワの間には19個のロックがあるから、時間厳守しないと、通れないことも起きる。ロックというのは、川の水面の高さが違うところを通過するためにある。この時点ではまだヴォルガ川に入っていないが、水続きだから同じこと。私たちは上流に向かっているので、ロックに入ると、後ろの水門が閉まり、前方の水門の外側の高い水面から水がプールに入れられる。プールの中の水面とともに船の位置が上がり、行く手の水面と同じになった時、前の門が開き、船がプールから出る。水面差はあっちこっちに作られたダムによってできる。ダムを作ることで、季節と天候によって大差ある水深を調節する。

「ヴォルガの舟曳き」

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それがない時代(それはつい最近まで)には、水量が少ない時期には船の通行が不可能になったり、また少量で浅瀬になっている時には、その部分だけ、岸からロープで人間が引っ張って通した。これを船曳きという。中国の河でも見聞きした。船曳きというは最下位の労働者の仕事、犯罪人のことが多かったらしい。「ヴォルガの舟歌」は「ホフマンの舟歌」とは大違いで、私はこの旅の最後の方で、ペテルブルクのロシアン美術館でロシアの誇るレーピン(19世紀の写実派画家)の「ヴォルガの舟曳き」という有名な絵を見るまで、よく知らなかった。あの物哀しいメロディーは、短調メロディーが多いロシアのフォークソングの一つだからではなく、10人、15人で曳く労働者の掛け声だったのだ。このレーピンという画家は社会性感覚のある芸術家で、この絵を描くにあたって、実地検証もし、その労働者一人一人を誰だか分かるほど写実的に描いたという。胸を打つ絵画(それも高さ2メートル、幅4メートルくらいの大作)である。解説によると特に後方に蒸気船を入れ、そういう時代になったにもかかわらず、社会の最低辺にいる人々は相変わらず、動物のような扱いを受けていたことを伝えていると。

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川幅が広がり、水の中にとり残された建物

ブリッジ見学

さて、話をロックに戻すと、キジ島から、オネガ湖を南下して、再び川か運河を通り、ホワイト湖を通り抜け、ゴーリツィという町まで、ほとんど、丸1日走行する。このように走行時間が長い旅程のとき、クルーズ会社はいろいろアイディアを絞って、お客を退屈させないようにする。ギリシャのクルーズでは、地中海の真ん中で夜の星空を見る会もあった。そのときもここでも、まずはブリッジ見学が行われる。ブリッジとは船長室のこと。見学希望者が多いので、2回に分けて、行われた。船長さんは元ロシア海軍の人、この航路をここ何年も5月から10月まで往復しているベテラン。クルーズ客は午後乗船して、朝下船するのが普通。朝8時に全員を客室から追い出して、大掃除をして、夕方には新しいお客が乗ってくる。船長を初め、運航クルーも同じように、乗り込む。船長と二人の副船長の3人の誰かが起きて、24時間体制で運航を司る。シーズン中(オフシーズンはすべて凍結している)、休みの日はないという。シーズンが半年だから、稼げるとき稼ぐのだ。そして、一番の責任はこのロック通過のため、時間通りに運航して、ロックに到着すること。この予約時間をミスると、大変なことになるらしい。ロックの深さはいろいろあり、2階くらいの高さの場合もあれば、ロックに入って、窓から手が届くくらいの位置にあるコンクリート壁のてっぺんを見ることが難しいくらいの高さ、多分10メートルくらいあることもある。従って、プールが満水になる時間も違う。水門の形や、様式もいろいろあるらしい。そういうことに興味を持っている人、多くは男性の客は下調査をしていて、カメラを持って、構えている。

船内のエンターテイメント

船内では他にもいろいろな催し物が計画されている。まずはロシア語会話の時間。ここではお店で値切る方法を教えてもらう。それから、白木地のマトリョーシカに絵づけをするクラス。ウオッカの飲み比べ(これだけは私には全く関係なし)、それから、クッキング・デモ。
ブリニという小型パンケーキの作り方が紹介され、何人かが挑戦する。ブリニはこの国ではどこにでもあり、どこで食べても美味しい。パンケーキだから、ジャムやハチミツ、パウダーシュガーなどで甘くしても美味しいが、この国でトライするべきはスモークサーモンか、サワークリームにイクラ(ikraはロシア語)をのせたもの。別にお酒を飲まなくても、お茶とでも十分美味しい。クッキング・デモの後、好みのものを乗せたブリニとお茶をいただきながら、ロシア民謡の演奏をきく。演奏者はこの船のスタッフで、いつもはオフィシャル写真係り。愛嬌があって元気のいい若者たちだった。ソ連時代など知らない世代なのだろう。バラライカとアコーディオンの演奏はなかなか上手だった。

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5月31日(火)キリルロフ村の修道院と放課後学校

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次の日の見学はゴーリツィというところから、バスで30分ほど行ったキリルロフという村にある15世紀からある修道院。村名は、キリル文字のキリルだと、すぐにわかった。その昔、9世紀ごろ、ギリシャ正教の伝道師であるキリルとメソディウス兄弟が宣教のため、ブルガリアに入り、スラブ系の言語には文字がなかったので、ギリシャ語アルファベットから、スラブ言語用のアルファベットを編み出す。それを使って、聖書を訳して、布教に使った。聖書(バイブル)イコール、ブック(本)であることがキリスト教の魅力。なので、東欧のスラブ系の国(ブルガリア、セルビア、スロバキアなど)では、キリルの名前はカトリックのパウロ、ペトロくらいに知名度が高い。1398年に建設されたこの修道院には聖キリルのお話が、フレスコ画になって、教会の壁を飾っている。

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この修道院には中世の時代、病院や貧民、老人などを収容する施設もあったという。また村の要塞の役目も果たしたので、大きな敷地が石の城壁で囲まれている。ポーランドやリソアニアからの侵略にはこれで耐えたが、20世紀のボリシュヴィキには役立たず、ソ連時代には解体の運命に遭う。ソ連崩壊後、修道院としての活動が復活したが、まだ細々とやっている感じだった。ここにも幾つかのオニオンドームの教会がある。ここのは濃い緑色のタイルで覆われている。ドームももっと大きい。敷地のサイズから考えると、相当大規模な修道院兼要塞だったと想像できる。町にもそれなりの人口が住み、商業活動も活発だったのだろう。

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もう一つの訪問先はこの町の小、中学校生の放課後学校。ここで3年生くらいの少女が50代くらいの婦人から、伝統的な刺繍を習っているところを見学。そのあと、3人の少女、少年が最近メダルをもらったという詩の朗読をしてくれた。もちろんロシア語だから、私たちは詩の内容は分からないし、どのくらい上手なのかも判断が難しかったが、詩の朗読ということがこの国では未だに、鑑賞の一部として、その伝統が残っていることを知った。

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ルイビンスク人工湖を通過

船に戻って、またすぐ出航。次の停泊地はヤロスラーブリという、ロシアのフィレンツといわれる美しい街、またロシア建国当時(13、4世紀)この辺りは「黄金の環」(ゴールデン•リング)と呼ばれ、地元勢力の核となる町がいくつも存在した。

この記事の題名は「ヴォルガ河クルーズ」としたが、これまでは湖とか違う川で、本当にヴォルガ河をクルーズするのはこの辺りから始まる。ヴォルガ河の水源地はモスクワの北西部で、北方(200キロ位?)を西から東に流れ、カザン辺りで方向を南にかえ、どんどん南下してカスピ海に流れ込む。

ヴォルガ河からバルト海への突破口はロシアの長い長い夢だった。ロシアはカスピ海から、または黒海から、ヴォルガを通って(昔は川が交通路)、人も文化も商人も入ってきたから、それがバルト海に繋がれば、通商的、軍事的に大変な利益を齎すと考えられていた。

ダムや運河を作って、モスクワからペテルブルク(というより、バルト海への突破口)までの運航を可能にしたのは、偉大な(?)スターリンの大プロジェクトの産物で、モスクワの近くの運河に、彼の巨大な銅像があった(彼の死後、脱スターリン運動で除去される)。そしてこの水上ルートはヴォルガ〜バルティック・ウォーターウェイと呼ばれる。スターリンが使った労働力は強制的に連行された政治犯、とにかく非人道的方法がとられたらしい。スターリンとしては日本軍の捕虜についてもだが、ロシアにもっと労働力さえあれば、欧米に対抗できる国造りができるとでも思ったのだろう(アメリカはアフリカ人を奴隷として使ったではないか!)。また少し前まで文盲で中世的生活をしていたほとんどの人々を熱狂させるのは、愛国心を掻き立てるのが一番手っ取り早いと思ったのだろう。今、似たようなことをプーチンがやっている。

途中、ルイビンスク湖という世界最大の人工湖を通過する。前述した「シベリア物語」という映画の後半は、肝っ玉の据わった富農の娘との結婚式中に捨てられる大人しい農夫の息子が、その後、都会に出て、大学に行き、第2次大戦でおった瀕死の重傷をサバイブした後、共産党の重鎮にのし上がり、故郷の村も含めた広大な地域を水面下にする巨大人工湖建設の計画を進める。しかし、最後、湖の底に沈むことになる故郷の村をヘリコプターから視察して、考えを変える。そして、そのあとそこからオイルが吹き出る(ここはバク市のことを取り入れていると思われる)。これはフィクションだが、この人工湖がモデルになっているのではないかと、私はまた、それを裏付ける証拠を探そうとしている自分がおかしくなる。なぜか私はロシアの歴史に心打たれる。ロシアン美術館の国民的叙事絵画についてもである。他の国ではそんな感情は起こらなかった。例えば、ナポレオンを英雄的に描いたデイヴィッドの絵など、熱心に見たことはなかった。

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6月1日(水)ヴォルガを下って、ヤロスラーブリへ

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船は人工湖の南端からヴォルガ河をしばらく下る。そしてコトロッシ川と合流するところがヤロスラーブリ。古くからのヴォルガ流域の物流集約基点で、シベリア鉄道もここを通っていく。この町はユネスコ世界遺産に登録されている。中世からの古い町で、大戦中、戦禍を免れたというだけでなく、18世紀にエカテリーナの命令で都市計画が実行された。エカテリーナはドイツ人で、彼女は5万人のドイツ農民をこの近くに移植した(第二次大戦後、彼らは追放の憂き目に逢う)。

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ここのエリア教会のフレスコ画は有名で、この旅で私が見たフレスコ画のうち、ペテルブルクの血の上教会の復元されたもの以外では、ここのが一番美しかった。礼拝堂の正面にあるイコノスタシスは高さ15メートルもありそうな立派なもので、イコン画で覆われている。さらに金と彩色のフレスコ画が天井を含めて、柱の上から下まで描かれている。ドームに真ん中からロウソクたてが何段にも囲む美しいシャンデリアがいくつも下がっている。全体にバックグラウンドがブルーがかっている。そのブルーが美しい(ラピスラズリか?)。それに赤、黄、ゴールド、オレンジなどの彩色が使われている。その立派さはここ数日見た田舎の教会とは違う。この町には中世から、ヴォルガ通商で大儲けをした大商人がたくさんいたのだ。

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さらに、腰壁にはカルフルな模様タイルが使われている。東欧とか中近東の影響が見られる。確かに16、7世紀には中近東との通商要地だった。このままヴォルガを下れば、カスピ海に出るのだから。カスピ海の南岸はイラン、当時ももっと大昔もペルシャは一大文化国家だった。

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自由時間で近くのマーケットへ

この町はソ連時代にも地域の行政府がある地方都市だったので、その頃建てられた殺風景な建物も並んでいる。地元の住民用のレストランやお店も多い。ペテルブルク以来の都会である(人口60万)。食料品のマーケットに入ってみる。黒海に近くなったせいか、経済圏が南部の一部になったのか、イチゴ、チェリー、メロン、オレンジなどの生鮮食料品が豊か。私は夕食後のデザートにイチゴとチェリーを買う。イチゴをつまみ食いしてみると、なかなか上質のイチゴで、新鮮で甘かった。夕食テーブルで、仲間たちに摘んでもらう。

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マーケットを歩いていてもう一つ気が付いたことは、この国には酢漬けが多いこと。ロシア映画を見ていると、よくきゅうりのピクルスをかじっている。この写真はそのほんの一例。お酢は安いし、短い夏に収穫した野菜を保存する一番手っ取り早い方法だったのだろう。

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パッペット・シアターで細密画の箱を買う

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自由時間が終わり、再集合して、バスでパッペット(操り人形)•シアターに行く。平日の昼間で公演は見られなかったが、使われるパッペットのミュージアムを見学。ロシアには伝統的に結構ユーモラスな魔法使いや動物のおとぎの話の世界があるようだ。

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ここで、私たちは漆器の細密画の箱のお店に入る。これは古くからの伝統工芸ではないが、現在マトリョーシカよりもずっと、高級なお土産品になっている。ギリシャ正教ではイコン画が教会文化の重要な部分。中世以来、需要があったから、優秀なイコン画家が多く生み出された。モスクワのトレチャコフ・ギャラリーにはその膨大なコレクションが展示されている。ところが1917年以降、ロシア革命で宗教は禁止され、イコン画家が多く失業してしまった。そこで、救済策として、新しいアート工芸品が開拓され、この細密画漆器箱が盛んになったという。この近辺にそのアーティスト村があるらしい。私はエルミタージュ美術館のギフトショップでも10分くらい、あれこれガラスケースから出してもらって、手に取ってみた。絵には幾つかのジャンルというか、テーマがある。一つは風景画、それから、クリスマス・シーンというか雪景色、そして、もちろん美人画、それとおとぎ話のシーン。いいものは小さくても2、3百ドルになるので、そこでは決めかねた。このパッペット・シアターのお店で再度、見た結果、おとぎ話のテーマで、民族衣装を着たおさげのかわいい女の子とおじいさんが森の中でお別れを言っているものが気にいる。店の人はこのおとぎ話をしてくれた。紅黄葉した白樺の木々、そこに金粉が散らされている。そのエクスクイジットな愛らしいさが気に入って、買ってしまった。約270ドルだった。まあ、お手頃の旅の記念品だろう。箱は紙でできている(ペーパーマシエ)ので軽い。店の人はこれは一番有名なアーティスト村であるフェドスキノ村の作品だと、私の選択を褒めてくれた。

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王朝交代劇の舞台となった歴史の町、ウグリッチ

船に戻り、すぐ出航。翌日はウグリッチという、ロシア史上、有名なところに行く。船はヴォルガ川を上流に向けて進む。ルイビンスコ人工湖で南に舵を切りヴォルガ川を南に上る。

ウグリッチは歴史的な町。ヴォルガ沿いにいくつものオニオンドームが見える。ドームの色は緑、ブルー、銀色など、ニュー・リッチな人々が次々に建てたという。故郷に恩返しというようなことらしい。しかし、ここが有名なのは、16世紀にイワン雷帝が亡くなった後、10才のプリンスがここでひっそりと育てられていたが、何者かに殺害される。ツァーリ代行を務めていた娘婿のボリス・
ゴドノフに疑いがかけられる。同名のムソルグスキーのオペラの筋である。

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当時、ロシアの北はポーランド(強国だった)、南はタタール(トルコ・モンゴル系)から攻撃されていた。そして、ここでルーリック王朝は終止符を打ち、数年後(1613年)、ロマノフ家の当主ミカエルが地方豪族たちの支持を得て、ツァーリになる。こうしてロマノフ王朝が始まる。

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ロシアン美術館で見たイワン雷帝の像

ここはロシア史でも重要な地なので、ロシア人の観光客も多い。ツァーリという言葉はロシア語だが、シーザーから来ている。東欧のスラブ系民族国家は、皆それぞれのツァーリに統治されていた。ロシアではイワン大帝(3世)が初めてツァーリと自称したと言われる。イワン大帝が治めるモスクワ公国が圧倒的に強く、全ロシアを統一支配することをボイヤーと呼ばれる地元貴族達の議会が認め、1478年にその長として、イワン大帝(3世)がツァーリになった。ということは、それ以前から、そのタイトルは存在し、誰がツァーリとなるべきかという意識も論理もあった。東欧のスラブ民族だけでなく、ドイツやオーストリアのカイザーという名称もシーザーから来ている。古代ローマの存在と影響はそのくらい、絶大で広範囲に亘り、西洋文化の基礎になっていることがうかがえる。

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4代目のイワン雷帝の英語名はイワン・ザ・テリブル(Ivan the Terrible)。1552年、このツァーリがカザンに蟠踞していたモンゴルの居城を陥落して、240年に亘る「タタールの軛」からロシアを解放する。しかしその後、彼は人生後半から本当にテリブルになったらしい。が、ガイドさんは、テリブルという訳は適切でないという。使われているロシア語の形容詞にはawesome(畏怖せしめるような)という意味があると説明する。もっとポジティブなのだ。そう言われると日本語の「雷帝」というのは適訳、誰がこの名訳語を考えたのだろう?

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男声アカペラ合唱、ヴォルガの舟唄を歌う

クルーズ中にはロシアについての講義も

退屈しのぎに行われたロシア語レッスンや、クッキング・デモや、ローカル・ピアニストによるコンサートや、ダンス・コンテストだけでなく、この六日間、私たちは毎日モスクワ大学の歴史・政治分析科の女性教授の講義を受けた。「ピュートル大帝という改革者」、「ロシアの王朝のたそがれ」、「過去となったソ連時代−否定か?ノスタルジアか?」、「過渡期のロシア、ゴルバチョフからプーチンまで」、「今日のロシア、課題と展望」と題したかなり程度の高い興味深い講義だった(また、講義内容に関連した映画やドキュメンタリーのフィルム上映も1日中、部屋のテレビで観られるようになっている)。40代の女性で、ハイピッチの声で訛りの強い英語で話す。しかし英語の新聞や論文を読み、英語で論文を書いているのだろう、英語には問題なく、知識はとても深い。専門が政治分析ということからか、彼女の政府批判はユーモアも挟むが、かなり辛辣。この傾向は「19〜20世紀のロシア近現代史は特殊なユーモアを尊ぶ知識的風土がある」と、日本の朝日新聞の米原万里さんの追悼記事にあった。この教授のシャープ・タン(毒舌)も、そういうことらしい。

最後の日には、質疑応答と「ロシア人の性格」という1時間も設けられ、いろいろ討論も行われた。伝統的なロシア社会は基本的に農業社会。家長制ではなく、兄弟で公平に家の財産は分けられ、何年かに一度、村中で、家族のサイズによって、土地の再分配が行われたという。「Poor but equal 貧しいが平等」が社会のノームだったという。この考え方が20世紀に共産革命を成功させたのかも知れない。
またロシア社会における女性の位置については、ひとり旅の女性たちから多くの質問が投げられた。

私はタタール人(トルコ及びモンゴル系)の影響と、彼らへの人種差別について質問をする。タタール人の影響ははっきりと見られるという。まずロシア人の性格がmeekだと言った。私が持っている英和辞典の訳1は柔和、おとなしい、そして訳2には優しすぎる、いくじのないとある。アメリカでは一般には訳2の意味に使われる。そして金銀などの宝飾を好むのも彼らの影響という。また人種差別については、あからさまではないが、あるという。彼女は白人系だが、黒髪だからか、タタール系と見られることもあり、モスクワでアパートを探した時、断られそうになった経験があるという。ローカルの人からのコメントは貴重。

ロシアン・ジョーク

この真面目な講義よりも人気だったのは、マネージャーが主催する毎日のミーティングの前座に紹介されるロシアのポリティカル・ジョークだった。無数にあることを知っている乗客がもう一つ、もう一つと言って、おねだりする。私が覚えているものに、ロシアの王朝はいくつ? 3つだという。皆がおかしいという顔をすると、3つ目は現在進行中のプーチン王朝、というようなもの。

モスクワ到着の日

最後の日の午前中には、すでにモスクワ運河を通って、モスクワ川に入る。ランチの前のミーティングでは、船会社からの宣伝も入る。彼らが得意とするエジプト・ツアーが翌年(2017年)から再開されるという発表がある。2011年のムバラック大統領失脚以来、イスラム極右派によるテロも多く発生し、この会社も中止していた。今申し込むと500ドルくらいディスカウントしてくれるという。私はまだその頃エジプトには興味がなかった。

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最後に絵付けをしたマトリョーシカが本人に渡される。その後は、今までの勉強の成果を試すため(?)、クイズが行われる。紙と鉛筆が配られ、30題くらいの質問が読み上げられ、回答を選ぶ。名前を書いて、提出する。結果はツアーに最後に発表されるとのこと。

モスクワ近郊

私たちの船はモスクワまでの船旅のホームストレッチに入る。以前に書いたスターリンが20万人の政治犯を使って強行に達成した水利工事で、ヴォルガ河とモスクワ川の間にできたこのモスクワ運河を通る。入り口でレーニンの巨大な立像と記念碑の横を通りすぎる。隣に同じくらい大きいスターリンの像もあったが、脱スターリン運動で除去されたという。

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周りの景色も変わっていく。まず人家が増えてくる。そして、モスクワのお金持ちのウィークエンド・ハウスが並ぶ。行き交うモーターボートも多くなる。

モスクワ川の停泊地

ヴォルガ河の支流、モスクワ川を南下して、ランチの後にようやく、モスクワ市内の川の駅に無事到着。市の北西地区にあり、なかなか立派なターミナル・ビルが建っていた。スタイルからみて、どうもソ連時代のものらしい。ブルータリズムと呼ばれる建築スタイル。ここから私たちはようやく、20世紀のロシアを見学することになる。

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萩 原 治 子 Haruko Hagiwara

著述家・翻訳家。1946年横浜生まれ。ニューヨーク州立大学卒業。1985年テキサス州ライス大学にてMBAを取得。同州ヒューストン地方銀行を経て、公認会計士資格を取得後、会計事務所デロイトのニューヨーク事務所に就職、2002年ディレクターに就任。2007年に会計事務所を退職した後は、アメリカ料理を中心とした料理関係の著述・翻訳に従事。ニューヨーク在住。世界を飛び回る旅行家でもある。訳書に「おいしい革命」著書に「変わってきたアメリカ食文化30年/キッチンからレストランまで」がある。

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