教科としての現代文論

私は現代文が嫌いだ。

以下、詳しく順を追って説明していくが、最も大きな理由は

現代文という科目、それ自体が少数への弾圧になる可能性を孕んでいるから

だ。

例えば「彼女が拳を握りしめ泣いた理由はなにか」という問題があったとす

る。そこで問われているのは彼女のみが知る我々が決して理解しえるはずも

ない心情であり、そもそもを言えば我々は他者の心情を完全なかたちで正し

く理解することは不可能に近い、いや不可能だろう。

感情というものは個人に限定的であり、他人と共通の価値観をもつことは決

してあり得ない。感情を理解できたとしてもそれは、上辺の理解という形だ

けで、私における”喜び”と他人にとっての”喜び”が次元が違うところに存在す

る限りお互いにお互いの気持ちを理解しうることは絶対的に不可能だろう。

そのような相互理解不可能の原理を無視して現代文という科目は論を進めて

いる。先程の「泣いた理由」の根拠を見つけることは我々と彼女が他人であ

る限り不可能であり、それ自体が問題として成立していない。

彼女は意味もなく泣いたのかもしれない、自分を理解することができずに泣

いたのかもしれない、はたまた喜びを隠すために泣いたのかもしれない。

もちろん大多数、いやほぼ全員が周りの文脈や「拳を握りしめて」という

部分から、彼女は悔しさのあまり涙を零したのだと推測するだろう。

しかしよく考えてほしい。文章中に書かれた感情や動作、発言などの

”根拠”とやらは我々が我々とどこか通じるところがあると思うから”根拠”とし

て成り立つのであり、自分と考えが違う、習慣が違う、もしくは背景が違う

人にとっては”根拠”として成り立たないのである。

すなわち、”根拠”は絶対的ではなく、論理的脆弱性をもってい

るのである。

それは少数者を迫害する可能性を孕んでいる。

つまり少数者を指差して「大衆に迎合しろ」と言ってるようなものである。

現代文は絶対にわかちあえない自分と他者とを無理やりに一つのカタマリに

してしまおうとする『価値観の統制』リスクをもつ。

この価値観的統制により人は自分が何であるかを見失ってしまう。

他人との相互理解は不可能なはずなのに、現代文はそれを可能だとみなし

自分と対象との間にある溝を無理やり埋めようとする。

このような多数派への迎合はアイデンティティの喪失、文化的多様性の消失

などの事態につながることが懸念される。

なので文章による思考の統制は決して許されるべきではない。


さらに別の理由としては文章で紡がれた論理がそもそも客観に忠実でないと

いうこともある。

現代文という科目は生きた言語を扱う以上、単語は文脈の中で暴れまくる。

もちろん全員が全員同じように解釈できない言葉も多数存在する。

例えば読む人の出自(生まれた時代や地域)がそれぞれ違うこと、その人が生

きていく中で様々な知識や体験を累積すること、などは多方面で読解に影響

する。

生まれた時代背景や地域はその人間の価値観に(個人で差はあるけれども)

多大な作用を及ぼす。

なので例えば同じ国の日本であっても東京の人間のボキャブラリーと京都の

人間のそれは全く異なるし、親世代と子世代の言葉の解釈が全然あっていな

いということもありうるのである。

また彼を取り巻くコンテクストが流動的で不変なものであることを考えれば

同じ人間が日を改めて読んだら解釈がまるで異なっていたということも当然

といえば当然なのかもしれない。

そのような中で文章をもちだし、ただ一つの解釈を強いるというのはあまり

にも酷なのではないか。

現代文には予備校の講師が堂々とおっしゃるように100人中100人が納得でき

る答えはない。

客観的に読み解いていけば全員が全員、同じ答えにたどり着くことができ

るというのは根も葉もない話なのである。

仮に全員が納得できる答えがあったとしたら、なぜセンター国語で満点がで

ない年があるのか?(もちろんその年の受験生が馬鹿だった。という答えは認

めないが。)

それは言語が生きているものであり、また人が生きている証拠なのである。

言葉は動物のように日々かたちを変えて存在する。我々も恒常的ではない。

だとしたら、個人により、また文化の背景により価値観が違うなかで文章を

読ませ全員に同じ解釈を強いるのはなぜなのか。

答えは到底得られそうにないが。



私は以上の観点から現代文という科目の廃止を願っている。



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