十音の灰(一~六話)

十音の灰

                         つばきあろ(著)

貝殻に、君の名前を書いて、流したら、寄せては引いてゆく波間には、君を呼ぶ声がずっとこだましていた。降り積もった落ち葉を割って歩くみたいにさ。
 波間に声を数えれば、永遠に生きた君の鼓動もきっと安まるだろうって、僕はそう思ったよ。

海凪鳥の群れが鈴の音を薄めたような微かな声で鳴けば、数日の間に海は静まる。海荒町の労働者の耳の良いのは、穏やかな海が暮らしの希望となるからか?いや、凪いだ海には絶対に出てはならない、という町の掟があるからだ。
この地方では、静まった海の透明度は五十メートルを下らない。凪いだ海では深く暗い海底まで透けて見える。しかも、海荒町を両断するように流れる虎河(とらかわ)の河口から一キロメートルほどの海域には、黒牙石と言う宝石の鉱脈が、海底に三百メートル余りに渡って隆起していて、しかもその純度は陸上で見られる黒牙石の鉱脈よりもはるかに高かった。その岩のかけらでも取れたなら、陸上の鉱脈で取れる黒牙石の原石よりも、眩かった。
黒牙石の表面は滑らかに黒光りしている。しかし穿つと、濃い月見色をしていて、その色を見ることを、主に石を利活する奏運技士たちは、虎口を割ると言って常用句にしていた。

「おーぃ、九丞(きゅうすけ)。」
秋のささやくような、しかし澄んだ声で、茶色く尖った工具の片づけをしている僕は呼ばれた。
「なんだーぃ、山号の爺様。」
「お前様んちの、なんといったかいのぅ、あれ、白い甘鳴(かんな)がいただろう?あいつにこれをやってみんかのぅ?」
「えぇ、どれです?」
よく波紋の広がる、明るい河の淀に、二隻の小舟が寄り集う。山号爺がしわ深い指の爪先で、白い生き物の長い両耳を挟んだ。爺の手程の大きさのその生き物は濡れてしまって可哀そうな風体になっている。
「おめぇ、淀の真ん中で木っ端に捕まって漂流してただよ、こいつば。九丞よ、おめぇんとこの甘鳴といっしょにしてやったらどげだろうのう。」
「これは。運のいい子だ。分かりました。うちの甘鳴と一緒に暮らしてもらいましょう。」
僕はそっと、その白い、ずぶ濡れの小さな生き物を両手で包み込んだ。カタカタと震えている。綿の手ぬぐいをサッと腰から引き抜いて、くるくると包んでやった。わたあめのボールから、長いピンクの両耳が、ぴょん、ぴょんと飛び出ているようで、至極かわいいのであった。

 僕はいつも無言で、灰色の空気の静寂が満ちた自室に入る。背丈の半分より少し高い濃い緑の観葉植物はお気に入りで、迎えてから二年と八カ月になる。白いカーテンを、乾いた音でシャッと開くと、白い陽光が霧の中から部屋の内側まで拡散した。
チィチィ、と鳴くのはケトルだ。火にかけたケトルみたいに少し甲高い声で鳴くからケトル。そして、
「さぁ、今日から君の仲間だよ。」
身体もあったまって、少し元気になったみたい。器用に二本足で跳びながらケトルに近づいた。小さな前足はちょこんと胸の前にたたまれていて、その子はケトルの鼻先に、自分の髭先をさわさわした。ケトルは悪い気ではなさそうな顔で、僕の方を見上げた。
「よーし、この子の名前、何にしようかな。」
僕は部屋の辺りを見回した。目につくのは、灰色の壁、大きな木材の梁、緑、そして白い光。そしてその子に目をやると、ピンクの耳に、青いつややかな目。
「よし、君の名前はコットンだ。」
毛も乾いて、ふわふわになったコットンの額を僕は人差し指で撫でた。鼻先を上に向けて、
コットンは喜んでるみたい。
 ふふ、僕は少し微笑んだ。そして甘鳴たちを背に、朱い垂れ布の掛かる簡素な祭壇に、湯気の揺らめく温かいお茶と燻ぶる線香を供えた。湯気と煙が交互に、異なる速度で天井に向かって昇っていく。僕は弟に、今日も僕らを守ってくれてありがとうと、願った。それが僕の毎朝帰ったらやる事だった。

 ふと、開け放したドアの影から、
「よぉ、九丞。山号のじっちゃんから聞いたぜ?甘鳴、二羽目を拾ったんだってな。」
頭の高い位置で髪の毛を棒状にまとめた、長身の男が声をかけて来た。
「拾ったのは、僕ではないけど。そうだね、今名前を付けたとこだよ。」
僕は朝食の片づけをしながら席を立った。立って、台所の方に向き直ると、いつの間にか部屋に上がっていたその男、七都(ななつ)と正面になった。七都は僕より十五センチは背が高い。
「七都、洗い物しなきゃなんだけど。」
僕は目も合わさずに、彼ののどぼとけ辺りに目線をやって言った。しかし、七都は退く気配がない。
「ま、お前の勝手なんだけどよ。同じ毛色だし、問題はねぇだろ。」
七都は正直、世話焼きだ。おせっかいと言ってもいい。相手のことを心配しての物言いだったが、僕にはいつもどこか、上から目線の圧を感じずには居れなかった。だけどそれは、七都が兄貴肌で、そう言わずにいられないからだと言う事も分かっていた。甘鳴と一緒にする仕事は簡単だけど簡単じゃない。言葉でないものを理解するのが仕事になるから、あまり鈍いと仕事にならない。だけれど敏感過ぎても、意味を拾いすぎるので混乱する。程々に聡いことが、暗に求められている。
「あぁ、後な、四菜(よつな)の黒甘鳴、鳴いたってよ。」
後頭部を軽く掻きながら、去り際に言う七都。
「何時ごろ?」
「お前らが河から帰ってきたころと同じくらいかな。」
「…そう。分かった。」
七都が言い残して去った。玄関の壁を這う配管から、霧とお湯のしんしんと流れる音が耳に響いていた。

「九丞や。明朝に採った虎貝の標本、どないなっちょる?」
山号の爺様が、寄宿舎とは幾分離れた別棟にある、素子精製炉にやって来た。午前中はいつも霧深いこの街も、日が中天より差す頃にはすっかり晴れ上がる。龍の背のように荒々しい黒顎(こくぎ)山塊を背景に立つ、僕ら奏運技師の集落の建築群の中でも、素子精製炉、通称〈炉〉は、五階建て地下二階の建物に匹敵する吹き抜けの真ん中に、大地中より深く伸びあがっているかのように座している。
「あぁ、爺様。今出来上がったとこだよ。特にいつもと変わりはないけれど、ほら、この耳のところ、見ていただけませんか。」
僕は、虎貝の特徴である虎の耳のような形をした二つの突起を指して言った。
「およょ、これは。」
山号の爺様が、片眼鏡を裾から取り出す。
「ええ、少し、紫がかっています。」
「ふむ。幽素が東に濃くなっているようじゃの。」
「…ええ。」
虎貝はその生態から、体内に幽素を取り込んで陽気を練り込み排出する。その代謝物が、河の流れに乗って海荒町の沖合約一キロメートルの海底に滞積する。幽素は自然界に散在する運勢の流れの粒子だ。その力場の流れが東によっているのだ。東は太陽の昇る方角で、本来は縁起が良い。しかし、海荒町の東には、楼都と言われる思想を異にする町があった。
「原因に心当たりはあるかいの?」
爺様は顎髭を触りながら問うた。
「いえ、それがまだ見当もついていません。他の技師たちにも訊ねるつもりです。」
「うむ。それが良い。急くことではないと思うがの、何せ運勢は川の如く風の如く、女房の気分が如く、急変するものじゃての。」
爺様がにっこりと笑いながら、念を押してくださった。
「ありがとうございます。ですが、そのようにおっしゃると、五業の婆様が拗ねてしまわれるのでは。」
僕もうっかり、山号爺様のおどけに相槌を打ってしまった。爺様も喜んでいたし、ここだけの話と言う事にしておこう。

炉の周りには、壺と呼ばれる精製した素子を貯蔵している容れものが、五基、炉を取り囲むように配置されている。白く、マットな質感に、不思議な文字とも回路ともとれるような溝がぐるりと刻まれた炉。炉が稼働している間は、昼夜問わず、その溝が明滅し、水色や紫、淡い黄色や緋色にぼんやりと瞬く。奏運の技士達以外の人々がそれを見ることは滅多に無いのだが、その幻想的な威風を見た者が、蛍塚と呼んで、町の住人たちは、炉の事を蛍とか、蛍塚とか呼ぶようになっている。一方、周りに配置された壺は、炉に対峙して黒が基調の艶っとした質感で、でっぷりとした、まさしく大きな壺の型をしていた。炉の高さは二十メートルを下らなかったが、壺の高さも四メートルほど、直径も三メートル以上はあり、その巨躯から大黒と呼ばれていた。壺の表面には皹が入っている。この皹は、設計上の皹で、後から付いた傷ではない。壺自身が生成された時に持っていた皹で、奏運の際、この壺に貯まった素子の生成物を励起している時には、この皹が、ゆっくりと這う稲妻のように青紫や白に光るのであった。
九丞が棟を後にしようとした時、思い出したように、
「九丞、東の壺中はどうなっちょるかの。」
山号の爺が訊ねた。九丞は素早く、円筒状の棟の内壁に沿うように設えられた木製の螺旋階段を昇って、二階層目に向かった。
「・・・まだ紫がかってはいません。」
九丞は応える。
「ただ、水面がざわついているような気がします。」
九丞の言うように、東に置かれた壺の水面は、細かく振動しているように見えた。
「そうかの。だとしたら・・・」
山号爺の提案に、少し目を丸くした九丞。
「それは、全員でしょうか?爺様。」
九丞の問いかけに、背を向けたまま、山号爺はひげを撫でて思案しているようだ。そして、そうじゃ、と言った。九丞は、思いのほか、ことが急進しそうなことを山号爺が心配したのだと考えたが、奏運の技師に余計な心配はない。勘が確かだからだ。そうして、十指と呼ばれる奏運の技士が、一同に会する集いが開かれることとなった。

 海荒町の南側背中には、黒顎山塊(こくぎさんかい)、そしてなだらかな丘陵地帯を経て、町、海、と続いている。虎河は、山塊から丘陵地帯と町を経て、海へとおおらかに注いでいる。風のそよぐ丘陵地帯の、町と海を見晴らすのに丁度良い頂、一本杉の丘と呼ばれる土地がある。その一本杉の懐に、座り込んだ風変わりな男がいる。男はほとんど話さない。ただ、風の音を聞き、鳥と語らい、草花を愛で、動物を使役した。その所作にまるで灰汁が無いので、男は自然に溶け込むように存在し、純粋な人間の姿をしているように見えた。名を、一翼(いちよう)と言った。一翼は、黒甘鳴を使役している。黒甘鳴は人に吉兆を報せる生き物だ。黒甘鳴が鳴けば、事態はうまく行っている。うまく、とは、調和に向かっていると言う意味だ。一翼には、癖と言うものが無かった。彼の行動や態度はパターンを持たず、常に現況に即して振る舞いを変えられた。それが当たり前かのように。そのため一翼は何かとぶつかると言うことが無い。人と意見を違えても、自分の意見を押し通すことも、相手の意見に迎合することも無かった。彼が奏運技士のリーダーであること自体に、奏運の本質が分かりやすく見て取れた。

佇んでいる一翼(いちよう)のもとに、一羽の黒甘鳴が居た。他の甘鳴よりも一回り小さいその黒甘鳴は良く懐いているようで、胡坐をかいた一翼の内腿とふくらはぎの上にまるくなって眠っている。ふと、そよぐ風が杉の木の枝葉をサァッっと鳴らし、はらりとその葉を一翼の目の前に落とした。甘鳴は、つぶらな片眼を開けて、周りの様子を少し伺うと、寝そべったまま鼻をひくひくさせて一翼の顔を見上げた。
「なにやら、騒々しくなりそうだ。」
一翼は甘鳴に呟くようにして、
「ほら、お入り。」
と、肩掛けにしている甘鳴袋、甘鳴が入って主人とともに移動するための袋だが、それに甘鳴を呼び込んで、立ち上がった。立ち上がって、少しお尻についた草をぽんと払うと、
「さぁ、行こう」
と言って、ややゆっくりと、町の方に降りて行った。火が十分に傾いて、夕方に差し掛かろうと言う頃だった。

 ざわざわと、居酒屋の一室の周りに人だかりが出来ていた。人だかりは、ぼんやりと橙に光る居酒屋の提灯の下にまで出来ており、皆口々に、
「一翼さん。」
「一翼さーん。」
男も女も一翼の名を口にしている。たまに、
「二緒(ふたお)さん!」
「二緒の姉貴!」
と言ったような野太い声が出た。
「今夜はなんだ。」
「十指(じっし)がそろうなんてただ事でねぇ。とんでもない吉事があるんでねぇか?」
「いや油断はできない。凶事かもしれない…」
憶測が飛び交いざわつく人込み。居酒屋はちょっとした祭りのような状態だ。
「おい店主!外野をどかせてくれ!」
七都が店外から叫んでいる。どうやら最後に到着したのは七都らしい。
「七都さん!」
「七都の旦那ぁ!」
「今夜の会合は何の理由なんですっ?」
町の会報を配る物書き、新聞屋が七都に迫る。
「俺も詳しくは知らねぇんだよ。ほら、どいたどいた。お前らのせぇで道があかねぇんだから。」
「旦那ぁ、何か一言だけでも。記事にならないっすよ。」
新聞屋が食い下がる。
「あぁ?そうだなあ。〝くろみ〟のあんみつは激うまだってことだ。」
七都はウインクをして、群衆をかき分けながら店内に入っていった。
「うーん、ここら辺に〝くろみ〟なんてお店、あったかなぁ?」
新聞屋の頭の中に?がくるくるしている間に、七都は彼の目の前からいなくなっていた。

「では、七都も来たことだし、本題に入るとするかの。店主、人を外へやってくれんか。」
山号が店主に声をかけた。
「えぇっ!もう無理ですよ、山号様。」
店主は泣き言を言う。
「ほいじゃ、あの部屋を使わせてもらうとするかの。」
山号は店主に目配せをした。
「えーっ、四菜、この座敷がいーいー。」
子どものように主張したのは、菜花の様な黄色い髪をした十二、三歳ほどの女の子だった。名を四菜と言う。
「四菜、あそこは風音も良く聞こえますし。今回の会合にはぴったりですよ。」
宥める二緒。二緒は四菜よりもまだ小さく見える。色白い男の子のように見えたが、女の子だった。
「では、、、」
店主は座敷の隅の一枚の畳を起こし、剥き出しになった板間の一部をさらにめくった。地下への階段が現れた。
 海荒町の地下には、古い海荒町が形を大きく崩さず存在している。現在の海荒町は、古い海荒町の上に増築されたのだ。百年も前、災が起こった名残で、潮汐の影響を極端に受けるようになった。そして百年前に新しい町を、満潮時の海水を避けるように町の上に建てたのだ。百年経つ間に、潮汐の影響も通常に戻り、現在の二層構造の町となった。旧市街とよばれる古い海荒町の層は、地下水路や倉庫として頻繁に利用されている。
 十人と、案内役の店主が、白い石灰岩が積まれてできた地下の通路を、ひたひたと歩いて行く。行燈がゆらゆらと、彼らの影を大きく、白い壁面に映し出した。四菜はそこに、ウサギや犬の影絵を手で作り、遊びながら進んでいる。そこに、キツネや蛇と言った影を加えて遊ぶのは、二緒だ。二緒は十指の中で最も静かと言われていて、巷では聖の二緒とまで言われていたが、特に四菜と一緒の時は、じゃれてコロコロと笑う事もあった。
十指の間に階級は存在しないが、町民の間では、数が少ない方が偉いと言う認識がいつのまにか根付いてしまっていた。奏運において、重要なのは数字の意味である。だが、その意味は通常の人には分からない。分かりやすく、数字が少ない方が偉いとするのが、この世間と言うものだった。したがって、九丞は殆ど町民と同じような扱いだった。九ちゃんとか、坊ちゃんとか言われていた。しかし九丞自身はそれを喜んでいた。上目遣いをされるよりも、同じ目線でいてくれた方が単純に気が楽だったのと、九丞自身、自分を特別に思いたくなかったからだ。だから、一翼がいつも、一人でいることが多いのも、なんとなく理由が分かっていた。一指は特別な存在として、町で崇められてしまっていたからだ。一翼の前では皆へりくだってしまう。一翼は寂しいだろうなと、九丞はずっと思っていた。
 通路の最後の角を曲がり、一稿は地上に出た。そこは海岸であった。地下を十分も歩いたところであるが、目の前の白亜の岩の上に、庵が一軒、建っていた。庵の障子は全開にされていて、海が一望された。今夜は凪である。
庵野座敷に踏み入ると、夜風の白い手のひらが、するりと頬に触れた。すると、雲に隠れていた月が、朗々と光りだし、海面を遠くまで撫でたのだった。遠く、海面を見渡すと、一キロメートルほど前方の海面が、緑や青に白を混ぜたように、ぼんやりと光っている。
黒牙石の幽素と反応して、プランクトンの群れが発光しているのだ。海面の月の光と、プランクトンの光は、波間で出会ってキラキラと会話しているようであった。
「ふふ、今宵も良いことありそうね。」
そう言って四菜と二緒は顔を見合わせ、座布団に軽い腰を下ろした。

 八名が座敷に座っている。真ん中の、囲炉裏に似た灰を入れている床穴を挟んで五対十枚の座布団が敷かれてあり、座っているのは計八名であった。片側には奇数の十指、もう片側には偶数の十指だった。何故、十指と言われている者たちが勢ぞろいしているのに八名しかいないのか?それは、第八指であった八星という名の技士が行方不明でいること。そして、零指がかつて一度も存在したことの無い数の者であるからだ。つまり、十指はたとえ勢ぞろいしても九人なのである。
 十指たちはそれぞれのシンボルカラーの甘鳴袋を肩から下げており、衣類は作務衣(さむい)を少し工夫したような簡素なものを着用していた。甘鳴袋は常に下げているが、甘鳴を常に使役しているわけではないので、甘鳴を連れてきている者も居ない者もいた。
 そして、山号爺が、そよ風に髭を撫でながら、眉間のしわを緩め、語りだす。
「このことが吉と転ぶか凶と転ぶかはまだわかりゃせん。じゃから、先ずは簡潔に言おうと思う。虎河の幽素が重く低く流れている。虎貝の耳が紫がかって来ておる。ここらでは重く低い気は楼都のある東から流れて来るんじゃから、またあの町で何かやっとるのかも知れん。」
皆、静かに話を聴いている。聴いていると言うより待っている。誰かが口を開くのをではなく、何かが起こって、口を開くべき時になるのを待っている。その時、朗々と輝いていた月に再び雲がかかり、ザザァと、松の枝を鳴らす須戸強い風が吹いた。口を割ったのは一翼だった。
「因縁のある楼都の人々、とりわけ不死学徒は、まだまだ自身の望みを諦めないどころか、高ぶってその実現に執心しているみたいだね。自信の信念を曲げてでも、奏運の技巧を取り込んででも、その望みを実現したい。その不滅性への執著、一体何が原動力になっている?」
 一翼の問いかけに、風が静まる。また、誰一人応えようとしない。時を待つ。すると、不意にガタっと、床下で音がした。
「おや、ネズミさんでも居るのかね?」
五業の婆様が片眼を開けて物申した。十指の護衛でもある店主が、俊敏に跳んで該当の場所の畳を剥がし、床を鉈で割る。ドカッと言う音共に、ガタガタガタっと、床下で何かが暴れる音がした。そして、
「待ってくれよぅ!悪気はなかったんだっ!助けて!」
「出てこい。」
店主が太い声で言うと、白い砂まみれになった新聞屋の小僧が床下から出て来て、
「す、すみません。どうしても目玉記事、書きたかったんです。」
と言った。
やれやれ、しんと静まっていた空気は急にぬるくなって、皆、肩を緩めた。
「おい、新聞屋。」
五業の婆様が咎めた。
「お主、下調べはどれだけ進んでおる?」
「へ?」
「何も知らんのに、わしらが集まったと言うだけでここへ来たんか?」
「は、はい。」
申し訳なさそうに新聞屋は答えた。
「うむ。では、お主に仕事をやろう。」
「へ?」
口を開け、目を丸くして五業の婆様を見る。他の十指も、一翼以外は少し驚いたような表情をしていた。
「やるかね?」
念を押す五業。
「は、はいっ。やります!」
半ば条件反射的に返事をしてしまった新聞屋。十指の前で興奮していたのかも知れないし、鉈で脅されて動転していたのかも知れないが、この返事が彼の運命を大きく変えるのであった。
「よし。では、少し話をしようじゃないか。お前たちも知っておろう。わしらとお前たちの先祖の出会いの話は。」
「は、はい。流雲の民と、黒顎を越えて来た南方の民族。それが私たちの先祖です。」
「さよう。」
五業の婆様は話し出した。
「昔、ここらあたりの土地には名が無かったんじゃ。人は、季節の獲物を求めて年に二度、流雲の民がやって来る程度で姿はまばらだった。しばらくして、黒顎山塊を超えて、一体の東の辺りに定住する者達が現れた。お前たち町民の先祖だ。争いを避けた流雲の民は、虎河流域で春と秋を過ごすようになった。
ある時、災厄が起こると言うので、流雲の民は東の村に報せを出す。流雲の民は奏運を知っておったから、災厄については察しが利いた。災厄が来るからに、この土地を一旦離れなさいと、東の村に警告したんじゃ。
 しかし、東の村の住人は定住者よ。家々は基礎を作ってから建てた木材の家だったし、井戸も掘っていた。鍛冶工業も起こっており、様々な施設を営んでいた。それらを捨てて、村を離れて生きることは彼らには難しかった。流雲の民の説得に悩み、しかし応じることは出来なかった。むしろ恐怖した東の村の人々は、流雲の民の言う災厄が来ると言う事の根拠を求めた。流雲の民はただ、白甘鳴が共鳴している、黒い風の走りが吹いている、大地から異臭がする、などとしか言わない。忠告に従い虎河流域西部に逃げた一部の人々を除いて、そんなことは何の根拠にもならないと、東の村の人々は彼らの警告を退けた。
 そしてその年の冬のことじゃ。黒い風が吹き、東の村は疫病に襲われた。春、季節の獲物は採れなかった。夏は干ばつが起こった。秋に採れるはずの作物も取れなかった。ついに冬、大地震が起こって、村の建物の多くが倒壊した。恐れおののいた東の村の生き残りは、流雲の民が妖術か何かを使ったとか、井戸に毒を巻いたとか、悪いのは流雲の民に違いないと決めつけて、団結してしまったんじゃ。愚かしいがの、人間とはそういうものじゃて。大きな妄念は人を歪めて支配する。その妄念の一つに、分からないものに対する恐怖があるんじゃ。流雲の民は、警告をしたにもかかわらず迫害されてしもうたんじゃ。
さらに、虎河流域にも進出した東の村の人々は、ここにも村を建設し始める。それが、海荒町の興りだった。この時、いくらかの流雲の民がこの村の外れに残った。また災厄が来た時、村の人々が困らないようにと言うお人好しな理由で。残った流雲の民は、流れ者と言われ蔑まれた。住んだ場所は河原や丘陵地帯、山塊の洞くつだった。そのような厳しい所で何故長い間血脈をつなげることが出来たかと言うと、彼らには奏運の術があったからだ。甘鳴を使役し、自然と対話する彼らは、吉兆を占って、危険を予め察知することが出来た。また、自然に偏在する富を予見することが出来たからだ。それが我らの先祖よ。」
皆、黙って五業の婆様の話を聴いている。いつの間にか月がまた甦り、冴え渡るその雫を海面に投げかけていた。海風がやさしく、庵を包んでいる。
 新聞屋は、やや上目遣い、正座して五業の婆様を見上げていた。五業の婆様はそんな新聞屋を見下ろし、片目で見やった。そして、唾を飲んだ音がした。
「リイウ。」
聴いたことがあるかえ?と言わんばかりに、五業は目で新聞屋に語り掛ける。首をプルプルと振る新聞屋。
「よろしい。では、会合の後、お前にとっておきの話をくれてやる。新聞記事には向かないが。我ら技士にのみ伝わる、かつての恩師の恩師のさらに恩師、奏運術士リイウと楼都、その因縁についての話じゃ。心して聴けよ。そして新聞屋。」
五業は改めて言った。
「お前には楼都に行って情報を集めてもらう。」
「ろ、楼都ですか。」
新聞屋は少しうろたえた。
何故なら楼都と海荒町の間には敵対関係が深くあり、また数年前も、技士の一人、八星様が楼都に誘拐、幽閉されてしまったと言う事件があったのだ。今、海荒町と楼都は緊張関係にあった。
「お主、やると言ったの?」
念を押す五業。それはあんまりだと、哀れな視線を新聞屋に送る四菜。驚く外の十指たち。
「婆よ、そんな危ない仕事、この小僧にか?それなら苦無衆(くないしゅう)にしてもらえばいい。あいつらなら…」
うなづく店主と、一翼以外の十指。しかしその言葉を途中で切って、五業は言った。
「油断。隠密とは油断の陰にあるものよ。こんな子供が?そう思わせているからこそ、出来ることがある。新聞屋よ。出入りするのは町中だけでいい。楼都の動き、気運を知ることの出来る情報がいる。頼めるね?」
深く短く、新聞屋は迷い、やがて泳ぐ目を真っ直ぐに定めて、
「やります。」
と短く言った。新聞屋、白居(はくい)は後に、この時、覚悟をして一皮むけたのだと、述懐することになる。

夜が更ける。庵には、五業の婆様、山号の爺様、そして白居が、残されていた。石燈籠のように座布団にくつろぐ二人と、神妙な面持ちの白居。山号が切り出す。
「夜も更けた。店も閉まっただろう。どれ、店の方に移動するかの。ここじゃとちと寒いじゃろうて。店主には言ってある。朝には切り上げるから、と。」
もと来た地下の通路を歩く三人。白い石灰質の壁はところどころ松明のせいか煤けている。
 
 楼都のメインストリートの幅は、海荒町の三倍くらいはあった。路に立つ市の規模も
それに見合った立派なものであった。質の良い土壁に並ぶ灯明のすすが、固まった影のようにその白い平面に付着していた。道に面して工房が軒を連ねる地区では、火を焚く熱気や金属を打つ音などがけたたましく鳴っていて、しかも昼夜に渡り火を絶やさない工房もあり、不夜城の様相を呈していた。さらにメインストリートの終点、その地区の中心には、工房が幾重にも重なった建物群があった。この町の機関部だ。ここに建っている直方体を歪に積み上げた建物は、夜になると朗々とその窓から灯台のように光を放つ。その様子が、幾つもの目を持っている巨人のようであったため、その建物群を総称して〝赤目〟と呼ばれていた。二キロメートル四方は在ろうかという敷地に、其々機能を分担した工房が、幾本か建っている赤目の窓の一つ一つであり、また化成装置を置いた施設がそれであった。黒顎山塊などで採れる特殊な鉱石から幽素を抽出していた。その機序や仕組みもエネルギー源も海荒町の炉とは異なるが、似た結果を残していた。一点異なるのは、海荒町では抽出された幽素を奏運に使うのに対し、楼都では幽素は特定の現象の起こる確率を高める不思議な物質としての位置づけだった。奏運は基本的に結果オーライの技術で用途は幅広い。国運から明日のご飯まで大小さまざまに作用する。楼都では、具体的に干ばつの起こる確率を下げたり、争乱の起こる確率を上げたりする。楼都の方が便利の良い使い方をしているように感じられるかもしれないが、特定の自然現象を人為的に起こしたり起こさなかったりするせいで、楼都の繁栄は、海荒町から見れば肥大化してしまい、自然世界の理と対立し、軋轢を起している。
 
 連なる工房の灯に頬を照らされながら、白居は数晩前の事を思い出す。山号と五業からこんこんと聞かされた、古い奏運と楼都のエピソードだ。
 
・・・今より五百年ほど昔。東の村は楼都と呼ばれる大きな町になっていた。虎河流域に出来た海荒町の五倍ほどの人口と経済規模である。この時、数百年単位で巡る災厄が、また始まろうとしていた。
海荒町には、リイウと言う名の銀髪の美しい巫女がいた。流雲の民の長だった彼女は、一人の楼都の男性と秘かに恋をしていた。鍛冶工の英嶺(えいれ)だった。英嶺は心優しく、何の理由か路傍で悪童に苛められて、顧みもされず傷ついた甘鳴を介抱してやった。その甘鳴がリイウの飼っていた甘鳴で、恋はそこから始まったのであった。英嶺は、しばしば虎河の河原に新しい鉱石を探しに来ていた。さらさらと流れる虎河の支流、そこでリイウと逢瀬を重ねていたのだが、ある時また、英嶺と奏運を強く結ぶ事件が起こる。午後、日の暮れる前に、約束の刻よりもずいぶん早くに河原に着いた英嶺の耳に、葦の群落から騒がしい、グェグェと言ったような暗く鈍い、耳障りな鳥たちの声が聞こえた。いぶかしんで英嶺は近づくと、両手の指の無い、小さな痩せっぽちの流雲の男の子が黒烏の群れに取り囲まれていた。黒鳥は鷲ほどもある大きな漆黒の鳥で、赤いくちばしをしていた。奏運では凶兆を示す鳥として一つの象徴になっている生き物で、暗い幽素の流れに乗ってやって来ると言われている。英嶺はその黒鳥の群れを、武器で追い払った。それが初めの凶兆を示していた。その男の子の名を、レイシと言った。やがて仲良くなったレイシと英嶺。生まれた時から指が無いと言うレイシに、英嶺は義肢の指を作ってやった。月々に改良を重ねるが、生身の指とは程遠い出来栄えに、かえって贈り物などしない方が良かったのではないかと英嶺は悩むが、レイシはありがとう、僕はこの指が大好きだよ、指がこすれて鳴るカチカチと言う金属の音も、リズムを刻んでいるみたいで楽しいよ、と言ってくれるのであった。
奏運の才に恵まれたレイシは、口で指を折る事で数を数えることを覚えて、数霊術(すうれいじゅつ)というあたらしい奏運の技の扉を開く。数字に意味を与え、吉凶を見るその新しい奏運術は、今までに存在していた奏運に比べて適応範囲は狭いが、とても高い精度を誇った。流雲の民は、この数霊術をもって、予言とも言えることを行えるようになった。多くの流雲の民が喜ぶ中、長であるリイウだけは心配していた。善意の連鎖で起こる事の裏には、必ず凶兆の足音が忍び寄る。凶兆は吉兆の背面の理であり、吉凶どちらかが欠けるなら、どちらも証しすることが出来ないと言った性質のものだ。凶兆の底流が、表層の吉兆を支えているし、凶兆が表層にある時は、吉兆がその底流にあった。例えば、迫害されている流雲の民は、恵まれない生活環境にあるが、おかげで隠れ里は誰にも狙われず、諍いや争乱に見舞われることなく平穏に過ごしていられた。余剰の恵みや富は、概して奪い合いの標的になるからだ。
これから起こる災厄に、一つの仇が存在するとするならば、英嶺はやさし過ぎた。と言う事だ。愛も又、その裏に怨みを飼っている。ある時、楼都の貴族の娘が英嶺に恋心を抱く。英嶺の見た目が良かっただけではなく、彼は人望にも厚かったからだ。貴族の娘、シュリは英嶺に近づくために、レイシと仲良くなろうと計らう。レイシはあどけない屈託のない笑顔でシュリの言うことを聞いてしまう。シュリはレイシに恋占いをしてもらうよう頼んだが、その残酷な結果を聴いて、怨みを起してしまう。レイシに慰められる振りをして、リイウと英嶺の恋が破綻するよう、英嶺がリイウと付き合っていることを町に吹聴してしまったのだった。排斥されている民と逢瀬を重ねていることが知られた英嶺は、楼都で行き場を失う。そんな英嶺が、自分のところにやって来ると算段していたシュリだったが、英嶺は虎河の河原に、楼都の立派な工房を捨てて去って行ってしまった。落胆するシュリ。貴族の力は何の役にも立たず、ただ自分の浅はかさと浅ましさに絶望し、海に身を投じてしまう。しかし悪運の流れはそれで途絶えるわけではなかった。それを見ていた海の賊がレイシを助けたのだ。そして、シュリは、貴族の長である自身の父との取引材料にされてしまうのであった。シュリの父は、不死学徒のパトロンであった。不死学徒は、奏運とは異なる技工によって、命の改変を行い永久の楽園を目指すと言う思想を持った名の通りの集団であった。命の終わりを受け入れられない不死学徒は、命の流れに生きる奏運の思想こそが気に入らない。その様な彼らの策謀もあり、シュリの父は何もかもを流雲の民とリイウのせいにして、彼らの討伐に乗り出す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?