速度の時代が終わる/稽古場の屋台くずし

速度とは暴力のことである。弾丸はそこにあるだけでは凶器にあらず、速度があるから傷つけるのである。ことばも弾丸である。したがって、猛スピードで走る人の吐くことばには殺傷力がある。これは避けられぬ運命である。

演劇の演出者にあてはめて考える。まず演出者は、演出者というだけでトラックに乗っている。運転していようがいまいが、演出者は常時トラックを走らせているのである。演出者にはプロジェクトを猛スピードで動かさなければならない時が訪れる。したがってその時、演出者が吐くことばには殺傷力が生まれる。これは避けられぬ運命である。

速度とは、距離÷時間のことである。距離とは、作品の向かうべき地点までの距離のことである。時間とは、作品を成立させねばならないタイムリミットのことである。したがって速度とは、作品の向かうべき地点までの距離と、作品を成立させねばならないタイムリミットによって割り出される。距離と時間が釣り合っていれば、法定速度に近づくと考えてもよいだろう。

さて、演劇の創作におけるハラスメントについて考える際、上記のような式がイメージできているかどうかによって、見える景色は全く変わってくる。この景色の中では、発言に気を付けたり、素行を改めるなどのことが(もちろん無駄とまでは言わないものの)本質的にはほとんど意味を為さないことがお分かりいただけるだろうか。なぜなら、すなわち暴力とは距離と時間によって相対的に生まれてしまうものだからである。

演出者にとって作品づくりを運転にたとえることには、ひとつ大きなメリットがある。それは「保険」を連想することである。

こんにち、都市交通が成立しているのは「法律と保険」があるからと言ってよいだろう。これを演劇創作にあてはめて考えてみる。まず作品づくりにおいて「法律」を制定することがアンチハラスメントの実現に役立つことは想像しやすいはずだ。たとえば極端な話、演出者に免許制を導入したら、かなりの割合で演劇界は健全化するだろう。クリエイションごとに、事細かにルールを設けるのも究極の安全である。しかし、もどかしいことにアートには「仮想的な脱法」という側面があり、これがどうも法律などという概念との相性が悪い。そのせいで、アンチハラスメントの匂いを感じるだけで、一部のアーティストは鼻をつまんでしまう。では一旦、「保険」について考えてみよう。アートの世界には、保険が不足しているのではないだろうか。

保険とはたとえば、ハラスメントにあった俳優やスタッフを保証する制度のことかもしれない。一方でたとえば、ハラスメントを「してしまった」演出者を保証する制度かもしれない。もちろん、これまでの経歴等を踏まえた面談や講習などを通じて、被保険者としてふさわしいかを測る「成熟した保険会社のような存在」が不可欠である。もしこうした第三者機関の介入が実現すれば、これもまたかなりの割合でアートの世界は健全化するだろう。

いま私が直近の課題だと思っているのは、アンチハラスメントに関して、「めんどくさい」とか「こわい」とかいった、そういうネガティブな印象をいかにして払拭できるか、という点である。先日、ちょっとワクワクすることを思いついた。

それは、アンチハラスメントとは、「稽古場の屋台くずし」なのではないかという発想である。

屋台くずしとは、劇の一番盛り上がるところで背景の舞台装置が崩れたり開いたりして、劇場の壁面や劇場の外の景色が突然露わになる演出手法である。劇中における劇場の屋台くずしには、「これが虚構である」ことを暴露し、観客を一気に突き放し、放心させ感情移入を中断させるというスペクタクルな効果がある。観客たち自身に、自分たちが観客席にいたことを再発見させる。つまり、座席と虚構世界に埋没してしまった観客たちの自意識を再び現実世界へと呼び覚ますことになり、劇場を「実在するただの建物」に戻すことにもなる。俳優は、劇の中から浮き立たされて「ただの人間」になる。ここに劇的な真実味をもたらすのが屋台崩しの醍醐味である。

では稽古場の屋台くずしとは何か。それはそのまま、稽古場を「ただの建物」に戻すことである。稽古場は神聖なものでもなければ、「誰かの所有する空間」でもないという現実本来の感覚を、そこにいる全員に呼び覚ますことである。

稽古には魔法のような力がある。それは、虚構を立ち上げるプロセスの最中に起こる、劇以上に劇的なモーメントを生む力である。これは創作過程にしか生まれない魔法である。私はこの魔法が大好きだ。私はこれまで、劇場で、劇中にこうした魔法を起こすことができないかをずっと考えてきた。そのためにはまず劇場をたただの建物に戻すという下準備をせねばならず、したがって私は屋台くずしという手法をこよなく好んでいた。

しかし私は近年、アンチハラスメントへの解像度が上がるたびに、この、創作のプロセスにおいてのみ起こりうる「これから立ち上がるであろう虚構を期待する空気」こそが最も危険だということに目覚めていった。なぜならその期待は、逆説的に、期待する以外のものを排除しようと働き、それが何よりも強く稽古場の私たち全員を拘束するからである。

余談だが、「期待」はろくなものを生まない。失望、怒り、孤独などの絶望を生む。しかし、創作という怪物は、常にその背中にこの「期待」を背負って立つ生き物である。期待がなければ創作は生まれない。したがってこの、失望、怒り、孤独などの絶望は創作の副産物として生まれうることをあらかじめ理解しておく必要がある。回避することはできない。これは避けられぬ運命である。

これをあたかも、避けられるものかのように考えてしまうことこそが、アンチハラスメントに立ちはだかる最大の敵なのではないだろうか。

分析・仮説・実践は、すべてのクリエイティビティの骨子である。「期待」は、ここでいう「仮説」に当てはまる。仮説を立てると、立証されることへの期待が生まれる。仮説が期待を生む。稽古は非常に楽しい。しかし、この楽しさは「仮説」を持たぬ者には味わえぬ楽しさである。したがって、例の魔法を使える者とは、仮説者であるということになる。仮説者とは魔法族のことである。

ただしこの魔法には欠陥がある。それは、「同じ仮説を持たぬ者の目には魔法として映らない」ということである。よって、その魔法を起こしたい場合は、仮説を同じくする協力者が必要である。これは、賃金などの報酬に代替できるものではない。金をもらったから魔法じゃないものが魔法に見えるなんてことはあり得ないのだ。魔法が起こる楽しい稽古にするには、同じ仮説を持った協力者だけがその場にいるようにすればよい。稽古とは、まず前提として、同じ仮説を持つもの同士が試行錯誤するものであることを再認識したい。しかし実際、ほとんどの稽古では、同じ仮説を持つものだけで行うことなど不可能である。だからこそ、このことをよくよく理解しておく必要があるのだ。そうしてはじめて、演出者がなにを分析・仮説・実践しようとしているのかを共有するための準備が整うのだ。

仮説を立てることは、すなわち反面では絶望が起こるということである。したがってまず、絶望を全員で受け止めるための準備をすること、それがアンチハラスメントへの最大の力になるのではないだろうか。それでようやく、期待をはじめることができる。つまり、希望を打ち立てることができる。「ハラスメントはこのようにすればなくせるかもしれない」という希望のことである。

運転は魔法ではない。運転とは暴力である。暴力は都市生活に欠かせない装置である。都市生活者は運転しなければならない。そうした絶望をまずは全員で受け止める。それはつまり、法律や保険をつくるということである。それからようやく、全員で安心して運転し、仮想的な脱法をし、魔法を試し、劇場にそれを持っていくことができるのだ。

速度の時代が終わる。速度だけがものをいう時代が、終わろうとしている。早ければ早いだけいい、というようなことを、もはや誰も言うことができなくなった。そう言う者を擁護する者もやがていなくなる。では次にどんな時代が来るのか。持続可能性の時代だろうか。仕事の成果が問われず、タイムリミットに迫られない時代がやって来るだろうか。法律や保険が充分に機能し、もっと安全でもっと自由な創作があたりまえになる時代がやって来るだろうか。私が思うに、それにはまだまだ遠い。では何か。私の答えは、「最後のアクセルを踏む時代」である。まず速度の時代を終わらせるために、今私たちは乗っているこのベルトコンベアーから降りなければならない。ぼーっとしていると運ばれてしまうベルトコンベアーの上でも身動きを取るために、最後のアクセルを踏む必要がある。

先日、こんなことばを見た。

「動かない者は、つけられた鎖にも気づかない。」

このことばが、また私を動かした。私は動ける。だから動く。私はこれが鎖であることに気づいた。だから私は、アンチハラスメントのために稽古場を屋台くずしするという仮説を立てた。同じ仮説を持つあなたへ。稽古場を開け放とう。私たちがいかに自由で魔法に満ちた現場に立ち会っているか、世界がもっと知る時が来た。これはハラスメントをなくすための敗走ではない。ワクワクすることを増やすための希望だ。

先日、とある敬愛する大きな演出家のことばを聞いた。アンチハラスメントのために演劇にできることは何ですかと問われ、こう答えていた。「総当たり的に、ひとつずつ解消していくしかないことであって、演劇全般において何かを言うことは不可能だ。自分はただの一人の演出家に過ぎない。大きなことは言えないし、できない」と。果たしてそうだろうか。きっと彼は、私たちに銃口を向けられたように感じたのだと、私は思った。多くの人がいるその場所で、その場を無難にやり過ごさなければならなかった。これには私も危うく絶望しかけた。しかし私はもう、ここ数年、大きな演出家たちのことばに絶望し疲れてしまった。正直、怒りも湧かなかった。もう期待をやめてしまったのだろうか。

大きな演出家の皆さんに、この文章が届けばいいなと願う。大きな演出家にとって、ゲームの盤面はもはや「舞台の上」に限られているかもしれない。しかし、「稽古場」という空間もゲームの盤面になりうることを忘れてやしまいか。そこはただの仕事場に思えるかもしれないが、これからはそうじゃない。今、ゲームのステージが舞台から稽古場に広がりつつあると捉えてみてはどうか。遊ぶべき盤面はまだ残されている。それはもちろん、すなわち考えることが増えることである。もちろん大変だ。しかしながら、小さな演出家たちは「そういうことを考えざるを得ない」時代を生きているのだ。演出は舞台上にとどまらず、劇場を飛び出して稽古場でも楽しさを生み出す。そういうプレイスキルを培った小さな演出家が、これからどんどん育っていくに違いない。

アンチハラスメントのことばは、あなたを狙う弾丸ではない。一緒に稽古場というゲームをしようという誘いであり、一緒に魔法を見ようという誘惑なのである。アンチハラスメントのことばに恐怖するあなたは、少しスピードを落とした方がいい。それか私が、あなたのスピードに合わせましょうか。私にはできる。私は動く。

「ハラスメントはなくならない」と語ること。それは「戦争はなくならない」と語るのと同じように私には聞こえる。うん。そんなことはわかっている。それでも、私は動く。今、動けるから。動くことの理由を、ここ最近、ずっと探していた。私はなぜ移動したがっているのか。その答えがここにあった。これが鎖だと気づいたからだ。引きちぎるために、これから私は最後のアクセルを踏む。全て終わった後のその時代を、法定速度でゆったり楽しく走るために。

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