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「場」づくりの時代

まえがき

エリア51ができてから、ガムシャラに演劇をつくってきた。アイデア発進で、そこから、実現可能な方法を考えて、ピンときたら直感で動き出す。必要な情報収集を始める。たくさんの人の力を借りて、いくつもいくつも、創作を繰り返してきた。そして、2022年の『ま、いっか煙になって今夜』を経て、自分の中で、自分が今まで何を目指していたのか、それがストンと腑に落ちた実感に出会った。ひたすら作ればいいというタームが過ぎたような気がする。あちこちへ無理矢理手を伸ばしてきて、そうさせてもらえてきて、本当によかった。改めて、ありがとうございます。

劇団"じおらま"を立ち上げた。これはいいタイミングだと思った。そして、良著『テアトロン』(高山明)との出会いもあり、自分の演劇史が、大きな演劇史と接続する感覚がした。この本には、「演劇は客席である」という記述があった。すごく共感した。演劇で何をしたいのか自分でよくわかってきた気がするので、僕なりにそれを言語化してみる。もともと、僕は直感型の人間だし、いまも直感に任せて字をタイプしている。先日28歳を迎え、30代を目前にして、なんだか丘の上で風に当たるような体感があった。とにかく今、見晴らしがいい。これからまた再開する30代という長い徒歩旅行に備えたい。

言ってしまえばこれは、神保治暉にとっての演劇論を、総まとめするような記述になる。でもそんなかっこいいものではない。「時代」などと壮大なタイトルになっているが、「時期」と読んでもいいくらいのものかもしれない。これはその辺に書き散らしたメモ書き程度のもので、自分に宛てて書いた手紙であり、そして、たまたま誰かがヒントを得られたりもする「場」としてこれを書き置く。

ケアと演劇

まず僕の演劇史において一大転換機となったのは、ケアと演劇における融和と横断の可能性に出会ったときである。そのとき、僕はこれまで演劇に対して、演劇を通して自分や誰かをケアすることができる可能性を見出していたんだということに気がついた。感染症禍を経て、何より僕は僕自身、演劇を必要としていたことに気がついた。演劇をするということは自分へのケアなのかもしれないと気がついた。そして、自分が演劇をするということの内部には、観客や共同制作者、そのほか直接知り合うことのないような誰かに対しても、ケアすることをモチベーションとしていたということにも気がついた。

そう気づくに至った経緯として、APA演劇祭の諸騒動において「現代演劇は反権力の呪いにかかっている」との言説を目にし、自分も確かに反権力的な作品を作ってきたという自覚を突きつけられたことが記憶に鮮明だ。江原河畔劇場にて上演・豊岡演劇人コンクール2021奨励賞受賞の『胎内』では全体主義に対する怒りの叫びを、KAATにて上演・かながわ短編演劇アワード2022観客賞受賞の『ハウス』では偏見や差別への強い眼差しを、旗揚げ公演『ノゾミ』ではダイレクトにオリンピックへの批判と嘆きを劇場に立ち上げた。他にも思い当たる作品はいくつもあるが、僕の作品の多くは反権力を宣言する作品であると自覚している。

いや、正確にいえば自覚はしていなかった。だが、全てはそういうことだったのだと、この言説を目にすることで自分の過去に納得する機会を得た。演劇は反権力の呪いにかかっているのではなく、僕にとって、反権力を体現できる「場」が演劇しかなかったということなのだと思う。そして、反権力的な作品を「作らざるを得ない」僕のこの実情は、「僕自身」をケアするということと、まだ見ぬ誰かを含んだ「誰か」をケアすることの「両立」であるという以外の何ものでもない。

僕の父は足が不自由だった。それから足以外にも不自由になっていった。進行性の病気だ。なぜ父のような普通の人間が、社会という不完全なシステムや神の悪戯のせいで煽りを受け、またその家族においても同様の逆風に立ち向かわねばならないのか、僕にはわからなかった。病気や障がい、ケアが必要な誰かがまさにケアを必要とするその時に、その本人や親しい大切な人間たち自身に「自助・共助」を強要するなんて、決して豊かな国とは言えないだろう。そう、これは国の豊かさの問題なんだ。社会の歪な構造による問題だ。貧富・格差・機会・権利の不均衡が起こっていて、国家権力は正しく行使されていない。そう考え至ったこの視点からは、反権力的な作品を作らざるを得ないではないか。疑う余地もなく、これはケアのための反権力なのだ。子を守るときの親のように、象に踏まれた蟻を扶けるように、権力に虐げられた弱者を守るためには、強権を退けなくてはならない。

また、演劇づくりの「場」が僕にとって、意見を交わすためのフラットな場に感じられて、それがすごく「自由」だったことも、僕が思う「ケアと演劇」の横断可能性に満ちた部分である。したがって、ハラスメントや悪しき搾取によってその自由が危ぶまれるようなことは、即刻取り除かねばならない。ハラスメントの問題は、人が「集まる」ことによって生じる「権力」の問題と接合しており、これを解消していくには、長きにわたる人間たちの歴史の、権力と争いの不条理に対し何かしらの新たな応答と発明が必要だ。その発明をしていくうちに、きっと演劇や劇場は、ケアに満ちた持続可能な「場」になっていくだろうと僕は確信している。そのためには、資本主義や自己責任論などのさまざまなイドラと、集団で、対話を通して戦っていかなくてはならないと僕は強く思う。

イドラ・・・偏見、錯覚、先入観、権力への無批判など(フランシス・ベーコン)

居場所としての観客席

劇場はケアの実践のための「場」である。もちろん、暴力の遂行としての場であってはならないのは当然であるが、劇場には「動員」の機能があり、背後には「排除」の機能を両義的に背負っている。劇場スタッフは笑顔で観客を迎え入れながら、同じ顔で「招かれざる客」を排除しなくてはならない。そうした不条理な権力を持たざるを得ない側面がある。

日本の現代演劇は、観客の減少に悩まされ続けている。抜本的な解決策は、まだない。そこに感染症がトドメを刺し、多様で柔軟な現代演劇の持続可能性は危ぶまれている。まずもって、「エンタメ」としての現代演劇はもう当分日の目を浴びることはないだろうと僕は考えている。そもそも世の中はエンタメが飽和している。エンタメとは当然、資本主義の世界と接続しており、商業的なサイクルを発生・持続・発展することが是とされる。いまの日本の商業に未来があるとは僕は思えない。少子高齢化・人口減少を中心に取り巻く全国的な問題に並んで暴走する、「消費を促す」という発展の仕方には、重箱の隅を突ついて割ってしまうような妄信性を感じるからである。エンタメは「持てるもの同士で交換するもの」になっていくだろう。

仮に演劇が資本主義の世界で再びその潮流に乗っかることがあったとしても、そこに未来はないと考える。ハラスメントの問題に対する「資本主義的な世界観で対抗できる方策」が見当たらないことも一役買って、現代演劇の世界から多様さは消えていく(唯一対抗できるのはドラスティックな「契約」であるが、これがより一層資本主義的な性格を強め、持たざる者や不安定で例外的な少数者は排除され、より疑似清潔・疑似安全なビジネスサークルが錬成されていく)に違いない。生き残るのは「表現系エンタメ」だけだと僕は思う。それを批判するつもりはないし、それも資本主義社会が望んだ姿だと思えば致し方ない。

しかし、現代演劇にも希望はあると思っている。それは、「居場所」としての観客席の在り方である。東京にはとにかく居場所がない。ならばそこを劇場が担うべきだ。そう考え至ったのは、ウクライナ侵攻のニュースを聞いている際に、劇場がシェルターがわりになって避難民を匿ったと聞いた時である(その劇場も爆撃で壊れてしまったようで、怒りと無力感を禁じ得ない)。日本で有事の際、シェルターになってくれるような場所はあるだろうか? いろんな理由をつけて避難者を拒む未来が見えるようだ。何につけても「責任を取りたくない」ばっかりの社会だからだ。劇場は責任を背負えるだろうか。爆撃から守る屋根を、劇場は提供できるだろうか。僕はまだ、そういう意味で劇場のことを信頼できていないし、まして、日本で暮らす人の中で、劇場が安全な場所だなんて思いつく人がどれだけいるだろうか。これは、暮らしに劇場が根付いていないことのありありとした証拠だ。それだけ、現代演劇が抱える人々の「劇場への無関心」の問題は根深いと思う。演劇ファンを増やす以前に、劇場ファンを増やすべきだ。

僕は都内でノマドワークをする際に、カフェを転々と移動する。Wi-Fiがあるからだ。僕はWi-Fi代を支払っていて、そこにたまたま美味しいコーヒーが付いてくるようなものだとさえ感じている。本当の「居場所」ってこんなものなのではないか? 劇場では、現代演劇について、ハイコンテクストな遊戯と合戦が、演劇好き(あえて愛をもって演劇中毒者と呼ぼうか)たちによって語り合われている。上演される「内容」ばかりが、僕を含む中毒患者たちの興味関心だ。しかし患者たちにとって実際に大事なのは、劇場という「場」に「居る」ことができているということなのではないかと考えてみる。実は、そこで何が上演され、何の意味があったかなどは二の次で、客席に座って目の前で「特殊な振る舞い」をみつめて・はかり、そうすることによって自分も観客として「特殊な振る舞い」を演じる。この一連を受けて、そこを「居場所である」と感じているのではないか。

この点に僕は希望を見出したい。劇場で上演される内容がシェークスピアだろうが寺山修司だろうが無名の劇団のスピンオフ公演(駄作)だろうが関係なく、そんなことには無関心なノマドワーカーが「ただWi-Fiを求めて席に着いたら目の前で劇が演られている」ような「場」にするのだ。そのためにも、演劇はコーヒー1杯ぶん程度の金額でみられるようにならなければならないし、無関心な誰かを「招かれざる者」として排除しないようなレセプション・プロトコルを作らなければならない。ホームレスでもお子様づれでも、言ってしまえば犯罪者予備軍のような危険な人も。そうするためには、どんな人にも安全性を確保しなければならないし、観客たちが観客たち同士で「自由に距離を取り合える状況」を作り出さなくてはならない。そのためには資金も人員も、たっぷりとした時間も要る。これは難題すぎる。でもこれは急務なのではないかと思う。戦火は待ってくれなさそうだから。ケアのための反権力という理論を用いて、現行の劇場コードにどんどんメスを入れていかなければ間に合わない。

そして、観客席の秩序は非常に複雑で特殊なものだ。観劇慣れした観客からは、観劇慣れしていない観客が異質な存在に見えたりもする。劇場内では、観劇慣れした演劇ファンがマジョリティである。これがおそらく、劇場内におけるマイノリティ=観劇慣れしていない人々を排除している「空気感」である。事実、客席内での振る舞いは非常に特殊だ。拍手のタイミングも、トイレのタイミングも、わからない人には何もかもわからない。これをいちいち教えるというようなことは、演劇の作り手は好まない。なぜなら鑑賞の「多様さ」を建前に掲げている以上、「どう観るか」は委ねる"ポーズ"を取らねばならないからだ。観客内の秩序は、観客たち同士で作られる。劇場案内人たちもそれをサポートするが、係員は接客マニュアルからの逸脱を許すことがルール上できない。これでは本当の意味での多様さにはつながらない。本当に多様な客席というものは、ありえないほどにたくさんの案内人たちが常時、観客ひとりひとりに目を配り、細やかなケアを施すことではじめて成立する

また、多くの観客たちが最も気にするのは、自分がここにやってきて座っている間の「損失」を上回るだけの「何か」を得られるかどうか、だ。客席内でのイレギュラー発生をもっとも嫌うのは実は他ならぬ観客たちだ。ただし、この「損失」を補填できるだけの準備をしておいたらどうだろうか。そもそも「損失」を与えないような上演を作れないだろうか。人々が劇場に来てくれない以上、僕たちは観客に対するサービスについてもっと深刻に考えていく必要がある。客席は社会を映す鏡である。客席について考えるということは、そっくりそのまま、社会における様々な問題に向き合うことに他ならない。

ディレクション=方向づけ

『テアトロン』の中で衝撃を受けたのは、ワーグナーによって完成された近代演劇の「観劇に集中せよ」を体現する劇場−演劇システムは、あろうことかナチスの党大会に接続するという捉え方である。集中は統合を生み、統合が「全体」へとつながっていったという。僕が日々感じる「演劇とケアの間に横たわる唯一の相性の悪さ」は、この国における「中間集団全体主義の中で感じる反権力への眼差し」と同様のものであったことに気づいた。

中間集団全体主義とは、「個」と、行政などの「公」との中間における集団(学校や会社など)の内部で起こる全体主義的な空気感のことをさす。クラスやオフィスには、共同の「ノリ」という、いわば見えない空気が存在する。その空気がまるで神ででもあるかのように機能し、それを裏切ることは絶対的に悪とされてしまうという独特の集団性が存在する。これはつまり、その中間集団において全体主義が発動している状態であり、「全」のために「個」を貶めていると言える。演劇を上演中の劇場にも、同様の空気が流れる。「上演」という絶対的な「全」が「善」として君臨し、それ以外の観客を含む全員が「個」としての実存を貶められてしまう。不本意ではあるが、これは事実、抗いようのない演劇における負の側面であるし、これが演劇のもつ本質的な機能ともいえる。演劇を上演するという、ある種の「統合」を目指しながらも、反面、その場にいるすべての人にとってのケアでありたい。ケアとは本来、必要とされるケアが漸次変わるものであるし、百人百様でケースバイケースなケアが必要である。演劇とケアの融和を目指すということは、上演という統合を走らせながらも"統合=マクロ"と対をなす"個別=ミクロ"の世界への柔軟な回転を漸次要することになる。すなわち、その「個別的なケア」への応答を可能にするためのあり得ないほどに膨大な準備が必要になってしまう

たとえば、静寂と緊張を生み出したいシーンで、客席ですやすや寝ていた赤ちゃんが突然泣き出したら。赤ちゃんが観客席にいるのは、ケアを前提に考えれば当たり前のことだ。それでも、赤ちゃんが泣いてしまうことが他の観客にとってケアレスな状態になってしまう。これはアンフェアだ。誰かをケアするつもりが、他の誰かにとってアンフェアな状況を生み出してしまう。これが先述の、「演劇とケアの間に横たわる唯一の相性の悪さ」である。赤ちゃんが泣いてしまうことで、本来生まれるはずでなかったシーンが生まれ、全く別の緊張に変わってしまうのだが、ここではまずそれを、そもそも「問題視するかどうか」について考えてみたい。これはつまり、演劇における「ディレクション」の存在を、その空間−集団においてどこまで絶対視するかという問題なのではないか。つまり、「全」を「善」とせず、「個」の実存を貶めないために、ディレクションの絶対性を「その場の全員の力で」解除することができないかということである。

静寂と緊張を「生み出したい」のはまずもってディレクターの、ディレクションのエゴであるはずだ。このエゴと衝突する限り、本当の意味で自由な客席は実現しない。逆説的に、本当の意味で自由な客席を実現するには、ディレクションのエゴをその場にいる全員が捨てなければならないということだ。演劇とは本来、生成的なコミュニケーションであり、伝達的なコミュニケーションではないはずである(生成とは相互に確認し合いながら生み出していくことに重きがあり、伝達とは手旗信号のように情報を伝えることに重きがある)が、実際そこには、「一般的なリアクションを想定した、お約束上での生成」のみを善とし、それ以外は排除したいという精神が隠れている。ワーグナーが完成したのは伝達的な演劇の方法であり、対照的なブレヒトは教育劇などを通して生成的な演劇の方法を模索した。僕は圧倒的に、後者のほうに興味がある。そして、ナチスの時のそれと同じように、いま演劇的手法は「体制」によって悪用されつつある(五輪の演出は大失敗していたが)。「体制」というディレクターによって、暮らしの隅々までディレクションされ始めていることをひしひしと感じる。そんな中、劇場の中においてまで、観客の体験における隅々までディレクション・統合したいという野心は、僕にはない。

根源的な部分で、僕はいま、「観客の体験をディレクションする」ことにあまり関心がない。むしろ、劇場という「場」にどれだけ多様な人が集まり、安心して過ごせるか、そのシステムを作ることの方に興味がある。これはつまり、「上演」についての概念を自分なりに確立し直したいということである。今はまだ、やはり自分の中で、上演するからには何か観客に持ち帰ってもらいたい(もらわねばなるまい)という考えが半分くらいを占めている。これは悪いことではないかもしれないが、ディレクションにおけるエゴが極力抑えられたものにしなければならないことは言うまでもない。観客を誘導するためのディレクションではなく、観客が安心してその場に居られるための方向に旗を振る。人生は徒歩旅行だ。ディレクションも徒歩旅行ではないか。ならば、上演も徒歩旅行であって良いはずだ。

さて、この演劇における「全体」に関する話題は、権力の問題・ハラスメントの問題にもアクセスする。上演が「全体」たりうるのであれば、「稽古」はもっと全体的だし統合化する作業だ。そして統合の権力を他ならぬディレクターが持っており、その力は絶大だ。これを「正しく」取り扱うことができる人間などいないのではないかと僕は思う。フェアで居続けるなどということが、個人の意思で実現できるはずがない。それは政治の歴史を見ていればわかるだろう。野党議員たちにも養っている誰かがいて、職を失ったら今の生活を手放すリスクがある。一人一人が、自衛するしかない社会だ。そのためなら政治家としての信念だとか弱者を救済するだとか、そんな綺麗事を言っている余裕はないのだろうと思う。そうしなければ自己が分裂してしまうほどに、日本の社会構造は歪み・腐り切ってしまった。権力は流動的にしておかなければ歪んで腐る。これはもう、逃れられない。そうした問題を回避するために、憲法や三権分立、選挙やメディアなどの社会的なシステムがある(はずだが機能していないし、機能しなくなったがためにこうなった)。ディレクターは「君臨し続けてはならない」し、「全権を持たせてはならない」のだ。

わかっていてもそれを回避できない多くの演劇創作の現場において、圧倒的に不足しているのは時間と金と人員である。人が足りなければ一人におけるマルチタスク度合いは高くなり、したがってディレクターはあらゆる権力を持ってしまう(あれだけ気をつけているじおらまでさえ、採用選考の際に最終決定権を自分が持ってしまっていることから逃れられないというジレンマがあった)。「持たされてしまう」と表現しても差し支えない場合だってあろう。そうして無理が祟ったまま「生き字引」と化した「強い演劇人」たちの間で、次々とハラスメント問題が発覚していく動向に無力感をもよおす。ディレクターは「ディレクション」に専念させなければならない。「ディレクション以外のこと」をさせなくするために。ディレクターだけが気を付けるのでは防げない。と同時に、ディレクターは安全な創作の場となるよう「方向づけ」する義務を負うべきだ。

ディレクションとは、方向づけのことである。創作の場に集まったさまざまな人々に適切な仕事を委任し、「全体のイメージ」を伝えて束ねる役割だ。演技指導などの「造形作業」はすべきでないし、本来は「できない」はずである。とはいえ、しなければならない場面にも多く出くわす。そのときは、ゼロから「一緒に作っていく作業」が始まる。僕は最近、演劇を、巨大なインスタレーションなどの空間展示作品のように捉えることが多い。そうした造形品は、とてもじゃないが一人の手だけでは作れないので、「アーティスト」は実際に手を動かす「造形者」たちにイメージを伝えて、造形者たちが手を動かしてようやく形を作っていく。演劇はそれと非常に相似するのではないだろうか。ディレクターは、俳優やテクニカルスタッフ、クリエイティブスタッフたちに手を動かしてもらって作品を作っている。両義的に、結局のところその場に立ち上がるものはディレクターの作品であるという事実に収斂する。それこそがディレクションにおける「責任」なのではないだろうか。手を動かしてもらうことへの責任でもあるし、参加してもらった造形者たちの尊厳に対する責任でもある。

例として、僕は今、公園を作っているとしよう。どんな人が利用する公園にするか。子供が遊ぶ公園にしよう。その「場」は、子供たちが利用することで初めて成立する作品といえる。子供たちが「どう遊ぶ」かは、子供たちに委ねられている。そこには安全性などの諸要件がついてくるだろう。それらの「要件」と遊びの「自由」をうまく抱き合わせて成立させるのがディレクターの務めである。子供たちに「こう遊べ」と言うのでは、そこは本当の意味での公園ではない。でも、「何もない」を提供するのでは仕事といえない。子供たちが「自発的に遊びを生み出すような仕掛け」を作ることが、ディレクターの真の務めなのではないか。演劇においても、いや、世の中の仕事とは全てそういうことなのではないかとさえ僕は思う。

「ディレクターが設定した場」は、ディレクターが方向づけたひとつの「国家」へと化しているべきだ。よい国には多様な人が生き、それぞれがそれぞれにコミュニケーションを営んで、多様な何かを生成していくだろう。そこでのルール、そこでの常識、そこでの普通というものが、別に、その「外の世界」と釣り合っている必要はない。むしろ、その「場」は外界における「一般論的な逸脱」がゆるされるべきだ。そこでの「遊び体験」を持ち帰らせ、外界に戻った時にこれまでと違った尺度や角度で社会を見つめ直せるような「仕掛け」を作っておくべきなのである。その、これまで持ちえなかった尺度や角度を手に取って遊んでもらうための「仕掛け」をつくるために、方法的に「逸脱」を用いるのである。

ただし、この「逸脱」は当然、特権的なものではない。逸脱はディレクターの設定した「遊び」の範囲内に限られる。これを柔軟かつ厳密に設定することがディレクターのもっともナイーブな作業である。本当に自由な社会には、「他者と距離をとる自由」が保障される。この「遊び」の中にも、その自由は守られねばならない。そしてその自由は、けっして個々人が努力して掴み取るようなものではなく、ディレクターを含んだ「集団で」守っていかなければならない。これらのことが守られれば、僕たちは互いの尊厳を守りながら、自由に距離を取り合いつつも、観客にとって劇場に来るべき仕掛けを逸脱的な方法を用いて作り、上演という特殊な場において主体的に演劇に取り組むことができるのではないだろうか。

遊びによる飛躍

劇場は特殊な空間だ。舞台の上は、客席との関係によって起こる特殊な「磁場」(特殊な振る舞い)によって時空が歪められている。観客は「そこ」で何が起こるかをみつめていて、社会においては「何も起こらなくてよかったもの」が、舞台の上では「何かが起こらないのは欠陥である」と認識される。それは演劇の宿命だ。観客は、舞台で起こる何かを自分が「見つける」ことで全能感を得る。何も見つけることができないと、その「全能感」を外され、不全感に陥って孤独と怒りを感じる。これは仮に全ての演劇が鑑賞における対価を求めなくなった(無償化した)としても、ある程度逃れられない宿命だろう。演劇には、それを観ることによって、これまで社会生活においてイメージしづらかったものがイメージできるようになるという効能への期待を背負わされている。僕自身も、その効能を期待しているし、それを作り出すことに情熱を感じる。いかにしてその効能を生み出すかが、演劇創作における課題である。つまり、本来であれば社会生活においてイメージしづらいものを取り扱うため、そこには様々な逸脱的な過程が含まれる。ここに演劇創作の危険性があって、ハラスメントや精神的荷重が起こらないよう健全な逸脱の方法を持つ必要がある。そこで僕はいま「遊び」に期待を寄せている。

僕は演技について、「イメージを持てれば演じることができる」と考えている。特別な技術は必要ないだろう。ただ、それを再生可能にするところに「技術」が必要になってくるし、人生における経験の豊かさがその人の持てるイメージの豊かさに直結してしまうという問題もある。僕が考える「演技」は、その場で生成される、本質的で人間的な発露のことである。人間は、細かく見ていけば「動作」「発語」「気配」「間」で発露する。それらをいかにして「場」に生成していくか、が僕にとっての演劇のディレクションだ。「やり方」は数えきれないほどある。どのやり方でもかまわない。パフォーマーが、今できる方法で、「場」に「居る」こと、そして、モノや他者、空間との「セッション」を通してイメージを生成する状況へと、僕は「方向づけ」したい

作品によっては身体的な負荷が必要な場合もある。近年(『ハウス』『てつたう』『へんしん』など)その傾向は増していっている。ただ、俳優ひとりひとりの身体性と向き合う作業はむしろ濃密化していっており、どれも「その俳優たちにしかできない作品」に仕上がっていったと僕は思っている。それは、身体的なクセ・骨格や筋肉のつき方を含めた「身体的な条件」と、俳優本人がそれをイメージする時に「発露しやすい身体と声」は深く結びついており、その発露の方法が千差万別である、ということがほとんどの理由だ。現時点では「発露しにくい身体」が、都合上どうしても必要になってくる場合もあるが、諦めるときも当然あるし、本人との相談の上で練習を積み重ねていくこともある。しかしもっとも大事なのは、「イメージの先でその発露が起こっているか」を確認する作業だと僕は思っている。かつ、そのイメージが、毎度新鮮に現れるようなスイッチやシステムを、自分なりに持てているかどうかも大事だ。

つまり、僕の考える演技の立ち上げ方では、基本的に、日常的に想像しうる範囲内で、むしろ日常で身体化されたものを通して現れてくる発露を期待している。それが舞台上でたまたま別の見え方をしたり、組み合わさることで不思議に見えたりすることが面白いからだ。ただ、前述の通り、練習するなどしてその発露を「新規獲得」していくときも、やはりある。つまり経験からの「飛躍」を求めるときだ。今まで自発的に持てなかったイメージを、偶然でもなんでも、外的な要因によって自分の内側から発見する過程が必要なのである。そういう時に用いたいのが、「遊び」だ。遊びにはまず「好奇心」がいる。それがなくなっては遊び=演戯はおしまいだ。人々が集まって演戯するときのプロセスに、イメージの飛躍を期待するのである。

これは別に、俳優本人だけに課題を押し付けるのでは全くない。かえって、そういう「公園」をいかにして用意するかが、ディレクションなのであって、そここそが、ディレクターが本領を発揮すべき領域なのではないかとさえ思う。いかにして俳優の内なる好奇心を立ち上げるか。僕は当面、そこにじっくり向き合ってみたい。「演戯」には、じつはディレクターまでも巻き込む特性があると僕は考える。テキストやプロット、ディレクションにおいても、新鮮な「遊び」を求めている場合はいつだって演戯に助けられる。そしてこの「遊んだ記憶」を共有していることが、演技におけるサブテキストを自然と立ち上げていくうえで非常に有効なのではないかと僕は考えている。

テキストや役を分有する

僕はいま、上記の章タイトルを書いたあと、コーヒーをひとくちすすって、この本文を書きはじめた。この一連の動作をするときに、一瞬でも順序を考えただろうか。章タイトルを書き、コーヒーをすすり、本文を書こう、などと一瞬でも考えただろうか。考えていないはずだ。人間は普段、そこまで細かく順序立てた動作をしない。演技にはまず、その点に難しさがある。人間は時間軸が前から後に進むことを意識して生活しない。しかし台本には必ず順序があり、前と後ろが存在する。だから僕は台本が嫌いだ。テキストを書くのは本当に苦手だ。こんなふうに殴り書きするときの自分の文章は大好きだ。だから詩は好きだ。詩は暮らしにおける人間の発露において、テキスト化するうえでもっとも自然な形なのではないかと思う。俳優は、詩のようにせりふを吐くといいのだと僕は思う。だからこそ、意味よりもイメージが先立つべきなのだ。

『ハウス』や『てつたう』のテキストを書いていた時期、僕は台本に時系列が発生してしまうことに妙な違和感を抱えていた。おそらくそれは、フィジカルにこだわった作品にしようとあらかじめ意気込んでいたからであり(そう意気込んだのは演劇人コンクールでフィジカルに関する指摘を多く受けたことへの応答であるが)、身体に思いを馳せれば馳せるほど、時間や順序とのミスマッチに気づいていくようだった。ダンスや音楽にも時系列は存在してしまうが、演劇(や映画)ほどその順序における整合性が重要視されるだろうか。右から読んでも左から読んでも構わない、自由で公平なテキストのあり方がないだろうかと探っていた。

そして、「役」の存在も、同時に疑問を抱き始めていた。役があらかじめあることは、テキストの読み方を制限してしまう要因になるのではないか。このテキストに何が「書かれて」いて、観客に何を「みせたい」のか、もっといえば「この劇」において「造形者として何をすべき」なのか、それを考える上での障壁になっているように感じられた。なぜなら、役とは人物のことであり、テキストを、「或る人物のことば」として読み解くことを強制するからである。通常、社会生活でいちいち他者のことばを、人物として理解しながら聞くだろうか。確かに、ことばというのは「誰が・何を・どのように・いつ・何に対して」言うのかということが、その内実やイメージと深く関わっている。しかし、「フィクショナルな人物」のことばや生き様には、何か「虚構としての完全性」を期待してしまうところがある。その期待は、何か「正しい読み方」があるような誤解を、読者に対して招くことにつながる。

実際、たしかにテキストにおいて「みせたい」方向はある。しかし、それを方向づけ、束ねるのはディレクターの務めであり、まずはたくさんのイメージ、身体を稽古場に発露してもらうことが肝要である。ディレクターがつくりたいのは、共同制作者たちが完全に本領発揮した「パフォーマンスの結集」なのであり、それらが共存できる「場」をつくろうと奔走するのである。つまり、テキストに何が書かれているかということよりも、共同制作者たちが受け取ったイメージが純粋に発露されることがもっとも重要なのであり、そのためにはまず第一にテキストを「自由に読める」ことが最大の要点なのだ。したがって、なにより先にテキストこそが、自由に読まれるべくして「書かれて」いることが大切なのではないかと僕は考える。

いわゆる「上演台本」という一般的な形式のテキストがある。それは文字通り、上演に際して最適化されたテキスト群のすがたであり、言ってしまえば「効率的なテキスト」なのである。事実、スタッフや俳優たち、多くの人間を束ねる際に、便利なテキスト群があった方がスムーズにことが進むし、無駄な議論(論争)を生まずに済む。しかしそれこそ資本主義的な倒錯だと僕は考える。潤沢な予算さえあれば大量のスタッフや俳優たちを稽古場に長期間滞在させることが可能なはずであり、じっくり稽古と実験を繰り返していくことで「私たちなりの共通言語」を生み出していくことは本来可能であるはずだ。照明や音響のキッカケを擦り合わせたり、美術や空間の在り方を考えたり、そもそもプランを組んだりするのも、上演台本から読み解くよりも、実際にディスカッションをして稽古をしていく中で生み出していく方がよっぽど健康的で、生成的かつ飛躍可能なはずである。そうした「生成の場/瞬間」に出会ってこそ、演劇本来の魅力である「集団でイメージを形成する=群像」の具現化への遠い道のりにある空白を、集団全員で「埋める」ことができるのだ。その結果、まるで実生活の人間たちででもあるかのように人物が出来上がっていく。本来はそうあるべきだ。

人間は「生まれる」ものであって「生み出す」ものではない。それは倫理的な意味でもそうだし、たった一人で生み出そうとするには、踏まねばならない手順が多すぎやしないか。だから役というものは、極力最初から分け与えられているべきではないと、最近は考えている。役と俳優は接近し合うものだ。そして、私たちが実生活で「公」と「私」を分けることができないことと同じように、役に関しても、AくんとBさんをあらかじめ分けておくことなど本当はできないのではないか。つまり、テキスト上に存在するいくつかの人物というのは、はじめは「社会−人間」と同様にひとつの団子のようになっているのかもしれない。稽古をしていくにつれ、俳優と役が接近していったとき、ようやくカメラが地上に降りて行き、一人一人の姿を認識できるほどの解像度を得る。そこで初めて、個別の役について考えだし、接近し合う。上演台本は、必要ならばそのあと作ればいい。

テキストや役を分有することは、非常に非効率的な方法だ。しかし、そもそも効率的に作ろうとすること自体疑っていかなければならないし、そうした作り方では、効率的に作るための技術が向上していくばかりだ。僕はまだまだ、効率的に作品を生み出していくことが必要なほど優れた作品を生み出せないし、何より共同制作者たる造形者たちの、「手を動かしてみてどうなるか」という小さなフィードバックをたくさん積み重ね、その声を聞いていかなければならない段階にいる。そこにどうか、力を貸してもらいたい。

この場合、真に理想とするのは、対話や実験を繰り返していくうちに集団における合意が形成されていく、その過程と並行して上演の中身が出来上がっていくということであるが、その実現は非常に空論的である。結局はディレクターによる「指揮」が必要になってくるし、交わされることばや発露する身体や声の「トーンマナー」をいかように統合するか、という緻密な合意形成作業が待っている。これは果てしない作業である。上演という、多くの観客の視線にさらされる「場」に立たねばならないのは俳優たちであり、失敗も未完成状態もすべて曝け出さなければならない。責任(自責)は毎秒観客との間に発生し、それを俳優は引き受けざるを得ない。これには、他ならぬ俳優たちとの「合意」が必要であろう。

だが例えば、俳優も音楽家やスポーツ選手のようにして舞台に立つことはできないだろうかと考えることもある。両者には「完成」というイドラがない。音楽家には楽譜があるし、スポーツには勝つという目的があるなどという違いはあるが、それらは先述のさまざまな尺度と角度をもって演劇の作法に置き換えることができるのではないか。演技においてももちろん「完成」はないのだが、かといって音楽家やスポーツ選手のように稽古ができるかというとやはりそうではない。おそらく音楽家には、音楽を分有しているような感覚がはじめからあるし、スポーツには「役割」はあれど「役」はない。それぞれがそれぞれの主体性をもって、そのゲーム(上演とそれへの準備)に参加しているように僕には見受けられる。スポーツには、「公平さ」を生み出すべく練り上げられたルールがあるし、音楽には「楽器」という「第二の身体」を扱っているという面での安全性があるのかもしれない。「場」における、公平なルールづくりと、自分の声や身体を「舞台上という特殊な環境における身体」として第二化する方法を身につけるといいのかもしれない(すなわち発声の術を身につけたりさまざまな身体表現にアクセスできるような身体的な経験を積むということか)。

音楽演劇『ま、いっか煙になって今夜』で、慣れないギターの演奏に挑んだ。エレキギターは、弦を鳴らしてマイクが電気信号に変え、エフェクターを通して音声化される。エフェクトによって音楽に与えるニュアンスが変わってくるのだが、これはつまり、人間でいう「発声」を自由に操ることと近いのかもしれないと思った。転じて、身体においても同様に捉えることができ、身体を空間に対してどう作用させるか、についてを、エフェクトをかけることと同じように捉え直すことができるかもしれない。声や身体にエフェクトをかける。これが、俳優が発露をコントロールするうえで自然と行っている回路なのかもしれない。では俳優はエフェクターを増やしたり、操作の精度を上げるということが経験や技術に置き換えられるのではないだろうか。また、アナログのエフェクターは、直感操作で音のニュアンスを探り、偶然、最適な音色を見つけることもある。演戯には、これに近い効果があるのではないだろうか。こうした発想は、演劇を音楽的に構築していくうえで大きなヒントになりそうだ。

完成しなくていい上演

僕は近年の創作において、「完成しなくていい」ことを公言、くりかえし場に放流している。これは何よりも資本主義的な思考に巻き取られないようにするためでもあるし、逆算的な思考になると集団から遊びが消えるからである。技術や経験が不足しているとき、自分の中から飛躍を生み出すには遊びなどのショートカット・キーがやはり必要だ(社会科見学をしたり、映画や音楽などに触れるなども遊びに含む。つまり作業一般からの逸脱である)。これをディレクターが積極的に発信することに、僕は強い意義を感じている。先述の通り、結局舞台に立つのは俳優であって、その宿命から逃れることはできないのだが、それにしたって、代わりに自分が舞台に立つことだってできるし、初日、満員の客を前にして「完成しませんでした!」と頭を下げることだってできる。これは単に気休めとして呪文のように言うだけでなく、最後の最後まで見放さないし、完成しないことを俳優の責任へと収斂しないようディレクターとして責任を取る意思を伝えていくことが大事なのではないかと思う。また、距離を取れる自由を保証するということは、究極の意味で「上演から逃れる自由」も保証するという意味であり、僕はここに、演劇が資本主義的に回転せずとも成立しうることの希望的な立証可能性を感じる。上演の直前まで作業が続いてしまうこともあるだろう。だが結局、いかなる状況においても、共同制作者たちと意見を交換し続け、合意形成を諦めないということに変わりはない。仮に未熟な状態で作品を公開することになったとしても、それが今の僕たちのリアルであり、次なる準備が始まるだけである。そうして遠回りしながら螺旋移動していく。僕のような「経験が必要な存在」には、それしかできないのではないか。

そのためにも、可能な限り観客の来場ハードルを下げることも必要である。まず演劇は無料で観劇できた方がいい。できれば交通費を配ったり、昼食や夜食を提供できたり、来場にあたって観客がこうむったあらゆる損失を補填してあげたい。託児サービスを完備したい。配信とリアルタイム翻訳、あらゆるアクセシビリティを提案し尽くしたい。すべての企業や小売店に、「観劇のための有給」を設定するよう求めたい。その資本的損害への補填を地域や行政に求めたい。そのために、演劇を少しでも応援してくれるような社会にしていくべく政治的な活動をしたい。演劇と社会、すべては連関する。そこまでしても、観客はきっと劇の中に何か完全なるものを求め、その不全感に呆れ、嘆き、孤独し、怒るだろう。その不全感を、対話でケアしたい。完成しなくていい上演を実現するためには、観客への徹底的なケアが不可欠だ。演劇とは観客席なのだから。

上演というもの、そのもののイメージを転換させる必要がある。ハラスメントを防ぎ撲滅するためにも、また資本主義に刈り取られずに創作と表現に向き合うためにも。どういう上演がベストなのか、それはまだわからない。それを人々は演劇と呼ばないのかもしれない。でも僕がそれを演劇と呼ぶことに意味を与え続けたい。あたらしい上演に向けて準備していく集団性を、僕はまずつくってみたい。そこに希望を感じている。もしかしたら、これはゆくゆく学童のような場になっていくのかもしれない。はたまた、田や畑のような場になっていくのかもしれない。「持続化する」という方向に、僕はこの小さな演劇という船に乗って向かっていきたい。

都市と演劇

演劇は町の中にある。僕はとりわけ、東京という都市に暮らしていて、必然的に、都市にある劇場で演劇をみたりつくったりすることが多い。演劇を仮に野菜のように捉えるとしたら、これは演劇の地産地消だ。都市で収穫した景色や体験が集積し、劇場という場に並べられたものを、都市で暮らす僕が摂り入れる。良し悪しはさまざまにあるだろうが、事実、そういうことになる。都市は都市、郊外は郊外だ。都市という場所をこれまで特別視することはなかったのだが、最近、都市とは特殊な場所なのかもしれないと考えるようになった。東京は果たして「町」といえるのだろうか。詳述は割愛するが、東京は単に「道」のこんがらがって形成されたひとつの「地帯」に過ぎないのではないか。その実感を後押ししたのは、選挙の投票率の低さに対して、住民たちがそこを「自分の町とする認識」がほとんどないからなのではないかと直感したことだ。町への愛着、と読み替えてもいいかもしれない。ならばこの「道」における暮らしを通して、「道」にどんな収穫を並べるか考えてみたい、そう思った。しかし、さらに道をつくるという趣旨の営みではなく、「道での暮らし」を「れっきとした暮らし」として再認識することを通じて、ここを「町」として考え直すための作業をしていきたい。そのひとつの方法として、ブレヒトの考えが利用できるかもしれない。

ブレヒトは、(中略)演劇を芸術としての演劇から解放し、再び都市のプロジェクトにした。観客の日常生活に一つの演劇モデルをインストールし、教育劇という戯曲群のなかに描かれた共同体を演じあい、みんなで吟味し合うことを通して、自分が属する既存の共同体をもう一つの「演劇」として浮かび上がらせる。つまり、ある共同体が別の共同体モデルを演じるという方法で、世界を演劇化/二重化しようとしたのである。(中略)演劇を都市のなかに溶け込ませ、観客という生活者によって「使える」ものにしていこう、という意図が込められていただろう。

『テアトロン』高山明

僕はきっと、演劇を通して、都市での暮らし自体を考えることをしたいのだと思う。つまり、劇的な体験を通して何かファンタジーを見せたり感動を与えたいということよりも、観客が町に帰ってもそれぞれの生活の中で再生されるような演劇的仕掛けを立ち上げたい。当然、そのためにファンタジーを用いたり、観客の想像力を借りることはあるだろう。ただし本質がそこにあるのではない。劇場は一体感をつくるものとして以上に、異なる人々が集まって、解決不能なさまざまな日常について共に考える機会をつくるものとしてあるべきだと考える。その「考える」過程が、単に授業やディスカッションのような場づくりではなく、その時間と空間が立ち上がっていくプロセスを体験できるよう用意することで、観客が「手にとって遊べる」ための仕掛けを作りたい。遊びとして観客が手にとった先で、観客たちが日常においてアクセス不能(想像不能)だった「或る場所」まで「飛躍」することができたら、そのとき演劇は都市に「還っていく」だろう。そこでまた豊富な土となり、次への養分になるとよりよい。

じおらまという場づくり

じおらまでの演劇として試したいのは、上演を通して舞台にじおらまを立ち上げ、それを残し、観客が終演後に「じおらま」を眺める時間を過ごすということだ。上演を通して劇場内外や記憶の風景と結びついた舞台美術や小道具などの痕跡が、「町」と二重化してみえる。そしてそれを眺めながら、観客たちが連想したことなど何か語り合う。そこにWi-Fiがあればラップトップを開いてもいいし、読書したり音楽を聴いてもいい。ぼんやり舞台を眺めていてもいいし、関係ないおしゃべりをしていてもいい。夜公演の時間が迫っていても、観客を追い出さない。つぎの上演準備を観客が見ていたっていい。そういう空間を観客が最後まで味わえることを提供したい。舞台上に子供がのぼってしまってもいいかもしれない。気にしなければならないのは「安全性」であって、舞台の「決まりごと」ではない。小劇場のような比較的自由度の高い空間から、そうした対話可能な場をつくっていきたい。そして劇場を出た観客たちが、町の中にじおらまを再発見し、劇の内容を再生・吟味することで暮らしと演劇が二重化する体験をしたとき、じおらまでの演劇ははじめて完成するのだろう。

僕は舞台美術や空間の在り方には、異様なこだわりがある。正直、これだけは譲れない部分である。空間はこの地上で唯一、誰にでも開かれた「余白」であり、各々が想像や行動で埋めていくべく沈黙している。学生時代、テストの後のラクガキが一番好きだった。余白にこそ想像は踊り出す。双方向的に、その余白のためにこそ、演劇的なものが立ち上がっていく。じおらまは、その最たる例として「新たな上演の在り方」を探るための装置となる。集団としての在り方と空間の在り方は密接に関わっていると僕は思う。座組ごとに、また作品ごとに、上演のために必要となる空間が異なってくるのはいうまでもない。一人一人と向き合って創作をしていくということは、漸次変わっていく僕たちの関係性や「空間とのつながり/埋め具合」に対し、空間は呼応して変化し続けてしまう。よって空間をデザインするということは非常にナイーブで、方向づけにおいて重大な役割を持っている。空間は目に見えないもう一人の共演者だ。これから劇団としてどういう姿になっていくのかはわからないが、集団と空間の両義性に着目しながら、誰も取りこぼさない道を僕なりに選びつつ、「都市」で生きる僕たちならではの余白を劇場に立ち上げていくことをためしていきたい。

あとがき

あとどんだけ書くつもりなんだろう、ってずっと思ってた。まさかこんなに書きたいことがあったなんて自分でも驚いている。やっぱり演劇のことが好きだった。そしてそれ以上に、劇場や空間、人々のことが大好きだった。しかも、自分は自分のことを「深刻派」だと思っていたが、まったくちがって、演劇においてはかなり「楽観派」だと気がついた。そのぶん、社会に対して厳しい目線を投げかけているのだろう。

意外にも、これまで獲得してきたことばや概念たちが、自分でも知らないうちに筋道を立てて自分の中に流れていたことにも気がついた。これからも枝葉を伸ばして、より太陽を浴びていきたい。

これだけ書いているのに、作劇論が一切でてこないあたり、自分は本当に劇作に興味がないのだろう。ドラマのドの字もでてこない。いかがなものか。もともと演劇に物語が必要と感じるタイプではないが、客席の多様さを考えるにあたって、ドラマが必要となる場合もあることは言うまでもない。そこが僕の最大の弱点だ。特に記さなかったが、これから僕は、よい「戯曲」を書けるようじっくり準備していきたいと思っている。そして、当分の時期は、じおらまという「場」での創作を通して、演劇を立ち上げる実力をつけていきたい。これから僕の、「場」づくりの時代がはじまる。

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