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音楽演劇ってなに?たぶん、音からはじまる楽しいなにか。

音楽演劇ってなに?

正直いうと、僕もそれがまだちゃんとわかっていない。でも、音楽劇でもミュージカルでも、ただの演劇でもないことだけはわかっている。

さかのぼること去年10月、北千住BUoYで上演した『ま、いっか煙になって今夜』は、悩んだ末でタイトルに"音楽演劇"と添えてみた。そこから音楽演劇『ちょっと待っててね』、音楽演劇『煮込みすぎて.zip』と続き、音楽演劇『じゃ歌うね、誕生日だしウチら』の上演も決定している。でもいまだに、この"音楽演劇"という表現が、僕が想像しているものに最適なことばなのか、悩んでいる。

このシリーズが始まったキッカケは、タイミングがよかったからだ。エリア51に楽器演奏をはじめとして音楽表現に長けたメンバーが4人もいたことから、ずっといつかバンドをやりたいと思っていたところに、AFF2で予算規模を拡大するチャンスがやってきた。それにそもそも、エリア51は演劇をやりたいだけのチームではなかったということに再び思いを馳せ、かつ僕個人としても、豊岡→かながわ→せんがわで少しずつ結果が可視化されていったことの実感と行き詰まり感の中で、演劇ばかり作っていてもだめなんじゃないか、自分を成長させられるよう何かを変化させなければと思っていたタイミングでもあった。

そこで、音楽ライブをやってみたい!と思い、でも音楽をずっとやってきたわけではないし、ただやるだけでは面白くないと思い、"戯曲として"音楽ライブを書き始めてみた。すると書きたいことがどんどん浮かんできて、最終的に「場」への言及に行きつき、やはりこれは演劇なんだな、と思うなどした。でも実際に作ってみると、軽やかさがまったく違う。この不思議な感覚はなんなのだろう?という謎が解けないまま、僕はBUoYを後にした。(AFF2はうまくいったんだけど、楽器とか機材いっぱい買ったら赤字になった!ぶいぶい!)

変化していくと「道」に出た

特にいま自分に必要な変化とは、「実演家としての成長」だとハッキリわかっていた。そう思った理由は、僕が俳優やパフォーマーに対して、改善案を提案することはできても「具体的な指示」や「指導」を施すことが苦手だということと、自作『かつてのJ』と妖精大図鑑『ASAKUSA THUNDERGATE』で自分の「実演家としての非力さ」に直面したことだ。

つまり、観客の前に立ち、あるいは稽古場で演出家の前に立ち、身一つで何かを提示し、立ち上げることが僕にはまだまだできない。だから俳優やパフォーマーにそうした「実感を伴ったオーダー」を出すことができないのかもしれない。いや、満足にそれをすることはきっと永遠にできないことなのかもしれないけど、そうと自覚するのとしないのではまったく別モノだ。自覚してしまったので、これを解消するための「道」を歩み始めた。

そう、まさに「道」に出たという感覚がある。これは、目の前の作品をよくするということ以上に、一生かけて向き合っていくべき課題に出会ったような気がする。そういう太く長い道に出た感覚がある。ひとつひとつのクリエイションはもちろん大事だし、その積み重ねが形を成していき、振り返ったときに道だったと気づくようなことなんだと思うけれど、なんにせよ、これまで登山したり崖際をドライブしたりしてきた旅路が、広大な平野へと開けて、僕は長い長い道を歩き始めた感覚がしている。

だからたぶん、一生かかって「実演」に向き合っていく必要があるし、一生かかって「パフォーマー」になっていきたいんだと思う。そんな実感がある。だからいま、変な焦りがなくて、それはある意味ではよくないことなのかもしれないけど、じっくり地図を見て行く先を想像している段階のような気もする。

手の届く範囲に音楽があった

僕は実演家として、身一つで何ができるだろう。いま改めて、手の届く範囲にあるモノやコトを使って、できることを積み上げ直しはじめたいと思っている。

僕はこれまで、空間を作るところからクリエイションをはじめてきた。いわば、目に見える範囲を「決めて」から、中身を考えてきた。でも僕はいま、目に見える範囲を設定してからクリエイションをはじめることがいかにつまらないことか、ようやく実感することができている。だからかえって、この身一つで何ができるか、というところに興味が向いているのだと思う。きっと結局、身一つでできることには限りがあるし、身一つでできることなんて言ってしまえば何一つないのだとおもう。でも、いまはここから出発してみたい。

思い返すと僕は、中学生のときから音楽を作っていた。あの頃は楽器もできなかったから、ノートに歌詞を書いて、頭の中でメロディを浮かべるだけ。コードはもちろん、楽器なんてひとつも弾けやしないけど、僕はJ-POPの中で生きてきたし、東京というトレンドと発展の町で、いろんな音楽に触れてきた。だからそれらがごちゃ混ぜになって僕のジュークボックスに詰め込まれ、ふと浮かんだ詞やメロディがつぎはぎになって生み出されていったんだと思う。そう、手の届くところに雑多な音楽があったから、適当に手を伸ばしてこれた。高校に上がると自分のPCを持ち、まだ黎明期だったDTMを始めた。日芸に入ってからも、GarageBandでコツコツと音楽を作ってきた。実は僕が人生でずっと続けていたことって、音楽だったのかもしれない。そしてやっぱり思うのは、ジャニーズの音楽ってすごかったんだってこと。

もう一つ、自分がパフォーマンスすることにいま関心が向いている理由がある。それは、これが「若手演出家の孤独死」に対抗する方法になりうるんじゃないかと考えている、というものだ。

演出家は孤独な職業←死語になれ

演出家が方法的にパフォーマーをめざすのは、エクササイズとしての効果もあるだろうし、なにより場を転々とすることができる可能性があることに意義がありそうだ。若手演出家は基本的に同時にひとつの場しか持つことができない。これは自身やチームメイトを一ヶ所に閉鎖することにもつながり、アンチハラスメント的にもよくない。場を転々とすることは、コミュニティを薄く広げることにつながる。これからインディーズ演劇が不可能になっていく時代にさしかかるにあたって、多くの若手演劇家たちが「インディーズ演劇の持続不可能性」について深刻に考え始めたのは言うまでもないが、演劇のサステナビリティを現代に復活させるためにも、演出家がパフォーマーになって薄く広いコミュニティとつながれるのは効果的なのではないかと考える。

インディーズ演劇の持続不可能化を加速させたのは、語弊を恐れずに断言すれば「コロナ」と「ハラスメント」だ。演劇って、さまざまな人が同じ空間に集まることに究極の意義があったのに、この2要素が最悪のベストマッチを果たしてK.Oされた。たとえば、どんなに優れた演劇を見ても、キャスティングという名の隠れた暴力性が透けて見えてしまうと、何にも感動できなくなってしまったし、体調不良で公演中止になった舞台に対して「お客様の気持ちも考えろ!」的なクレームを目にするだけで俺の中のガノンドロフが瘴気を発する。正直、これら2つの問題に抜本的な回答をあらかじめ出しておかない限り、演劇をやっていい理由なんか一つも僕にはわからない。もう「やりたいから」以外に何が残ってるっていうんだ。でも「やりたいから」って、そんな根性論で、続けられるわけがない。

極端な話をする。極端にいえば、演劇を作りたい人(≒演出家)が、身一つで作りたいものを作れるようになれば、いろいろなことがサステナブルになるだろう。誰かを雇う必要がなければキャスティングの魔構造から脱し、資本主義的な権威勾配を生まずに済む。稽古や上演の場という、演劇の場を開くまでの負担が減るのもサステナブルだ。当然、できることは限られるが、発展性よりも持続性を第一に考えてみると、むしろ持続することで実験を繰り返せるし、経験が増えることが発展につながるとも考えられる。かといって、別に僕は一人で作品作りをしたいわけではないのでそうはならないだろうが、無論、小さな集団で作品づくりをすることに希望を感じている。ざっくばらんにいえば、フィーリングの合う仲間と密になってつくる、ということだ。

少ない人数ではじめる創作は、クリエイションの作業から効率化を重視する心持ちをできるだけなくし、無制限の対話の試みとして創作の場をひらける可能性が高まる。少数精鋭の「マルチタスク可能な人々の集団」になっていくことは閉鎖的で危険でもあるが、それらの問題は一旦あたまの隅に置いておきたい。(それに、対話が作品になっていくというのもひとつの幻想だったし、誰もが"ものづくり"をしたいという動機で演劇をやっているわけじゃないというのも直近の学びである。だからこそ、なおさら、フィーリングの合う仲間と密になってつくることに希望を感じている。)

人は勝手に孤独になるのではなく、本来接続していたはずのコミュニティから絶たれて絶望し、あるいは絶望され捨てられて孤独になる。そして今、若手の演劇の世界ではそれが簡単に起こりうる状態になっていて、非常に危険だ。だから、いわゆる「演出家は孤独な職業だ」の危険度が、かつてと今とではぜんぜん違う。(だって醤油なめて6700万円の世の中だし!ひとつの失敗における代償の大きさが全然ちがう。怖すぎるよ!!)孤独のままでいていい演出家なんていちゃいけない。僕はそれに対して、何かしらの希望を打ち出していきたい。だから僕は、自分自身が舞台に上がってみることで、何か変えられないかと模索してみている。ちなみに僕の演奏やパフォーマンスをいいなと思った方は、ぜひどこかに呼んでください!

演劇を"今"にフィットさせたい

若手演出家による演劇の持続可能性はいま、主宰者の気力と体力だけで、文字通り首の皮一枚でつながれている状態だ。別にそれでいいのかもしれないし、自然淘汰的に考えれば仕方ない。若手でもお客さんが入ってる団体や公演はあるし、結局はうまくやれてればいいだけのことなんだと思う。でもやっぱり、僕よりももっと下の世代に対して、僕はいまの「演劇界」を構成するわずかひとつぶの点であれ、この空気をつくることに加担してしまっていることの、この責任について考えてしまう。この空気というのは、資本主義的な空気だったり、自己責任強要的な空気のことである。僕がそうするつもりがなくても、そう感じられる可能性は絶対にあるし、僕がどれだけ自分のことを"小さなアーティスト"だと思っていても、下の世代からすれば権威的だ。それが僕にとっての孤独だし絶望なんだけど。

本当はもっと、失敗を恐れずにチャレンジできる場がたくさんひらかれていて、簡単にアクセスできるようになっているべきだ。それを作れていないことへの自責から逃げられない。うまくない人だって演劇を続けられたほうが、長い目でみたときに豊かな文化になっていくことは間違いない。むしろこの数十年間で演劇が失ってきたものって、まさに「それ」なんじゃないのか。優れた演劇をつくることなんかよりも、演劇をやってみたい!と思えるような子供たちを一人でも多く育てることのほうがよっぽど大事なはずだ!

デニー氏がカチャーシーを踊る動画がTwitterでなにやら炎上していて、一体これの何が気に食わないって言うんだ!?と思ったのだけど、やっぱり「人が表現と共に暮らす」という文化自体が絶滅しかけているんじゃないかと感じる。TikTokで中高生がダンス動画を投稿して交流しているのを、僕はどっちかというと希望として眺めていたんだけど、やっぱりあれは資本主義的な思想に巻き取られた「バズに取り憑かれた踊り」であって、暮らしとともにある表現ではなかったのかもしれない。これにはちょっとショックを受けた。ダンスは「ふざけ」や「ノリ」、ウケ狙いの「コンテンツ」、、、やっぱそう思われてしまっているなのかな、と。まともな(公的な)大人が、公衆の面前でダンスをするなんてふざけている!とな。いやいや、国会でもダンスバトルとかすればいいじゃん!?(その前に、話すべきことにちゃんと時間を割いて話して欲しいけどね!)

そんな現代にフィットしながら、「暮らしとともにあるべき表現」を復活させるにはどうしたらいいのか。僕はこれに、音楽演劇なら応えていけるかもしれないと思っている。まだまだ試行錯誤が必要だけど。だから僕は、長い道のりではあるだろうけれど、この「道」を進み始めていいような気がしている。

ゲームチェンジ、してよ今

優れたアイデアは、複雑多数の課題を同時にすべてクリアできるという。どんな優れたアイデアならば、前述のようないくつもの苦しみを霧消されられるだろう。

僕がどれだけ「道」の途中だと思っていても、公演があればそのたびに結論を提示しなければならないのが演出家であり、やはりその都度どこかに着地していなければならないのが悲しい現実だ。これはぶっちゃけ、誰にも相談できないし、相談できたとしても「決定しなきゃいけない」のはやっぱり演出家だ。これが大変苦しい。で、この「苦しさ」が、まったく持続可能じゃない。

そりゃ、世の中たいていのことは苦しいし大変だし、そこから目を背けたいと言ってるわけではない。でも、経済面も芸術面も人事面も責任を負わねばならず、一歩踏み外せば即炎上、人生をかけたドキドキハラハラの大博打を、好きでも続けられない世の中になってきたと強く感じる。それは核家族化とか、地域コミュニティの消滅とか、世代間の情報差とか、テレビの死とか、いろいろな分離加速が要因としてはあるだろうけど、難しいことは抜きにして、僕は、この小劇場演劇の、いまあるゲームの制度の中でいろいろ試行錯誤することが、もう、ほとほと、どうでもよくなってしまったのだった。

ゲームチェンジが必要なんだと思う。これらの、行き詰まった、いろんな物事を、たったひとつの、宙返りするような軽やかなアイデアで、番狂せをしなくちゃいけない。僕は別に、上手に演劇をつくれるようになりたいわけでもなかったし、富や名声がほしいわけでもなく、ただ単に、おもしろいなにかを作りたくて、その工房がたまたま演劇の場だったというだけのことだった。だから、上手に演劇をつくってそれを見せびらかすことなんかよりも、来てくれたひとりの観客のことを大事にすることのほうがやりたいし、いまよりももっとフェアでオープンな演劇づくりの在り方を探したい。そこに僕は、ゲームチェンジの可能性を感じている。

現代アートはデュシャン以降止まっているといわれるが、果たしてそうだろうか。サステナビリティへの応答とその物語は、これまで以上にアートが持ちうる力と美の可能性を高めるジャンプ台になりうるのではないか。優れたアイデアは、複雑多数の課題を同時にすべてクリアできるという。ならばその一発逆転に賭けてみたい。

音があって楽しいなにか

だから僕にいまできることは、音楽演劇(?)に賭けてみることだ。いや、やっぱりこの呼び方はあんまりしっくり来ていない。音があって、楽しいなにか。ただそれだけ。もちろん、空間があって、人がいて、場があって、光もある。それはそうなんだけど、僕にとって楽しさの泉が、やっぱり音だったんだ。音楽だったんだ。お客さんがそれを演劇と呼ぼうが、音楽と呼ぼうが、ライブと呼ぼうが、くそだと呼ぼうが、それは自由でいい。僕ももう、わからない。ただ、『ま、いっか煙〜』のときに、「あの曲が好きだった」とか「あの歌詞が刺さった」とか純粋な感想をもらえたのが嬉しかったし、よかった。メンバーとも演奏を通じて心を通わせられて、よかった。僕は絵に詳しくないので、名画を見ても難しい感想は述べられない。でも好きな絵については語れる。意味とか、良し悪しとかどうでもよくて、心地よくて、心に響いて、何かが残る、そういうものをつくりたいし、それを作れるとしたら、僕にとってはそれは音から始まるなにかなんだと思う。

僕は去年からギターをちゃんとやりはじめたので、正直、ド下手だ。あんまりギターはきかないでほしいくらい。でも、これからどんどん弾いていきたいし、上達していきたい。その様子を、みんなが追いかけてくれたらそれは嬉しいし。演劇となると、あんまりそうはならない。みんな厳しい。それがやっぱり辛いし苦しい。演劇をつくっていると、味方なんて誰もいないんじゃないかって気持ちになってくる。で、多分、僕が作る演劇には、その嘆きが「叫び」になって出てきてしまう。それに自分自身が疲れてきた。でも楽器を奏でて、ダンスをして、音楽が流れてセッションすると、最低限、その瞬間はみんな味方だった。それが僕にとってなによりも救いだ。下手とか上手とか、どうでもよくなって、人間ひとりひとりが、なにかを通して、フェアに交流する。それがぶつかったりすれちがったりすると「ライブ」が起こる。それがほんとに最高。いつかはまた音楽までもが息苦しくなるかもしれないけど、その時はその時だ。

人生を階段だとしてみよう。階段には"踊り場"が必ずある。ひといきついて、ふと窓の外に視線を投げられるような場所。かるくターンしてドレスが咲くから、踊っているように見えて"踊り場"と呼ばれたらしい。素敵すぎる。でも劇場とはそういう場所なのかもしれない。そうか、「オドリバ」ってそういうことか。人生の長い道のりの通過点で、ふと窓の外に視線を投げると、たまたまふわっと舞ってしまって、それがあなたには美しく見えたんだ。

こまばアゴラ劇場だって、BUoYだって、浅草九劇だってオドリバだ。横浜アリーナだって、東京ドームだって、国立競技場だって、実家だってそう。僕にとって人生はLiveの途中だ。

かっこいいこと書けたんで締めます

実際、ライブに来て欲しいけどこわくて宣伝ができない。物価高えし、生き辛えから、そんな大変な日々のなかで、労働と労働の間でワシらのために金と時間を使ってくれたもれと声をかけることができない。しょうがなくないか? 無理もないよ。無理もない。そんなお願いできるほど高尚なことなんかしてないし。それでも、劇場のことを、久々にみんなと会う場にしていくのも好きだし、嫌われたって面倒くさがられたって構わないと意を決して宣伝を送るんだ!!!送るからな!!ごめんね!!!!私のことを嫌いになっても、演劇のことは嫌いにならないでください!!!!!

でも、いい時間と空間にするので、そこは胸を張っていこうと思う。みんないい演奏するし、ダンスも最高だから。ギターも頑張る、あたりまえだけど。あと曲がいいです、手前味噌ですが。

音楽演劇ってなに? わからないけど、たぶん音からはじまる楽しい演劇。今のところは、そういうことにしておこう。

ちょいと失礼、宣伝タイム

てなわけで、ライブがあります。もうすぐです!

🪩オドリバ
🍙ライスボールダンスクラブ「ことばmonoくうき」参加作品

音楽演劇『煮込みすぎて.zip』

2023年 7⽉ 13⽇ (木) − 7⽉ 16⽇ (日)

🗓️エリア51の出演はBチームです
7 ⽉ 13 日 (木) 19:30...A
7 ⽉ 14 日 (金) 19:30...B
7 ⽉ 15 日 (⼟) 14:00...A / 18:00...B
7 ⽉ 16 日 (⽇) 13:00...B / 17:00...A

🗺️こまばアゴラ劇場
〒153-0041 東京都目黒区駒場1-11-13

🎫高校生…1500円/U25…3000円/一般…3500円
ご予約はこちら

💬あらすじ
あのー。これってどれが最新なんですかね? 「予算書_決定」
「予算書_決定2」「決定予算書_最新版」「最新予算書_確定」
「予算書_確定 (修正)」「修正予算_最終」「修正予算_最終(新)」
……。(名前に日付をつけてほしい)

🎼セットリスト
​・Introduction「いいたい」@オフィス​
・.zip
・Interlude「いえない」@喫煙所
・通信制限​
・Conclusion「いわない」@オフィス
​​
★歌詞カードをzipファイルでダウンロード可!★

ことば:
神保治暉

音:
Vo. 鈴木美結(エリア51)
Gt. Cho. 神保治暉(エリア51)
Ba. Cho. 廣戸彰彦(エリア51)
Perc. 中野志保(エリア51)

体:
中嶋千歩

説明するのちょっと難しいんですが、ライスボールダンスクラブというのは、オドリバという団体が主催する、コンテンポラリーダンスのショーケースイベントです。今回のテーマは「ことばmonoくうき」で、エリア51は「ことば」担当として参加します。A・B各チームにことば担当/もの担当/くうき担当がいて、1枚のチケットで3団体による3つの作品を見ることができます。AB両方見れば6団体6作品になるというわけです。1作品20分くらいずつなので、上演時間はおよそ70分くらいになるのではないかと思います。

他の作品もリハーサルで拝見しましたが、めちゃくちゃいい感じでした・・・。モノって空気だったんだ!とか、言葉こそがモノじゃん!とか、意味不明な気づきに満ち溢れてます。これはリッチなショーケース体験になりそうな予感。まだまだ席に余裕があるそうなので、ぜひぜひ遊びにきてください。あなたもきっと踊り出したくなる。

今回もdemotapeつくりました! 試しに聞いてみてください!


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