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『最後の喫煙者』を読んで

現実と非現実とファンタジー。大まかに分けると物書きは書き物をこの三つに分類しているのではないかと思う。

こんなことを考え始めたきっかけは、筒井康隆の短編小説『最後の喫煙者』を読了したことにある。

筒井康隆の世界に、靴を脱ぐための玄関はない。
いわば、土足で出入り可能な世界なのだ。入口を抜けるとわかるが、その世界は土足でないと通りきれないほど、不真面目なアトラクションに満ちている。なんなら、マウンテンブーツが必要かもしれない。

彼の本を開くことは、ディズニーランドやUSJのゲートを潜ることに等しい。ただし、彼の小説には入り口と出口の両方が存在する。筒井ワールドには必ず出口があり、出口を抜けると、さっきまでいたはずのワールドは跡形もなく消える。

なぜなら、『最後の喫煙者』は(現実)であり、(ファンタジー)であるからだ。

確実に、小説世界の基盤は(現実)に根ざしているのだが、咲いている花が(ファンタジー)である。そこには、ガジュマルのように太く張った根と彫りの深いカラフルな花が混在している。

だからこそ、現実で溜まった疲れや悩みを全てファンタジーに気化してくれる。読み終わった頃には、それらが存在したことすら忘れている。

筒井康隆の世界は、究極のエンターテインメントである。
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− 書き物の三分類

『現実』
書き物においての『現実』は、文字通り『現実』に基づいた作品。例えば、エッセイや歴史文学、ルポルタージュなどノンフィクションと呼ばれる作品がある。

『非現実』
次に、書き物における『非現実』とは、『現実』に起こり得そうだが実際は起こらない事象を描いた文章を指す。一般的な小説は、ほとんどここに辿り着くのではないだろうか。緻密にロジックが練られ、全てがこの世界で起こりうるという状態の中で、実際には起こっていないことを自由に繰り広げる小説のことを、書き物における『非現実』と呼ぶことができる。

『ファンタジー』
最後に、書き物における『ファンタジー』とは、ロジックの通じない宇宙を自由気ままに飛び回る全ての書き物を指すのだと思う。もうそれは、水を得た魚、初めて色鉛筆を持った赤ん坊くらいに、パレットに向かって自由に筆を振る。
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こうして、書き物を三分類してみたわけだが、『非現実』という言葉には非常に戸惑わされる。

非現実とは
現実ではないこと、現実離れしていること。または、可能性などが薄いこと。(Weblio 辞書)

インターネット辞書によると、非現実とは "現実から遠ざかった状況" を示す。なんなら、現実ではないとまで書いてある。
それでは、「非現実を味わいたいから、海外に行く」という文は意味をなすのだろうか。

たわいもない一言をこんなにも掘り下げようとするなんて、僕はさぞ面倒くさい性格なのだろう。
だが、僕は本当に戸惑っている。「現実ではないはずの『非現実』を味わう」ことなど可能なのであろうか。海外旅行などで味わえるとされる、一般的な『非現実』とは、どこかの誰かにとっての日常、つまりは『現実』であって、非現実とは言えないのではないだろうか。

なんと、ひん曲がった性格なのだろう。この文章を書きながら、自分のことを本に挟んで、ぺしゃんこにしたくなる。

だが、『その人の環世界の中では』という枕詞をつけると、海外での生活を非現実と呼ぶこともできるだろう。つまり、その人の現状の生活を基準にすると、現実離れした状況を『非現実』と呼ぶことができる。

まあ恐らく、『非現実』という言葉が使われているのは、常に『〜の環世界の中では』という枕詞が省略されているからなのだと納得する。

書き物の三分類から始まった『非現実』の意味を探す旅は自分の環世界の中で完結した。そういや、映画にも現実、非現実、さらにはそれらを超越したファンタジーもあるな。

映画の基も、台本や小説だから、結局は書き物か。
『最後の喫煙者』に戸惑わされた日のエッセイでした。


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