服を着るように
外に出て人とすれ違うことすらストレスになる時期がある。
きっと同じような感覚に苛立ちを覚える人も少なくないだろう。
私の場合、服を着るように‘人格を装う’ことで、そのストレスを解決するときがある。
季節の変わり目。
お外に出かけるのがちょっとしんどいな…と思ってるのであれば。
ちょっと大袈裟に装いを変えてみるのはどうだろうか。
擬態するのが好きだったりする。
‘そういうもの’として放っておいてもらえるからだ。
できることなら私を見ないでほしい。
見る=好意的ってわけじゃない。単純に興味だったりさまざまな理由が存在する。
私は、如何なる理由であれ、会話をしているわけでもないのに赤の他人様からわざわざ‘見られる’ことが苦手である。視界に入るとかなら仕方がないけれど。
だから、‘誰かを着こなす’ようにしている。
変な奴だと思われるのならその方が好都合だったりする。
私という人間は、自分が自分を1番理解している自覚があるためか、他人から理解されるのが苦手だったりする。
解釈の一致が見られない時、自他ともにストレスを覚える可能性が高いからだと思う。
そういった色々もあり、他人から見える自分を着こなす癖がついている。
その場の印象で終わってほしい。
通り過ぎてほしい。
そういった想いが特別強いように自覚している。
面と向かって話をする間柄…つまりお友達とかお仕事仲間とか家族とか、そう言った場合だとまた別だけれど。
知らない人からは、知られないままがいい。
そんなふうになった理由を憶測で書いてみよう。
我が家の家族は、地元でわりと名が通っていた。
父親が警察官ってのがあったり、実家が自営業(建設会社)をしていて地域に根付いていることがあったり、親戚や祖父など市議会議員とかをやってる人が多かったり。
つまり幼い頃から、地元の町を歩いているだけで、‘一方的な知り合い’に遭遇するわけだ。
ジロジロと見られる。
声をかけられる。
別にそれだけが嫌だったわけじゃないのだろうけれど。
放っておいてほしいって気持ちは、どこかのタイミングで少なからず現れたのだろうね。
あとは、親の遺伝子のおかげでそれなりにモテてきた。
性自認がストレートな女性ってわけじゃなかったので、女性として評価されることも結構ストレスだった。
生まれ育った環境の影響からか、勝手に他人の中で、‘私’ってものが作り上げられて、理想だったり軽蔑だったり。
例えばその一方的な想像と解釈違いだったときに、私と関係なく勝手にガッカリされる。
知らんがな。
その経験が結構ストレスだったのだろう。
だから、ただ赤の他人の目に留まってしまっただけのことでも、過度のストレスを覚えるようになったのだろうと思う。
自意識過剰なわけでなく、ある種、トラウマじみた厄介な心の痛みを再発させないための自己防衛なのだろう。
そんなわけで、今日とて何かを装って歩こう。
これを読んでいる人で、‘他人からの視線が苦手だ’と思うひとがいるなら。
それは、自意識過剰なんかじゃない。
あなたの防衛本能がそうさせているのだ。
だから、可能であれば家に居よう。
出かけなければならないりゆうがあるのであれば、何かを装ってみないかい。
スーツなんかを着てみたり。
普段よりちょっとヤンチャな格好をしてみたり。
観光に訪れた人っぽい格好をしてみたり。
みられているのは、自分じゃなくて、自分が作った誰か。
そう思うだけで、少し楽になれたりするから。
周りが勝手に、自意識過剰だとか甘えだとか決めつけてきたとしてもそんなの他人の願望でしかないから叶えてやる必要なんてない。
そんなの蹴散らして!
自分の心を大切にしてあげてね!
あなたのことを1番そばで大切にしてあげられるのは、あなただけ。
あなた以外全員他人。
自分を愛することは、自己防衛。
私は、そんなふうに思う。
ほなね!