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素材と「日本画」2022年の終わりに自作について考える。

 2022年の終わり、結構苦しい気持ちとすこしの決意を込めて書いたメモ。今はこのときよりすこしラディカルだかリベラルな立場にいるが、このときの気持ちもまた本当だったこと。というか僕の、こういう(極端な)振り幅を持って素材の権威からの解体なり、自身への引き寄せなりをしているのだろうと思う。
 そして、この文章が2023年度の清華大学派遣留学(予定)までの一つの草稿となった思い入れを込めて、未加筆で残したい。
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素材と「日本画」2022年の終わりに自作について考える

 2022年の終わりの今、自身の思考について語るとき、"素材への回帰"とまずは言って良いように思う。「日本画」という権力と構造が抱える問題が大きすぎるがゆえに、今まで「日本画」的な(高尚な)素材からこぼれ落ちた副次的と見なされる素材(例えば墨汁やクラフト紙)を意図して使っていた。その根底には自分ではどうしようもない「日本画」という中央集権、上意下達的な構造に対する嫌悪感と、それなりに全うな批判精神があったつもりだ。しかし最近の僕の意識は(自分でも意外なほどに)日本画材とされる素材に向きあっている。これは素材に対して向き合うことが「日本画」に決定的に取り込まれる重要な要因にはなり得ないと気づいたことも大きいように思う。
 いわゆる「日本画」構成員は和紙や墨、絵具、素材の格式の高さへの異常なまでの固執がある。なにより現代の厚塗り「日本画」のほとんどに感じることだが、いくら和紙や墨にこだわったところで全て堅牢な岩絵具層の下に沈む。たとえ表層にほとんど影響しない素材でも、その格式に固執する理由は(保存修復関連の人間以外の多くの作家にとっては、)ほとんど自己陶酔か「日本画」というイデオロギーへの意識的・無意識的な自己保全に過ぎない。この「日本画」の素材に対する信仰ともとれる傾倒の強さは、希少性に由来する価値が占める割合が高い。例えば、同じ日本画素材でも水干絵具は価値の低いものとして画面の下層へ追いやられ、天然群青はモテハヤされ表層に現れる。これが「日本画」構成員の素材観が自己陶酔かイデオロギー保全に過ぎないと僕が批判する所以だ。ここへの違和感、素材に対するヒエラルキーを解体したいという欲望から、(逆張り的に)今の僕は素材に回帰しているのだと思う。もっと純粋で無垢な感情であると楽なのだけれど、とことん面倒くさい遠回りをしている。もはや僕にとって「日本画」とは(そして実は「絵画」さえも!)呪いに近いものとなっている。僕にかかる呪いの諸元を改めて辿ってみると以下のような「日本画」成立前後の流れが見えてくる。


 「日本画」は「西洋画」の対立概念として生まれたと語られがちだが、正確にはもうすこし込み入った事情がある。「日本画」の敵はまずは「西洋画」ではなかった。「日本画」の最初に向かうべき敵は国内の諸派(狩野派や土佐派のような)であった。掛け軸や襖、屏風などの調度―家具―であった日本美術を外来の「絵画」ひいては「美術」の枠に引き上げることを「日本画」の創設者たちは目指した。額をつけ窓としての「絵画」へとシフトすること、このとき「西洋画」はまだ目指すべき高みであったとさえ言える。「絵画」としての地位を獲得した「日本画」は、はじめて次の敵を「西洋画」へと設定する。この流れはまさに日本の近代国家としての成立と軌を一にする。諸藩を日本という国家へとまとめ上げたのが明治維新であった。脱亜入欧から国粋主義へ。「日本画」の流れはこの国民・国家の成立過程と呼応している。(大戦中の翼賛画・戦争画への傾倒も同じことが言える)
 戦後にアンフォルメル旋風が吹き荒れ、「日本画滅亡論」が語られるとき、「日本画」はまた新たな岐路に立たされた。キャンバスに対抗しうる支持体として雲肌麻紙が発明され、アンフォルメルの煽りを受けた油画に対抗するために画面はさらに厚塗りへと向かった。(この時代の人工の日本画絵具の進展も目覚ましいものがあった。これはフェノロサが狩野芳崖のためにフランスから顔料を輸入したことにも繋がるかもしれない。制度と素材、概念と現実は対応しているのだろう)戦後から現代に続く厚塗り「日本画」の特徴はこのアンフォルメル以降にあるとも言えるだろう。


 こうしてみると「日本画」の分岐点には常に西洋の影響があり、それに(対抗の構図をとって、実質的には)追従する形で「日本画」は変遷を続けている。それは外来の制度である「美術」とも呼応するだろう。はじめの問いに戻るが、結局は僕の日本画素材への回帰も回り道だがこの流れから来ている。「日本画」という絵画の形式(素材も含めた)を問い直すために現代美術の方向へと向かうこと。これは「日本画」の創設者たちが調度としての日本美術を「悪しき習慣の奴隷」と批判・解体し、西洋の文脈を取り入れたこととまったく同義であると悟った。構造から逃れるために向かった先はまた構造であった。「日本画」から逃れた先は「日本画」だった。「日本画」の文脈をいっさい捨てて新たに美術と向き合うことが賢明だろうが、今の僕はもうすでに日本画を食べてしまった。身体化された日本画をすこしでも僕の方へ引き寄せることが目下の仕事であると思っている。
 ここまで語って感じることだが、結局この呪いに答えは無い。仮想敵と戦いながら進むことにあまり意味は無いと感じていることは前述のとおりだ。しかし、その反動として日本画の方へと潜ること、これもまた「日本画」を対象化することに他ならない。と、思いつつもこの点について今は留保し、まずはその中で足掻いてみることとしたい。足掻いた先の景色は足掻き果てたあとにしか見えないのだから。


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