2011年3月11日、18歳の誕生日。

10年前のことを思い出せる範囲で残そうと思い書きました。記憶違いもあると思います。文章としてまとまってません。不謹慎と言われるところがあるかもしれませんが、当時の私が思ったことも書きます。ご了承ください。



卒業式から数日経っていた。

4月から東京の専門学校に通うため、姉と東京で二人暮らしをはじめる三週間ほど前だったと思う。荷物はすでに運んでいて、先に東京で暮らしていた姉が実家に戻ってきていた。全員実家にいてよかったね、とそのとき話したのを覚えている。

私は友人と一緒に駅前のカラオケ店にいた。ちょうど友人が歌っているとき、テーブルに突っ伏して画面を眺めていた私は、テーブル越しに腕へ伝わってきた振動で「揺れてね?」とつぶやいた。

途端に揺れは強くなり、カラオケの画面がブツンと消えた。すぐに大きいと分かったけど、テーブルの下に隠れるという考えがなかった。あれほど授業で、避難訓練で教わったのに。

激しい揺れのなか、店員さんがドアを開けてスライディングするように駆け込んできた。

「外に出てください!」と叫ばれて、私たちは急いで外へでた。

田舎なので駐車場は広い。私たちとおなじように外に出てきた人たちが、物が倒れてこない中央のあたりに立っていた。のちのち「日本人らしい」とネットで言われていた、みんな「お会計を済ませないと」という気持ちだった。

揺れは収まっていたと思う。携帯を取り出したら始めたばかりのTwitterが慌ただしい。どうやら震源地は東北のほうらしいと分かった。家に電話しようにも電波がつながりにくい。

やがて店員さんたちが長テーブルを外に出してきて、電卓でお会計を済ませた。みんな順番に終わらせて、私は友人と歩いて帰ることにした。

自転車を引いて交差点にさしかかると、信号がついていないことに気づいた。そこでまた大きく揺れて、立っていられなくてしゃがみながら自転車を抑えていた。昼間だったせいか車はそんなに走っていない。

田んぼが広がる景色のなか、小学校横の舗装された桜並木を歩いた。町は不気味なほど静かだったけど、どこかの家が車のラジオを大音量で流しているのだけが響いていた。倒れかかっている電信柱が一本あった。地震のせいなのか前からなのかは思い出せない。

友人と別れて家についた。玄関を開けると母が頭を抱えて座っていた。

二階に行くと、部屋の本棚が倒れたのを兄と姉がえらいこっちゃとなおしていた。そこで、電話がなる。出てみると当時アルバイトをしていた本屋の店長だった。私は休みだったけど、他の子たちにシフトは休みだと電話以外の手段(メール)で伝えてほしいとのことだった。

「店長、大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないよ!」

「私行きましょうか?」

「いい!来なくていい!」

あとから聞いた話だと、本屋が入っているショッピングモールの入口の自動ドアは粉々に割れていたらしい。危なかっただろうけど、家の本棚ですらこんなことになっているのだからお店の本たちはどうなっているのだろうと思った。店長の力になりたいが半分、その光景を見てみたい気持ちが半分だった。

町はどうなっているんだろう。見て回りたい。

海のほうまで自転車で行こうとしたら母に危険だからと止められた。

この時は知らなかったけれど、町にも津波が来ていたので行かなくて正解だった。

停電しているので携帯のワンセグでニュースを見た。ヘリからの光景で、大きな津波に建物や車が流されていくのを見て、はじめて今なにが起こっているのかを知った。

大きい道路は渋滞していたらしい。夜になって隣町で働く父も帰ってきた。


断水するかもしれない、と浴槽に水をためて、五人でリビングで一晩過ごすことにした。まだ寒くて、石油ストーブの上でおにぎりを焼いたり、カップ焼きそば(北海道物産展で買ったスープが作れるやつ。美味しかったし、このときの思い出から大好きな商品になった)を食べたりした。

地震は何度もやってきた。地鳴りみたいな音がして、それから揺れる。当時父が乗っていたミニクーパーのエンジン音に似ていて、震災以降しばらくは父が帰ってきたのか地震がくるのか分からなかった。

私はTwitterに齧りついては情報を集めた。充電が切れたら手回し式の充電機(ラジオつきのやつ)につないでまたTwitterを開いた。

本当ならお気に入りの少し遠いケーキ屋さんに誕生日ケーキをとりに行って、家族にお祝いされていたはずだったのに。予約していたケーキは閉店時間になってもいいように外に置いておきましょうか、と話があったらしいけど、渋滞で取りに行けなかった。非日常に興奮する自分がいた。でもやっぱり地震は怖かった。家族が揃っていたのが救いだった。

「こんなことになっちゃったけど、誕生日おめでとう!」

家族は笑って祝ってくれた。

夜、兄が怯えている私を外に誘った。

「星を見にいこう。停電してるからきっとよく見えるよ」

たぶん兄の優しさで、私を励まそうとしてくれたんだと思う。

母に「あまり遠くへ行かないように」と言われ、兄と姉と三人で外へ出た。

家の前は田んぼで、その先に平行に並ぶ家は真っ暗な影になっていた。街灯もついてなくて見上げるといっぱいの星が見えた。沖縄に行ったとき天体観測をしたのと同じくらいで、千葉でもこんなに見えるのかと美しさに感動した。三人ではしゃいで、真っ黒な夜道を少し歩いたり駆けたりした。

私はこの星空を一生忘れないと思った。

父は寝室から布団を持ってきて早々に眠った。順々に眠っていって、私は暖かくないコタツに潜っていたけどなかなか寝付けなかった。

兄は一晩中起きていた。

やがて外が明るくなってきた頃ラジオから流れてきたのは、ヘリから海沿いを見下ろしている男性リポーターの声だった。

「えー、いま、日が昇ってきて被害が分かってきました。海に、これは、人でしょうか、たくさんの人と思われる影が、浮かんでいます……」

視覚からの情報がない分、想像して一気に怖くなった。けど気づいたら眠っていた。

起きると電気がついていた。テレビでは津波の映像が流れていた。

携帯を充電して、いろんな人達とメールで安否確認をした。家から海が見えると言っていた中学の友人は無事だった。

同じ町に住む祖母が逃げようとして腕を折ってしまった。幸い命に別状はなくて、今も元気に生きている。

翌日、父とケーキを取りに行った。踏切が故障したのかずっとカンカン鳴っていて、近所の人がずっと誘導してくれていた。電車は何週間か動かなかった。

お店はケーキを作り直してくれていて「息子も昨日誕生日だったの。大変な日になったね」と話していた。

家族が歌ってくれて、それに合わせてロウソクの火を消した。揺れはまだ続いていた。

数日後、バイト先の本屋は綺麗に片付いていた。


この年から、3月11日は

”他の人にとってはなんでもない日だけど私のテンションが上がる日"

”ちょっとだけ主役の気分になれる日”

じゃなくなった。

大勢の人にとって意味ができて、静かな日になった。

ただの3月11日が3.11になった。

例えば終戦だったり他の災害だったり、名前がついた日なんていっぱいある。それだけ大きな出来事だったし、悲しい出来事だった。それに対しての気持ちもあって、でも被害とはべつのところで悲しさもあった。

誕生日を聞かれて答えたあと「震災の日なんだね」と言われるようになった。だんだん言いたくなくなって当日にレッスンがあった日、最後に講師と話した時にぽろっと伝えて、どうして言わなかったんだと言われて口篭った。当日はニュースを見なくなって、情報をいれたくなくて目を背けて耳を塞いでいた。23あたりになってやっと馬鹿みたいな承認欲求を受け入れて、自分なりに震災について考えて、切り離すことができたけど。

あの時、これからどうなるんだろうって思っていた。振り返ってみるといろんなことがあったけど、私は周りの人たちのおかげで10年後の今日を迎えることができた。感染症が大流行して意気消沈しても、毎日笑って、ごはんを食べて、あたたかい布団で眠っていられる。

たぶん今日もニュースはあまり見れないと思う。でも私のできる形で震災について考える。時が経つにつれて忘れていってしまうのは、悪いことばかりじゃない。時間が痛みや苦しみを解決してくれることだってある。ただ私はすぐに当たり前にしてしまうから、忘れないために残す。祝ってくれる人の優しさ、ありがたさをしっかりかみしめる。

今日も元気だ。嬉しい。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?