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雪の中の孤独

大人になればなるほど物事の新鮮味は薄れていきますが、ふとなんでも無い時に子供の頃感じた「初めて」や「感情」を思い出すことがあります。


最近徹夜で事務所にこもって仕事をしていることが多いので、朝方4時くらいに家路に着くのです。山形という田舎に住んでることもありますし、コロナ禍ということもあり(?)その時間は人も車もいません。唯一事務所の目の前ある朝日新聞の配達スタッフの方々が作業しているくらい。

その方々が配達に出かけてしまうと、バイクのマフラー音もなくなり当たりは静けさに包まれます。特に今の時期は雪が積もっていることもあり静けさに拍車がかかりもはや「無」です。


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先日いつものように4時に事務所を出て、車に積もった雪を下ろし、ふと雪で覆われた空を見上げた時に子供時代のことを思い出したことがありました。
地元の岩手は今いる山形市よりもさらに田舎で、山と川と海しか無いようなまさにリアルのんのんびよりです。同じ東北でしかも北に位置していますが、雪は山形ほど降ったり積もったりしません。なので東北の子供でしたけど、雪が降ればワクワクもしてました。


当時ハマっていた雪遊びは、かまくら作りでも雪だるま作りでも雪合戦なく、ただ田んぼに降り積もった雪の上にちょっと雪を掘って寝そべること。

冷たい雪の上にスキーウェアを着込んで仰向けで寝る。ただそれだけを1時間。

何も考えず、雪が降る空を見上げるだけ。
雪のお陰でいつも以上に雑音は世界から消えてるし、雪が降る時はたいてい空は雲で覆われているので見つめる先は真っ白。
まさに『無』の状態です。
多分死後はこんな感じなのかなっと考えていたこともありました。

無音・白・死

それらは感じてはいながらも、頭のなかは空っぽなのです。我に帰るのは夕飯の匂いか、寒さ。

嗅覚と痛覚が時を動かし始める、そんな時間が好きでした。
中学生になり、高校、専門、社会人となる過程でこのことを思い出すことは有りませんでした。

それが今になって思い出したことには何らかの意味があるんじゃないかとさえ思えます。コロナ禍関係なく仕事や写真で行き詰まっている今だからこそ、その時間が必要なんじゃないかと。

運よく今週来週は雪が降るみたいなので、時間を見つけて近くの河原で久しぶりに無を味わってきたいと思います。

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(使用した写真)
1枚目/蔵王温泉
2枚目/猿倉スキー場近く(MODEL:IKU)
3枚目/唐松観音堂

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