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嘘ばかりついて生きてきた私が、自分をさらけ出して叶えたいこと

言いたくないことの多い人生だった。本当のことを言いたくなくて、嘘ばかりついてきた。

でも、これからしたいことを考えたときに、自分のことをちゃんと話せないままでは進めないと思った。

身近な人にも隠してきたことを、こんなところで発表するとは自分でも驚きだけど、今は大事な原体験だと思っている、学生時代の話。


家に帰るのが怖かった

家庭環境はあまりよろしくなかった。父は、私が中学生の頃に重度の双極性障害(躁うつ病)と診断され、寝ているか家族の誰かに怒鳴っているかという状態だった。母は、父の病気や今の生活が父の性格のせいだといつも文句を言っていた。両親はそもそも不仲だった。弟は成績が良く、趣味も父と似ていたため、父のお気に入りだった。

双極性障害では、ハイテンションで活動的な躁状態と、憂うつで無気力なうつ状態を繰り返します。躁状態になると、眠らなくても活発に活動する、次々にアイデアが浮かぶ、自分が偉大な人間だと感じられる、大きな買い物やギャンブルなどで散財するといったことがみられます。(『みんなのメンタルヘルス総合サイト』よりhttps://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_bipolar.html

家に帰るのは毎日怖かった。激昂する父も精気のない顔で家の中をうろつく父も怖かった。私は、部活やファッション、メイクなど、父にとって良くないものにばかり夢中になったため、父の的になることが多かった。

家族のことを人に話すことはなかった。話しても解決するわけじゃないのだから、せめて気を遣われることなく学生生活を送りたかった。父のことを聞かれたときは、元気だったころの話をしてその場をやり過ごした。


高校生になって進路選択の時期になると、父の私への態度はさらにひどくなった。というのも、私は美容師になるために専門学校進学を希望しており、学歴主義の父にとって、とても認められない道に進もうとしていたからである。

毎日言い争いをしたが、私は折れなかった。大学進学を望む親心は理解できたが、病気の人間に未来を決められたくないという気持ちが強かった。

しかし最終的に、私は大学進学を決意した。どんどん空気が悪くなっていく家の中で、泣く母、優秀で寡黙な弟を見ているうちに、私が我慢すればこの家族はもう少しまともになるのではと思ったのである。

担任の先生に「親と折り合いがつかないので大学に行きます」とだけ伝え、「美容が好きなら化粧品の開発とかいいんじゃない?」と言ってもらったのを心の支えに、大学で化学を学ぶことを決めた。


解放された、でもつらかった大学生活

逃げるように県外の大学に進学した私は、一人暮らしを始めた。今まで父の目を気にしていた反動と田舎から都会に移った喜びで、とにかく遊び、自由を楽しんだ。

勉強はつらかった。大学の授業は、始めから終わりまですべて呪文のよう。私にとっては苦行でしかなかったのに、同期のみんなが楽しそうに学んでいるのがつらかった。化学が好きで大学に来た同期たちと、仕方なく進学を選んだ私は違うんだなと感じた。

そうこうしているうちに4年生に上がるタイミングがやって来て、単位が足りず、留年することとなった。バイトやサークルばかりしていて朝起きられなかったり、課題やテスト対策を真面目にやらなかったりしたことが原因の自業自得である。

そこからは気持ちを入れ替えて勉強し、迷った末、大学院に進学した。そして、化粧品開発の仕事をする夢を叶えた。


”自分の責任”から解放された日

社会人になっていろいろな人と出会い、私は少しだけ自分を責めていた。留学に行ったり長期インターンに行ったり、すごい経験をしてから社会に出て、活躍している人を見るたび、普通に単位をとることすらままならなかった自分の大学時代と比べ、引け目を感じていた。

私はそういう人たちを見て「すごい!憧れる!」と素直に思える人間ではない。急な進路変更でも猛勉強してそこそこの大学に入ったり、夢だった仕事を執念で掴んだり、入った会社でも結果にこだわったりと、途中で転んだとしても決めた目標は必ず達成してきた。すごい成果は自分で出したいタイプである。

だからこそ、なぜもっと高い目標を掲げて生きてこなかったのかと自分を責めていた。今から頑張ればいいのはそうなのだけれど、ずっと休みなく頑張っておけばよかった、という後悔は消せなかった。

でもある日、ふと肩の荷が降りる感覚があった。

母は時々「お父さんが病気だから〜ができなかった、とは言わせたくない」と言っていた。私も同感である。「自分の歩く道は自分で選んだもので、父とは関係ない」といつも思おうとしていた。

でも、本当にそうだろうか?と初めて思った。
2歳下の弟が大学進学で家を出てから、父の病は急激に悪化した。母に何かあったらどうしようとずっと怯えていたし、時間を問わず攻撃的なメールが送られてきて、携帯を壁に投げつけて泣いた日もあった。

勉強しなかったのも、自分を高めるような挑戦をしなかったのも、完全に私が悪い。留学する友人を見ながら、「怖そうだし私は無理」と思ったことは父とは全く関係ない。でも、あのときはあれで精一杯だったな、とやっと自分を許せた。31歳の誕生日を目前に控えた冬。父が亡くなって10年経っていた。


これからやりたいこと

父を見る目と自分を見る目で、それぞれ思っていることがある。

父について

子どもだったので父の仕事についてはあまり理解していなかったが、優秀な技術者だったと聞いた覚えがある。しかし父は、人付き合いが得意ではなかった。人間関係やその他諸々の煩わしさから逃れたくて一人で起業したが、逆に煩わしい業務を一人で抱える結果となり疲れてしまったそうだ。

状況を悪くさせたのは、父が病院に行きたがらなかったことだ。様子がおかしくなったときから初めて病院に行くまでには時差があった。やっと病院に連れて行けた頃には、すでにほぼ寝たきりだったように記憶している。

起業する前、起業して思うように行かなかったとき、調子が悪くなってきたとき、どこかで助けられるタイミングがなかったのかと、社会人になって改めて思う。でも、優秀と言われてきて、プライドが高くて、人付き合いを嫌う父には、人に助けを求めるのは無理だったのだろう。


メンタルヘルスの問題は、今は昔よりは理解されるようになってきているが、誰かに相談したり病院に行ったりすることを、本人が「かっこ悪い」と思っている場合があると思う。そもそも自分が病気になるわけがないと思っている人も多い。

でも、よく言われているように「メンタルの強さ」とか「仕事の出来」とかは、心が疲れることとは関係ない

だから私は、全ての人が当たり前のように、自分の人生やキャリアの悩みを人に話せる社会を作りたいと思っている。心が折れる前に。相談相手は友達や家族でももちろん良いが、幸せの形がいろいろある中で、身近な人ではどうにもならないこともある。私は、相談されるプロになりたいと思う。


自分について

夢を叶えて化粧品開発の仕事に就いたが、実は数年やってみて興味を失ってしまった。理由はいろいろあるが、そもそものところに問題があったと気づいた。

私は初志貫徹するのが好きだ。子どもの頃に抱いた美容師になる夢を、多少形が変わったとしても叶えたかった。「父の反対にあっても折れなかった自分」にこだわっていたんだと思う。あれは執着だったし、思考停止だった

大学で化学を楽しめなかった時点で他の道を探しても良かった。家庭環境のおかげか、「人を観察し、何を考えているのか想像する」のが私は好きだ。悩んでいる人にいち早く声をかけ、喜んでもらった経験も多い。「物」と向き合うことが求められる研究開発の仕事は、私に合っていたのだろうか。

こんなことを言ったら人任せでかっこ悪いけど、考えを変えてくれる誰かに出会えたら良かったなと思う。これは「相談されるプロになりたい」に繋がる思いだ。

でも、新卒の就職活動のときに軸にしていた思いは嘘ではない。軸は2つあった。

1.化粧品を通じて人を元気にしたい
2.プライベートが仕事に、仕事がプライベートに活きるような境界線のない働き方をしたい

手段が化粧品じゃなくなるだけで、私の思いは変わらない。

私は、人を元気にするために働きまくりたいのである。


あとがきのようなもの

私は双極性障害になった本人ではない。その家族として文章を書くことで、傷つく人がいたらどうしようと正直不安だ。だから、不快になった人がいたら本当に申し訳なく思う。もしよかったら教えてください。


私はずっと「明るくて気が強くて悩みのなさそうな人」として生きてきた。そのイメージを壊してびっくりされたくなくて、誰にも家の話をせず、嘘ばかりついてきた。でも、自分が一番つらいと思っていたわけではない。

今回書いてみて思ったのは、自分がどれだけ恵まれていたかということである。この家庭環境で県外の大学に進学し、留年して、大学院まで行かせてもらったなんて、とんでもないことだ。弟も大学院を出ている。奇跡だと思う。

父には暴言をたくさん吐かれたが、私と弟に少しでもいい人生を歩ませようと必死だったことも、愛されていたことも知っている。父には子どもが全てだった。恨んだこともあったが、父との関係の中で作られた自分が、私は好きだ


化粧品会社にいたとき、自分の精神状態が危ないと感じたことがあった。長時間労働が常態化している会社で、人のつらそうな顔を見るのが嫌いな私は一人で業務を抱え込み、毎月50〜80時間残業していた。体力と根性には自信がある。でも、仕事の目的を見失っていた私は少しずつ疲れてきていた。

「自分はメンタルが強い」と思っていた私が、異変を見逃さずに自分を守る行動をとれたのは、父のおかげである。双極性障害は遺伝する可能性があると聞く。ずっと怖かったけれど、自分の強さを過信してはいけないと、誰よりも知っているのは私の強みだ。



父に人生を左右されないよう、意固地になって生きてきた。

父から逃げるのをやめて、見つけた夢は「父のような人を助けに行くこと」である。



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