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53.人を愛するということは

『幸せになる勇気』を読んだときのことを思い出す機会がありました。

有名な『嫌われる勇気』の第二弾、アドラー心理学についてとてもわかりやすく学べるシリーズです。

幸せになる勇気とは、幸せがどうとかではなく、”人”に対する想いや姿勢の部分のお話でした。

尊敬や、愛。
自立していること。

言葉の意味から、捉えから、そこから派生する我々の生き方。

いろいろ考えさせる一冊です。

さて、今回は「愛する」ということをぼんやりと考えていました。

僕は、基本的にはみんな好き、という毒にも薬にもならない平和主義の意見を貫いていました。

愛する、ということにビビっていた過去。
僕はそうでした。今もまだそうかもしれませんが。

誰も特別を作らず。踏み込まず。
関係が動くことを恐れて、本音の部分を通り過ぎ。

愛するということにチャレンジすることなく。
何にもならない平坦な関係を築いてきたのかもしれません。

本気で人と向き合ってきた経験を、今までどれほどやってきただろう。

もしかしたら、その数少ない瞬間が「愛する」ということへのチャレンジの瞬間だったのかもしれません。

『幸せになる勇気』に、以下のような一節がありました。

誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束はなんの根拠もないことになる。

決意であり、決断であり、約束である。

エーリッヒ・フロムという哲学者、社会心理学者の言葉のようです。

愛するということは、責任が伴います。
その人の人生の、一部になろうとしているわけですから。

僕は、今後何をやっていくにせよ、まずは人間関係の構築、チームビルディングをしていくといいよと学んでいます。

本気で仕事をしようと思ったら。
本気で自分の人生を自由に生きようと思ったら。
誰かと共に、たくさんの仲間、同志と共に、歩んでいくことになる。

そのつながりが「人を愛する」という前提の元で成り立っていれば、きっと時代や環境に流されない強固なチームになっているだろうなと思うのです。

人類愛、というと大袈裟ですかね。
僕の母校はキリスト教の学校だったので、隣人愛という言葉をよく聞いていました。(僕は無宗教です。中学校では道徳みたいなノリで、聖書を勉強していました。笑)

まあ、そういうベースの想いがあって、ただそれだけだと本当に宗教のようになるので、やがて経済を伴わせていく。

そういう感覚ですが、どのみちまずチャレンジするのはどれほどの「人を愛する」という、こちらから動いた経験を積むか、が大事だと思っています。

手を差し伸べられるのを待っていても、愛されるのを待っていても、人生は変わらないし時間は進みます。そもそも他人は管理下にありません。

自分の人生の主導権を自分で握って、これからも人にチャレンジし続ける日々を送ります。

磨かれるぜ〜。

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