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【短編小説】ダストボックス・ガール

 
男の人ってこんなにしゃべらないんだ。

月音(つきね)が仁(ひとし)と交際を始めて最も驚いたことは、デート中、仁がほとんど会話らしき会話をしないことだった。

買い物に行っても、食事に行っても、ドライブに行っても、仁はほとんど言葉を発しなかった。最初の頃は、機嫌が悪いのかと思った。何か気に入らないことがあって、黙っているのではないか。街が混んでいるとか、レストランの食事が美味しくないとか、関越自動車道が混んでいるとか、何か気にさわることがあって、それを無言という態度で月音に訴えているのかと思った。

「俺はしゃべらない方が楽」

海辺の駐車場に停めた車の中で、仁はそう言った。二人が同棲している上板橋のアパートから、車で二時間かけてはるばる葉山の海までやってきたのに、磯子を過ぎたあたりで雨が降り始めた。

葉山に着いても雨は止まず、二人は車から降りずに新道パーキングエリアで購入した菓子パンを齧った。雨の海は黒く濁り、ごうごうと重たい音を立ててうごめいている。

まるで不穏な映画のオープニングのようで、デートらしいきらきらした美しさとはかけ離れていた。

運転席で無言で海を見ている仁に、月音はごくり、と唾を飲み込む。頭の中に、勝手に言葉が溢れ出す。かつて、一緒にいた人がこの場にいたら、言うであろう言葉たち。

「だから嫌だって言ったのよ」
「来なきゃ良かった」
「誰がこんな日に海に行きたいって言ったの」
「そもそも海なんか行きたくなかった」
「暑いし、砂だらけになるし、潮で髪はベタベタになるし」
「ああ、渋滞で疲れた。お尻が痛い。中途半端に寝ちゃったから、頭が痛い」
「あんたたちはいいわよ。家に帰ったらぐうたらしてればご飯が出てくるんだから。私はそうじゃないのよ。一人だけ、家に帰ってもご飯の準備しなきゃならないんだから」
「早く帰りたい」
「何にもいいことなんかない」

呪いのように頭の中をぐるぐるとまわる言葉に、隣にその人はいないのに、月音の体がこわばる。

きっと、同じように思っているはずだ。2時間も車を運転させられて来たのに、美しい海も見られず、砂浜を歩くこともできず、おいしい店でご飯も食べることができなかったのだから、仁だってきっと、同じように思っているはずだった。あの人と同じように。来なきゃよかった、何もいいことなんかない、と。

言わないのは単に付き合い始めて半年の恋人であるという遠慮からであって、仁の胸の内は、不満で溢れているはずだ。仁は運転席を軽くリクライニングし、黙って暗い海を眺めている。

沈黙に耐えかねて、月音は口を開いた。かつて、あの人に向かって懸命に訴えたように。幼い頃から、30年間ずっと。

「ごめんね。私が海に行きたいなんて言ったばっかりに。こんな雨の日に。疲れたよね。ごめんね」
「えっ」

月音の言葉に、仁は驚いた様子で、運転席から身を起こした。

「別に、謝ることなんかないよ。俺、雨の海もいいなあって思いながら、今、見てたとこだったから」
「そうだったんだ。てっきり、怒ってるのかと思った」
「怒ってる? どうして」

仁は目を丸くして、月音を見る。

「だって、なにもしゃべらないから」

月音はずっと胸の内に抱えていた不安を仁に明かした。仁がしゃべらないのは機嫌が悪いからだと思っていた。人というのは、四六時中しゃべり続けている生き物であり、こんなにしゃべらない人がいるなんて知らなかった、と。

「ごめん。俺、しゃべるの苦手なんだ。っていうか、男ってだいたいそうじゃない?」

仁の言葉に、月音ははっと気がつく。これまで月音にシャワーのように言葉を浴びせてきた人、母親、友人、その性別はすべて女性であったと。月音は30歳になる今まで男性と交際したことがなかったから、仁と付き合って、初めてそのことに気がついた。

「まあ、男でもしゃべるのが得意ってやつはいるかもだけど。俺は仕事で窓口に立って散々説明してるからさ。家に帰った後とか、休みの日とかは、もう何もしゃべりたくないんだ」

仁は言う。

仁は市役所の職員だった。現在は、駅前にある出張所に配属されている。出張所では、街の真ん中にある市役所にわざわざ行かなくても住民票が発行できたり、市民税が納められたり、母子手帳がもらえたりする。

窓口に立つのは主にパート職員だが、駅前だけあって混み合うことも多く、仁もよく窓口に立つし、パート職員では処理しきれないクレームやいちゃもんは正職員の仁に回ってきた。

出張所はあくまで出張所で、できない業務もたくさんある。

住民票の発行はしていても転入や転出の手続きはできないし、戸籍謄本の発行はできても変更はできない。「絶対に今日がいいのに!」と11月23日に婚姻届を出しに来た若いカップルに泣かれたこともあるし、明日から海外なのにパスポートの期限が切れている、飛行機代を返せと怒鳴られたこともある、らしかった。これまでの半年間で、言葉少ない仁が月音にぽつぽつと語った情報だった。

一方の月音は、手当たり次第に送ったエントリーシートでたまたま最終面接まで進むことができた飲料メーカーに勤めている。配属先は経理で、日々レシートや領収書、請求書の処理に追われてはいるが、対峙するのはほとんど紙やパソコンだった。窓口に立って市民からクレームを受けるようなストレスはない。

「仁くんの仕事って、大変な仕事じゃん。だから、ストレス溜まったりとかして、話を訊いて欲しいとか、そういうのってないの」
「うーん。別にないかな」

仁は首の後ろで手を組んで言う。

家の玄関のドアを開いた瞬間、待ち構えていたように現れる人影。「はあ」という大袈裟なため息。「おかえり」よりも「聞いてよ」から始まる母親の声。

結婚してすぐに仕事を辞め、それからずっと専業主婦で、窓口やレジに立って客を相手にするストレスなど感じていないはずなのに、母親は四六時中、愚痴ばかり言っていた。

仁の方が母親よりよっぽどストレスが溜まる仕事をしているはずなのに、仁がデートで愚痴らしき愚痴を言ったことなど、一度もなかった。だから、仁が仕事で感じるストレスをどう処理しているのか、月音には不思議でならなかった。

「っていうか、そういうのって、言っても仕方ないじゃん。本当に解決したいなら、上司に相談するし。月音に言ったって、何も解決しないでしょう」

仁の言葉を聞いて、月音は感動する。今の言葉をそっくりそのまま家に持ち帰って、母親に聞かせたいと思う。

「私に言ったって、何も解決しないでしょう」。

月音に向かって、30年間、大量の唾液とともに愚痴を吐き続けた母親に、言ってやりたかった言葉。

29歳で焦って参加した婚活パーティで同い年の仁に出会った時、その安定した職業はもちろんのこと、穏やかで口数少なく、照れて汗を拭いてばかりいる姿に、月音は心惹かれた。

仁の車のダッシュボードには、初めてのデートで行ったショッピングモールで買った小さな手のひらサイズのサボテンが飾ってある。「月世界」というロマンチックな名前の、丸い形をした、トゲも柔らかくて短く、触ってもチクチクしない可愛いサボテンだった。

初めてのデートでももちろんほとんど仁は口を利かず、ああ、この人とは今日で終わりだろうな、後から断りのメールが来るんだろうなと覚悟していた月音は、デートの終わりに仁が、「月音さんと名前が似ているから」と言ってそれをレジにいそいそと持っていく姿を見て、あれ? と拍子抜けした。

車に戻り、サボテンをダッシュボードに飾ると、「これを見て通勤すれば、明日からの仕事もがんばれるかと思って」と仁は笑った。

初めてのデートで一日を一緒に過ごして、耳元でずっとがなりたてる誰かがいない一日というのは、こんなにも穏やかで心休まるものなのかと、月音は驚き、感動していた。

「ごめんね。俺、あまり話せなくて。面白くなかったでしょう」

帰りの車で、ダッシュボードにちょこんと飾られたサボテンを見ていた月音は、首を大きく左右に振った。

「ううん。全然。とっても、静かで、心地よかったよ。しゃべらないでも一緒にいられるっていうのがすごく新鮮で、私は楽しかった」
「それなら安心した」

仁も緊張を解いたように、肩の力を抜きハンドルを握りなおす。

「前の婚活パーティで出会った子は、なんか面白い話して楽しませてってかんじだったからさ。帰りの車でブチギレられちゃって。俺、窓口で仕事してるけど本当はしゃべるの苦手で。言葉がうまく出てこないことがあって。だから、そう言ってもらえて、すごくほっとしたよ」

だって私はこれから家に帰ったら、また壊れたラジオを聞かされているみたいな時間が始まるんだもん。心の中でそう言いながら、月音は笑う。

「俺も、月音さんと一緒にいられるだけで、そんなにしゃべったりしなくても、楽しかった」

一緒にいるだけでいい、話を聞いてくれなくてもいい。

月音は衝撃を受ける。夕陽の中で楽しげにまあるく膨らんでいるサボテンを見て、涙さえ浮かんでくる。ずっと誰かに、言って欲しかった言葉。30年間、ただそうやって、一緒にいてくれたら、私の人生は全く別のものになっていたんじゃないか。

いてくれるだけでいい、話なんか聞かなくてもいい。そう言ってくれていたなら。

あの人にとって私は、「いてくれるだけでいい」存在では全くなかった。

脊髄反射で思いついたことを私に向かって投げつけてきた、あの人。

無視などしようものなら、「聞いてるの?」「返事くらいしなさいよ」「なんとか言ったらどうなの」「話くらい聞いてくれったいいじゃない」「娘なんだから」「家族なんだから」「ひどい娘」「薄情」「恩知らず」「親不孝」「家族を捨てるのね」。

葉山の海からの帰り道、川崎のあたりで雨が上がった。

ダッシュボードにぎらぎらとした夕陽が差し、サボテンの短いトゲがまるで動物の毛みたいにオレンジ色に輝いている。サボテンは購入した半年前よりひとまわり小さくなってしまっている気がしたが、植物に詳しくない月音にはそれが正常なことなのか、異常なことなのかわからなかった。

「この曲、食事スタートの時のBGMに合いそうだね」

ラジオから流れてきた曲に、仁が言う。

「いいね。なんて曲だろう」
「映画、ラ・ラ・ランドのオープニング曲だって」
「私、メモしておくよ」

月音はスマートフォンのメモアプリを起動し、「結婚式」と名付けたフォルダの中にある「BGM候補」のリストの中に「ララランド」と打ち込む。

3ヶ月後の結婚式に向けて、フォルダの中は「ドレス候補」「お色直し候補」「呼びたい人リスト」「テーブル花候補」など、たくさんのリストで溢れていた。

結婚式なんかしなくていいと言っていたのは、月音の方だった。通常ならば、女性の方が結婚式に夢を抱いているのかもしれないが、月音はそうではなかった。

「結婚式なんかろくなもんじゃない」
「私は着たくもないお譲りの重たい着物を着させられて窒息して死にそうになった」
「ウエディングドレスだって着たいのがあったのに義母が私をいじめるために会ったこともないお父さんのはとこが着た黄ばんだ穴の開いた古いドレスを着させられた」
「料理だけで100万円もかかったのに凍ったままのカニが出てきた」
「引き出物の夫婦皿もカタログと全然違うひどいデザインで会社の人に笑われて恥かかされれた」
「お父さんは私の化粧を見ておかめさんみたいだと笑った」
「お父さんは新郎なのに酔っ払って泥酔して寝てしまって締めの挨拶もできなかった」

純白のウエディングドレスを着た「およめさん」に憧れていた幼児の頃からそんな話を聞かされ続けた月音は、結婚式というものはひどい恥をかかされてボロボロのドレスを着させられて凍ったカニを食べさせられる恐ろしいものだと信じ込んできた。

だから、仁が「上司とか同僚との付き合いがあるから」と結婚式をやりたがった時も、恐ろしさに震え上がったのだった。

そもそも、結婚そのものに対しても、月音は全く良いイメージがなかった。

「結婚したって、なんにも、ひとっつもいいことなんかなかった」「結婚生活なんてただの地獄」。

誰かの言葉が心の根っこに深く植えられて、月音を蝕み続けている。

だから、できることなら結婚なんかせずにずっと一人で生きていきたかった。結婚なんか、「ひとっつもいいことなんかない地獄」なのだから。

が、「地獄」と言ったその人は、数分後には、「あんたも早く結婚しなさいよ。いつまで独身でいるつもりなの。29にもなって、みっともない」とも言い続けた。月音は混乱し、がんがん痛む頭を抑えながら、とりあえず何かしなくてはと、29歳から婚活パーティに参加し始めたのだった。

車が首都高速に入った時、スマートフォンが震える。「着信中 母親」の文字に、月音の体が固まる。

「出ないの?」

月音の手の中で震えているスマートフォンを見て、仁が言う。

「うん。母親からだから。急ぎの用事じゃないと思う」
「衣装のことじゃない? お母さんの留袖、まだ決まってなかったよね」

仁に言われて、仕方なく月音はスマートフォンを耳に当てる。

「何してるの」

暗い井戸の底から這い上がるような声がする。電話の向こうからはざわざわとテレビの騒がしい音が聞こえる。

「いま、仁さんと一緒に、ドライブの帰り」
「いいご身分ねえ」

はあああっと、受話器に向かって大きくため息が吐きかけられたのがわかる。ざざざと、強い雨が車の窓に当たった時と同じ音がする。

「うるさいでしょう。テレビ。お父さんが見てるのよ。一日中。本当に、うんざりしちゃう」

母親がいそいそと廊下に向かって移動するのが、足音でわかる。

「ちょっと、聞いてよ」。

母親が、まるでゲームの始まりを告げる合図のように、そのフレーズを口にする。月音の胸が、紙屑でも詰まったように息苦しくなっていく。

「聞いてよ。今日なんかね、お休みでしょう。お父さん、一日中テレビ見てたのよ。どこにも行かないで。邪魔で仕方ないのよ。あの人、趣味も何もないじゃない。本当に、嫌になる。それでね、もう朝から「朝飯はまだか」「昼飯はまだか」「そろそろか」「夕飯はまだか」って、何回も何回も、そればっかり。頭がおかしくなりそう。お父さんなんか、再来年で定年じゃない。定年したら、これが毎日、365日続くのかと思ったら、もうお母さん、うんざりして。私はねえ、あなたの家政婦でも使用人でも奴隷でもなんでもないんですけどって、言ってやりたかったわ」

言えばいい。私じゃなくて、父親に、直接そう言えばいいじゃない。この一言が、月音には言えなかった。母親と同じように。

月音も、相手に向かって直接言うことができない。月音が母親よりマシなのは、そのことを誰にも愚痴らずに胸の中に溜め込み続けていることだろうか。30年間溜め込み続けたそれは、とっくに腐敗して、胸の底で異臭を放っている。

月音は受話器を耳に当てたまま、ごくりと唾を飲む。言えばいい、はっきりと。もう私は、お母さんから離れたのだから。家を離れて、仁さんと一緒に暮らしているのだから。怖いものなんかないんだから。それなのに、出てきたのは、30年間、言い続けてきた、言葉だった。

「そうなんだ」

月音の声は、自分でも耳を疑うくらい、優しくて穏やかだった。月音の穏やかな声を聞いた途端、母親が喘ぐように息をついたのが聞こえた。喘ぎ声はそのまま言葉になって、とめどなく溢れ出す。

「ああん。もう、やることないならさっさと寝ればいいのに。いつまでもダラダラテレビ見て。私の落ち着ける時間なんか一切ないんだから。こっちだって、いつまでもリビングにいられたら、ゆっくりお茶も飲めないし、好きなテレビも見れないし、仕方ないから庭の草むしりしたり、お風呂のカビ取りして。せっかくの日曜日なのに、楽しいことなんか何にも、ひとっつもないのよう。あんたは良いわよねえ。ドライブなんか行って。本当に、良いご身分ですこと。実家に顔も見せないで。ろくに手伝いもしないで」

何か言おうと、月音は息を吸い込む。だが、雪崩のように押し寄せてくる母親の声が、月音の呼吸ごと押しつぶしてしまう。

「今週、何袋ゴミを出したと思う? 6袋よ? 年寄り2人で暮らしてるのに、6袋ってどういうことって思うでしょう? お父さんがね、急に断捨離するなんて言い出して、部屋の片付けを始めたのよ。それでね、自分の溜め込んだあのカビ臭い本の山をさっさと捨ててくれるのかと思ったら、私の服のこととか言い出して。こんなの何年も着てないだろうなんて。あのねえ、それよりもあなたの埃を被った谷崎潤一郎全集だの中上健次全集だのを先に捨ててくださいよって言ったの。そしたらねえ、あれにどれだけ価値があるかだの、退職したら読む予定だのなんだの言って、喧嘩になっちゃって。当てつけみたいにあんな大音量でテレビ見て。本当に、陰湿で嫌な人」

ぼんやりと、月音の頭に白いもやがかかっていく。小学生の頃からだった。

赤いランドセルを背負った月音が、玄関のドアを開けた瞬間、「おかえり」よりも先に「ちょっと聞いてよ」が始まった。

月音が朝に家を出てからまだ数時間しか経っておらず、しかもその数時間、母親はずっと一人で家にいて、ストレスのかかることなど何も起きなかったはずなのに、母親の口からは機関銃のように絶え間なく言葉が飛び出した。

「お隣の美鈴ちゃんいるでしょう。中学受験することにしたんだって。ひどいよねえ。抜け駆けだよねえ。こんな田舎から、どうやって通わせるつもりかしら。埼京線なんかに乗ったら、痴漢にあって大変よう。あのお母さん、そういうこと何にも考えてないんじゃないかしら。自分にとって都合の良いことしか考えられない性格なのよね。美鈴ちゃんなんて、そりゃあ、おませでお利口さんだけど成績の方はどうだか。公文だって半年分くらいしか先に進んでないでしょう。中学受験するような子なんて、3年分くらい先に進んでるんじゃないかしら。だいたい、日能研に通わせてもいない子に中学受験なんか、笑っちゃうわよねえ」

かちゃかちゃと、ティーポットにお茶を準備する音を立てながら、母親はキッチンから叫ぶように言い続ける。まだランドセルをおろしてもいない月音は、リビングにつっ立ったまま、あの言葉を言う。

「そうなんだ」。

「何が一番嫌かって、あのお母さんが美鈴ちゃんのためじゃなくて、自分のために中学受験をやろうとしているところなのよね。見え見えじゃない。うちの娘は、桜ヶ丘女学院に行ってますって、あの人が自慢したいだけでしょう。うちの美鈴が行きたいって言ってー自分から言ってきてーなんて言ってるけど、絶対に嘘だね。気取った制服着せて、家から駅まで中古のビーエムに乗せて、見せびらかすつもりなんでしょう。本当にくっだらないわあ」

まるで相手、美鈴ちゃんのママがその場にいるように、目の前に美鈴ちゃんのママが立っていたら投げつけたいであろう言葉を、母親は月音に向かって投げつける。

まるで近所のママ友が来てくれたかのように、いそいそとテーブルに紅茶とクッキーを並べる母親を、月音はぼんやりと見つめる。

「それでね、びっくりなんだけど。美鈴ちゃんの弟さん、発達に問題があるんじゃないかって、前から言われてたじゃない。ついにね、病院に行ったらしいのよ」

まるで月音がその話をとても聞きたがっているように、と楽しみにしているとでも思っているように、母親は声のトーンを落とし、もったいぶるように言った。

「そうなんだ」。

月音は言いながら、テーブルの前にぺたりと座り込む。ランドセルをおろすのを忘れているが、母親は何も言わない。目ははっきりと月音を見ているのに、まるで月音の向こうの誰かを見ているように、喋り続ける。

母親の口がぐにゃぐにゃと蠢いて、何か喋っているのはわかるのに、その音はピアノの鍵盤をけたたましく叩いているかのように、音だけしか聞こえない。日本語を形成しない。

頭に白いモヤがかかっていく。母親の言葉が、まるで宇宙人の言葉のように、聞き取れなくなっていく。「美鈴ちゃん」も「埼京線」も「日能研」も、知っているはずの単語なのに、まるで別の世界の単語のように、意味を形成する前にばらばらとほどけていく。

「衣装、選んでくれた」

まだ母親が受話器の向こうで喋り続けているのは聞こえていたが、すでに月音の頭の中で、それらの言葉は全てばらばらに砕けて細かい砂のようになっていたので、月音は言った。砂の隙間に手を滑りこませるようにして、もう一度、言った。

「衣装、選んでくれた?」
「衣装? なんのこと」
「留袖。もうそろそろ、衣装さんに連絡しなくちゃいけなくて」
「衣装さんだって。気取っちゃって」

馬鹿にしたような口調で、母親が笑うのがわかる。

月音は唇を噛み締める。いつだってそうだった。

「そうなんだ」以外の言葉を月音が言えば、母親は「そんなわけないじゃない」「全然違う。何も分かってない」「そういうことを言いたいわけじゃない」と月音の言葉をにべもなく否定した。

だからやめた。「そうなんだ」と壊れた人形のように言うことが、母親の望んでいることだと分かってからは、それしか言わなくなった。

「選ぶも何も。一番安いやつに決まってるでしょう。お父さんが許すわけないもの。再雇用で給料も下がってるし、ボーナスなんかもないし、全然お金なんかないんだから。あんたがもっと早く結婚してくれたらねえ。30にもなって結婚式だなんて、恥ずかしいったらないよ。おばさんの白無垢なんて、みっともない。お父さんが現役の時に結婚してくれたら、少しは援助してあげられたんだけど。30歳になるまで彼氏の一人もできないでねえ。好き勝手やってたんだもの。仕方ないわよねえ」

「それはあんたが」。

何かの言葉が、月音の中で結ばれようとするが、それは声になるどころか、その前の、形をつくる前に消失してしまう。

それはあんたが。毎日、真っ直ぐ帰ってこいと、小学生の頃から社会人になってまで、言い続けたからではないか。

友達となんか遊ばずに、部活なんか、サークルなんか入らずに、アフターファイブの飲み会にも行かずに、真っ直ぐ家に帰ってこいと、言い続けたからではないか。

だから、29歳まで彼氏の一つもできなかったのではないか。鴻巣の実家から多摩の大学まで二時間近くかけて通学し、仁と同棲するまでは新宿のオフィスまで1時間かけて通勤していた。

全て、あんたの話を聞いてやるために。そんなことをしている娘に、彼氏なんかできるわけがないだろうが。そう言えたら、どれだけよかっただろう。だけど、それらの言葉は、はっきりとした形になる前に、頭の中でただの黒い渦になってぐるぐると消えていく。

30年間、そうやって生きてきたからだ。月音の作り上げた言葉など、意味がないものとしてかき消され続けてきたからだ。

「お父さんなんか、喪服でいいんじゃないかなんて言ってるのよ。頭おかしいでしょう。本当に、常識知らず。私の結婚式の時だって、あの人のせいでどれだけ恥をかかされたか。あの人ねえ、調子に乗ってお酒を飲みすぎて、泥酔して、ひな壇でいびきかいて寝ちゃったのよ。信じられないでしょう。私の会社の上司も同僚も来てたのに。恥ずかしいったらありゃしない。新郎なのに最後の挨拶もできないで。それにねえ、私の白無垢姿を見てなんて言ったと思う? おかめさんって言ったのよ」

月音が小学生の頃から幾万回も繰り返した35年も前のエピソードを、母親はまるで初めて話すように、昨日のことのように興奮して息つぎもせずに語る。

「ねえ、あんた、本当に結婚するつもりなの」

突如、母親は声をひそめた。月音は息を吸い込む。こればかりは、言い負かされるわけにはいかなかった。隣で、ゆっくりと穏やかに車を運転してくれている仁の存在に勇気付けられるようにして、口を開く。

「当たり前でしょう。今更、何言ってるの」

私は、仁さんに出会えて、変わったの。あなたに一日中、呪いのような禍々しい言葉のシャワーを浴びせられて生きてきた30年間が、いかに異常だったか、あなたと離れて、仁さんと暮らしたことで、初めて分かったの。あなたはおかしい。娘のことを、まるで感情のゴミ箱みたいに扱って、言いたいことを言いたい時に、娘の都合も気持ちも何も考えずに、ただ投げつけ続けてきたあんたは、頭がおかしい。

もちろん、母親に言うことはできない。だけど、頭の中で言葉が形成されるようになっただけでも、幾分ましだった。これまでは、実家で母親と一緒に生活していた時は、それさえなかったのだから。

母親にがなり立てられる音を聞きながらも、頭は白くなっていくだけで、もやもやとした澱(おり)がたゆたっているのをぼんやり見るだけで、その正体を掴むことも、母親に対抗する言葉を結ぶことも、かつての月音にはできなかった。

「結婚なんか、ろくなことないよ」

地の底を這うようなおどろおどろしい声で、母親が言う。

さっきまで、30超えたおばさんの白無垢なんか惨め、もっと早く結婚すればよかったのにと言っていたその舌の根が乾かないうちに、母親は言う。

やっぱりこの人、だめだ。全く理論的でないし、頭に思いついたことを脊髄反射で口にしているだけの、動物みたいな生き物だ。

月音は汗ばんでいく手で受話器を握り直しながら、確信を深めていく。一人だったら対抗できなかった。隣に仁がいなかったら、母親の言葉の渦に飲み込まれて、「そうかもしれない。結婚なんかろくなことないかもしれない」と、思っていたかもしれない。

でも今は違う。夕陽は姿を消し、暗くなった首都高速五号線を転々と街灯が照らす。その光にほんのり照らされた、こじんまりとした丸いフォルムのサボテン、その足元に刺さった「月世界」という可愛らしいネームプレートを見ながら、月音は言う。

「今更、そんなこと言わないでよ。来月には婚姻届も出しに行くんだから」

「良いんだよ。別に。仁さん、市役所勤めだから安定してるし、優しそうだしね。私が言ってるのは、お母さんをこの家に置いていくのかってこと」

何度も断った同居の話かと、月音はうんざりして受話器を耳から離そうとする。しかし、すぐに、縋り付くような母親の声が聞こえてくる。

「寂しんだよ」。

「辛いんだよ。あんなひどい人と二人きりの家に閉じ込められて。それに、田舎のおばあちゃんも、足が痛いだの言い出したでしょう。これで姑と同居なんてことになったら、お母さん、本当に地獄だよ。あんたがいてくれたら、話も聞いてもらえるし、介護も少しは手伝ってもらえるでしょう。一人娘にも置いていかれて、お父さんはひどい人だし、姑なんか鬼婆だし、もう、本当にこの世は生き地獄だと思うよ」

最後の方は、およおよとまるで泣くように声を震わせて母親は言う。不意に、月音の胸が切なさに締め付けられる。母親への同情心に、心が刺されたように痛む。

私は、ひどいことをしている、と突如、気が付く。こんなに頼ってくれて、なんでも娘に話してくれる友達のように仲の良い母親を、意地悪な夫と姑しかいない家に置いていくなんて、ひどい娘だと、突如、自覚する。

「おばあちゃん、足が痛いって言ってるんだね。大丈夫かな」
「大丈夫も何も」

月音の反応に、母親はまるで火がついたように猛然と語り始める。これから始まるかもしれない同居への不安、役立たずで頼りにならなくて年金もろくにもらえない夫への不満、いなくなってしまう娘への怒り。

再び母親の言葉が言葉として判別できなくなり、ただのガサガサという雑音に変わっていく。ぼんやりとしていく月音の視界のすみで、心なしかサボテンがさらに小さく、縮こまっていく気がした。


 
「久しぶりー、結婚おめでとうー」

瑠美(るみ)は弾けるような笑顔でそう言ってくれているのに、月音はごくり、と唾を飲み込んだ。今日こそ、言わなくては。「実は、結婚式の友人代表スピーチ、お願いしたくて」。何度も練習したフレーズを頭の中で繰り返しながら、引き攣った笑顔を浮かべる。

田代瑠美(たしろるみ)は、月音の唯一の友人だった。高校時代の同級生で、家が近所だった。放課後は母親の愚痴を聞くため真っ直ぐ家に帰らなければならなかったため、月音は部活にも入らずアルバイトもしなかった。瑠美だけは、家が近所だったため一緒に帰ることができて、唯一、月音の「友達」らしき存在になった。
毎日30分近く、二人で歩きながら色々なことを話した。と言っても、話すのはほとんど瑠美だったが。

「っていうかさあ、聞いてよ」

鴻巣駅前のドトールで、席に腰をおろした瞬間、瑠美は口を開く。高校時代から、散々聞かされ続けてきたフレーズ、「っていうかさあ、聞いてよ」。

ああ、始まった。でも、スピーチをお願いするためだから、仕方ないと、月音は覚悟を決める。温かいコーヒーの紙コップを握りしめて、瑠美の話に集中しようとする。

「うちの旦那ってばさあ、信じられる? この前の土日も、ひどかったんだよ。土曜日は、一人で朝から釣り、日曜日は、朝からずーっと家でゲーム。ふざけんなって感じじゃない? なんのために結婚したの? んで、ゲームしながら「昼飯は?」とか言ってきて。マジで人のことなんだと思ってんの? 料理が出てくる置物かなんかかと思ってんの? ふざけんなって」

瑠美はストレートのロングヘアを指ですきながら、絶え間なく話す。指に長い茶髪の髪がからみ、ソファに落ちていくのを不潔だなと思いながらも、瑠美は真剣な顔でうなずいてみせる。

「そうなんだ。ひどいね、旦那さん」
「ひどいよねえええ」

月音に同意してもらえたことに喜んだ様子で、瑠美は大きく目を見開く。高校時代からすでに12年が経っていて、二人とも順調に年齢を重ねているが、根本的な顔の構造は変わらないものだなと、瑠美の顔を見ながら月音は思う。

目は大きくてぱっちりしているが、鼻も骨太でがっちりしていて、興奮すると小鼻がぷくっと膨らむ。口も大きいからバランスは良く、よく言えばハーフのようにも見えるし、悪く言えば鼻の大きな間延びした顔にも見える。

「月音もさ、今は同棲してんだよね? 籍入れる前に、ちゃんとしつけといた方がいいよ。最初はね、いいんだよ。好きって感情の方が大きいから。料理したって洗濯したって、ああ、好きな人のために料理できて幸せ、ああ、このワイシャツ、職場で着てるの見たことある、靴下裏返しのまま脱ぎ捨てちゃって、子供みたいで可愛い、なんてときめいちゃったりして、幸せでしかないんだよ。でもそんなの半年ももたない」

瑠美は「幸せ」という部分で上半身をくねらせたり、「ときめいちゃったり」という部分では祈るように胸に手を当てて天井を見上げたりして、大袈裟に身振り手振りを交えながら話す。

話すことが楽しくて、気持ちが良くて仕方なさそうだった。

月音は瑠美の機嫌を損ねないよう、気持ちよく話してもらえるよう、タイミングを慎重に伺いながら「そうなんだ」「知らなかった」「へえ」「そういうものなんだね」と相槌を打つ。

「もう今じゃあ、仕事で疲れてんのに、なんで私ばっか毎日メシ作んなきゃなんないの? くっせえ靴下裏返しのまま脱ぎ捨ててんじゃねえよ! ワイシャツ? アイロン? なんで私が? てめえでやれよっ! っていうか形状記憶買えよっ! て感じだもん。そりゃあさあ、私はパートで、幹也(みきや)は社員だから、幹也の方が大変だってのはわかるよ。でもさ、幹也が休みで、私が仕事の日とかさあ。疲れて帰ってきて、昼のカップラーメンとかそのままで、洗濯も真っ暗なベランダに干しっぱなしで、夕食の準備なんか当然、まったくしてないまっさらな台所を見るとさ、もう、がっくりきちゃうよね。で、幹也は寝転がってゲームしてんの。んで、「腹減ったー早くメシ作ってー」なんて言われたらさ。もう、殺意しかないよね」

瑠美の夫、田代幹也はホームセンターの社員だった。瑠美は大学を卒業後、歌手になると言ってカラオケ屋でアルバイトをしたり、モデルになると言って服屋でアルバイトをしたり、女優になると言って劇団に入り居酒屋でアルバイトをしたりと、夢みがちな20代を過ごした。

20代後半になり、家賃を滞納し、突如現実に目覚め、鴻巣の実家に帰ってきた。実家からアルバイトに通っていたホームセンターで社員の幹也と出会い、交際半年で結婚した。夢みがちな20代前半の頃も、カラオケ屋の社員やアパレルの社員や居酒屋の社員と付き合っていたが、どれも二股をかけられていたり既婚者だったりして結婚には至らなかった。

全て、毎日のように瑠美からかかってきた電話で知った内容だった。

大学を卒業してから7年、同じ会社で経理の仕事を続けている月音からすれば、「レコード会社の人と飲んだ」とか「あの有名ブランドの社長に会った」とか「劇団を有名な演出家の人が見にきた。ドラマに出られるかも」などという瑠美の話は、嘘なのか本当なのか全くわからず、遠い異世界のできごとのようだった。

仕事で疲れ切り、眠くて仕方がない頭で「そうなんだ」「そうなんだ」と相槌を打ちながら、嘘だろうが本当だろうがどっちでもいいから早く切ってくれと、そればかり願っていた。

瑠美の話によれば、ホームセンターの社員であるという夫の幹也は、だらしなくて子供っぽくて、適当で嘘つきで浮気者で女好きで大雑把で不潔で瑠美を奴隷のように扱うとんでもない男ということになっていた。

そんな非道な夫となぜ結婚生活を続けているのか不思議でならなかったが、瑠美はいつも電話の終わりにはすっきりした様子で「ま、でも結婚ってそんなもんだよねえ」と話をまとめてしまった。

「本当、あり得ない。死んで欲しい」

と吐き捨てた瑠美の口から、大粒の唾が飛ぶ。瑠美のコーヒーにも、月音のコーヒーにもそれは飛び散り、月音の全身に鳥肌がたつ。

弁当に飛び散った唾を思い出す。高校時代、瑠美の他に友人がいなかった月音は、毎日、瑠美と一緒に向かい合って弁当を食べていた。瑠美は今と変わらない、大きな目を見開いて、「っていうか、聞いてよ」と弁当箱の蓋を開くなり喋り出した。

クラスの誰それがムカつく、先生の誰それがムカつく、親がムカつく、バイト先の店長がムカつく、二人の弁当に向かって唾を飛ばしながら、瑠美はムカつく、ムカつくと言い続けた。最後にはすっきりした様子で「みんな死ねばいいのに」と話をまとめる。

その「みんな」には自分も含まれているのではないかと恐れながら、月音は「そうなんだ。瑠美、大変だね」と精一杯優しい声で言う。高校生の頃からストレートのロングヘアをしていた瑠美は、ロングヘアごとうんうんと頷いて、「わかってくれるのは月音だけだよ」と笑った。

ああ、よくわからないけれど、役目を果たせていると、月音はほっと胸を撫で下ろす。これで明日からも、瑠美と友人でいられる、と。

そんなうるさい友人なら捨てて、一人でいればいいと、大人になった今なら思えるかもしれない。

一度、瑠美が風邪をひいて学校を休んだ時、月音は一人で弁当を食べた。弁当はもそもそとして冷たく、固く、全く味がしなかった。周囲のクラスメイトから、笑われている気がした。あの人、一人で弁当食べてるよ、という声が、背中に突き刺さってくる気がした。

味のしない弁当を半分残して蓋をして、そして残った昼休みの時間、どこにいたら良いかすらわからず、月音はトイレに閉じこもったり、うろうろと廊下を歩き回ったりした。

教室に戻り、一人で席に座っていることができなかった。笑われている気がした。一人でいるということが、十代の月音にとっては、クラスメイトから無言の非難を受け、見下される耐え難い体験だった。

だから次の日、瑠美が登校してきてくれた時は、心底ほっとした。月音の顔を見るなり、「聞いてよ。最悪なんだけど」と喋り始めた瑠美が愛おしくて、抱きつきたくなったくらいだった。あの背中に視線が突き刺さる孤独を感じるくらいなら、例え「ムカつく」の言葉で弁当を唾だらけにされても、全く仕方ないと思えたのだった。

話を聞くしかなかった。友達も、母親も。拒否したら、居場所がなくなってしまう。家を追い出されたら、弁当を一緒に食べる友達がいなくなったら。一人でいる時の、居ても立っても居られないような惨めさを思い出す。

母親だってそうだ。大人になったのだから、距離を置けばいい。だけど、結婚式にも母親を呼べないような親子関係だと仁に思われたらと思うと、できない。

まともな家で、まともに育って、まともに友達のいるまともな女の子だと、仁には思って欲しかった。というか、そうじゃないことがバレたら、結婚してもらえないかもしれない。そうしたら、また30歳で独身で「みじめ」だと言われながら、母親のいる実家に戻ることになってしまう。そんなことはあってはならなかった。

「これから結婚する月音に言うのもなんだけどさ、結婚なんて、本当、大変だよ。便利になるのは男だけ。だって家政婦ができるんだもん。女は家事の負担が増えるだけ。今日だってさあ、今この瞬間は忘れてられるけど、帰りの車の中ではさあ、私はずっとこう考えるの。ああ、今日の夕飯どうしよう。スーパー寄らなきゃ。今ならキャベツが安いから、キャベツと肉とかいためようかな、でも副菜はどうしよう、めんどくさいなあって、そして夕食が終わったら、明日の朝ごはんどうしよう。って、もう永遠にその繰り返し。それが死ぬまで続くんだよ。うんざりだよ」

瑠美はソファにふんぞりかえってため息をつく。月音の頭の中に、白いもやが漂い始める。ああ、やっぱり結婚なんか、しないほうがいいのかな。

母親も結婚は地獄だと言っていたし、瑠美も結婚なんて家政婦になるだけだと言っているし。どうして私、結婚なんかしようと思ったんだっけ。

月音の頭の中に根深く植え付けられた、呪いの言葉たちが手を伸ばしてくる。この世は地獄だと。ろくなことなんかないと。いいことなんか、何一つないと。

ぶるっと、月音は身震いする。早くこの場を立ち去りたかった。「ろくなことない」と言い続ける瑠美の前から逃げ出して、仁に会いたかった。仁に会えば、思い出せるはずだから。どうして結婚しようと思ったのか。誰かによって浴びせられた言葉ではなく、自分の気持ちを、思い出せるはずだから。
 
結局、スピーチのお願いはできないまま、月音は瑠美と別れた。そのためにわざわざ鴻巣まで行ったのに、結局、いつも通りただ愚痴を聞かされただけの自分が情けなくて、泣きたくなる。

鴻巣駅から電車に乗り、一時間近くかけて上板橋まで戻る。駅から家までの暗い道を、早く仁に会いたいと息を切らしながら早足で歩く。

仁に会って、浄化したかった。大量の唾と一緒に飛ばされた、呪いの言葉たちを。結婚なんか奴隷になるだけだ、家政婦になるだけだという言葉を、消し去りたかった。

確かに、月音だって今、右手にはスーパーの袋を抱えている。だけど、料理が苦手な月音に、仁は手料理を全く強制しなかった。今日だってスーパーの惣菜を買っているけれど、これに対して仁が何かを言うことなど、想像さえできなかった。

ふと、アパートの前の駐車場に停められている仁の愛車、アクアの中に、人影が動くのが見えた。街灯ひとつしかない暗い駐車場で黒い人影が動いたので、月音はギョッとして、足を止める。もしや女の子でも連れ込んでいるのではないかと、心臓が跳ね上がる。

「男なんかみんな浮気するよ。あいつら女なら誰でもいいんだから」。
数時間前に瑠美から植えられた言葉が、ニョキニョキと月音の胸の底で芽を出し、茎を伸ばしていく。

ガチャっと、仁の車のドアが開いた。車から出てきたのは、仁だけだった。車の助手席にも運転席にも後部座席にも、もう人影は見えなかった。

月音はホッとして、声を掛ける。

「おかえり」
「わっ! びっくりした」

鞄を抱えた仁は、駐車場のコンクリートの上で、大袈裟なくらい身を踊らせて驚いた。

「車の中で、何してたの?」
「いや、ちょっと息抜き」
「息抜き?」

仁の言葉に、不思議に思いながら月音は首を傾げる。月音と暮らす家よりも、車の中の方が息抜きになるというのだろうか。

「お父さんにとってはね、こんな家、どうでもよかったのよ。本当の自分の居場所はここじゃないって、ずっと言い続けていたからね。秋田のあの実家、あれを本当の家だと未だに思ってるんじゃない。ここは本当の家じゃないとか言って、キッチンもリフォームしてくれないし、窓も二重サッシにしてくれないし、寒くて狭くて使いにくくて本当にひどい家」

母親が30年間繰り返した家への不満の言葉たちを思いだす。仁にとってもそうなのだろうか。月音と暮らすこの上板橋のアパートではなく、本当の家は十日町にある実家だと思っているのだろうか。だから月音との家では、落ち着けることなんかなくて、車の中で息抜きと称して休んでいるのだろうか。

月音は首を振って、頭の中に渦巻く呪いの言葉たちを追い出そうとする。
出ていけ、出ていけ。

月音は歩き出した仁を追いかけて、鞄を持っていない方の手を握る。仁の手の温かい感触に、ふわっと胸が軽くなる。さっきまで胸を埋めていたどす黒い言葉たちが、その存在を薄めていくのをありありと感じる。

これでいいんだと月音は言い聞かせる。過去に浴びせられた言葉たちじゃなくて、目の前にある現実だけを見ようと、必死に、仁の手の温もりに集中しようとする。

ふと、車の中から視線を感じた気がして、月音は振り返った。街灯のオレンジ色に毛を光らせて、丸く膨らんだサボテンが見えた。サボテンは、まるで仕事を終えたサラリーマンのように、ぐったりとうなだれているように見えた。


 
週末、結婚式の打ち合わせに行くため、月音は仁のアクアに乗り込んだ。久しぶりに間近で見たダッシュボードのサボテンは、明らかに具合が悪そうだった。買った時は毛も白く動物みたいにふわふわしていたのに、毛は黄色く短くなり、湿ったように尖っていた。サイズも一回り小さくなってしまっている。

「サボテン、なんか元気ないね」

運転席に乗り込んできた仁に向かって、月音は言う。

「そうなんだよ。ちゃんと水はあげてるんだけどね」

エンジンをかけながら、少しもがっかりなどしていない楽しげな口調で、仁は言う。

「やっぱり車の中ってあんまりよくないのかな。熱くなったりするし」

月音が言うが、仁はスマートフォンで音楽を選びながら、

「こいつ、メキシコ育ちだから日当たりのいいところの方がいいはずだし、暑いのも好きなはずだよ。大丈夫だと思うよ」

とのんびり言う。仁の明るい口調に月音はホッとして、確かに、気にしすぎかもしれないなとサボテンから目をそらした。

結婚式の打ち合わせは、毎回、頭が痛くなってしまうくらいしんどいものだった。選ぶこと、決めることが多すぎて、半日経つ頃には頭が燃えるように熱くなっている。

しかも、結婚式は月音が一人でするものではない。月音の会社の上司はどう思うか、仁の親戚に失礼にならないか、仁の友人に笑われるのではないか、など、あらゆる方面に気を配りながら考えなければならなくて、そのこともひどく疲れた。結婚とは、大人になるとはこういうことかと、今更ながら月音は痛感する。

「なんか、仮装大賞みたい」

純白のドレスを身に纏い、鏡の前に立った月音の頭の中に、誰かの言葉が湧き上がる。月音は頭に浮かんだ言葉を振り払いながら、クルクルと鏡の前で回って、確認する。幾万ものレースが散りばめられ、ふわりと裾の広がった真っ白なドレス。

夢みたいに綺麗。可愛い。

こんなお姫様みたいなドレスを着られるなんて、一生に一度きりだし、本当に幸せ。そう思いたいはずなのに、頭の中に誰かの言葉がこだまする。

「30にもなって純白のドレスなんて、みっともない。こういうのは、20代の若い子が着るものなのよ」

母親にはドレス姿を見せたこともないし、写真の一枚すら送ったこともない。それなのに、衣装室のすみの椅子の上に、ちんまりと身を縮めた母親が座っているような気がしてならない。

母親の幻影は月音のドレス姿をしげしげと見回し、さもいやそうに顔を顰める。ちくちくと、トゲでも飛ばしてくるように、月音に向かって呪詛を吐き続ける。

「似合ってないわよ。あんたは地黒だから、真っ白じゃなくて、少し黄ばんだ色の方がいいんじゃないの。私だってそう言われて、お父さんのはとこが着た古臭い黄ばんだ穴の空いたドレスを着させられたんだから。あんたにもあれを貸してあげようか。まだ物置の中に入ってるはずだから」

物置の隅に、一度きりしか履いてないスキー靴やスキー板と一緒になってしまわれているカビ臭い箱の存在を思い出す。ウエディングドレスと乱雑な字で書かれた箱。その場にいない母親が、小さな体であの大きな箱を抱えて衣装室に入ってくる様子まで、ありありと目の前に浮かんでくる。

「いかがですか」
「すみません、他のも試着していいですか」

衣装室の前の廊下に仁を待機させていることはわかっていたが、月音は言っていた。もう5着目で、1時間近く待たせてしまっている。だけど、月音の体に絡みつく視線、胸の中でぐるぐるととぐろを巻き続けている言葉たちを振り払うように、月音はその純白のドレスを脱ぎ捨てずにはいられない。
 
「いっぱい待たせちゃって、本当にごめんね」

ようやく打ち合わせを終えてロビーに出た時には、陽はとっぷり暮れて、式場の外は青い闇に包まれていた。

「仕方ないよ。結婚式ってそういうものでしょ」

仁は淡々とした口調で言う。月音はホッとして、息を吐く。もしこれが家族旅行だったら、大変なことになっていただろう。帰りの車は一時間ずっと愚痴の嵐に包まれて、車内は母親の唾液の酸っぱい匂いでいっぱいになっていただろう。

「ちょっとトイレ寄っていくね」
月音がそう言うと、仁は「先に車に戻ってるね」と駐車場へ向かって歩いて行った。

トイレで鏡を見て、さすがに疲れているなと、月音は目尻についたマスカラを指先で擦う。

ドレス選びに2時間かかり、その後に行った式場内のレストランでもなかなか食事が出てこず、1時間待たされた。さらにその後、1時間待たされての音楽担当者との打ち合わせ、その後は1時間かけての花選び。

それでも仁は、たったの一度も愚痴を言わなかった。仁の懐の深さに、やっぱりこの結婚は間違いじゃない、この人を選んで本当に良かったと、月音は心底思っていた。

駐車場はやたら広く、遠くに仁のアクアがポツンと停まっているのが見えた。月音は早く仁に会いたくて、走ってアクアへ近づいていく。

と、その時だった。

前に一度、アパートの前の駐車場の前で見た時と同じように、運転席で蠢く人影が見えた。仁、しかいないはずなのに。この状況だったら、間違いなく、仁しか乗っていないはずなのに。一体、何をしているのだろう。駐車場で声をかけた時、踊るように身を捩って驚き、「息抜き」と笑った仁を思い出す。

月音はそっと、アクアに背後から近づく。アクアの窓が、ビリビリと、細かく振動している。割れるような音が、車内から聞こえてくる。

「ね! び !
ね!
び!」

音が割れる。ビリビリと、車の窓が震える。月音は恐ろしくなって、足を震わせながら、助手席に近づく。助手席の窓から、運転席を覗き込む。

そこには、ハンドルを握ったまま腰を浮かせ、半分立ち上がったような姿勢で、上半身を揺らしている男がいた。男はハンドルを握ったまま、まるでシートの上でジャンプするように何度も腰を上下させ、顔の半分が埋まってしまくらい、大きく口を開けて、叫んでいる。

「死ね! 死ね! ゴミ! カス! 死ね!
 クズ! 死ね! しね!」

仁だった。仁が、顎が裂けそうなくらいに大きく口を開けて、叫んでいた。窓がビリビリと震えるくらいの大きな声で、「死ね! 死ね!」と叫び続けている。血走った仁の目線の先には、怯えるように縮こまったサボテンがいた。

「どうしたの」

月音は助手席のドアを開けた。瞬間、仁は口を閉じ、どすんと腰を下ろす。

「ああ、ごめん」

仁は何事もなかったかのように、月音に向かって笑う。

「疲れたでしょ。早く乗りなよ」
「う、うん」

上板橋の家から一時間半はかかる桜木町の結婚式場から、一人で逃げ出すわけにもいかず、月音は震えをこらえて助手席に乗り込む。まるで何事もなかったかのように、仁は鼻歌まじりに車のキーをまわす。月音の心臓は、驚きと恐怖でうるさいくらいに耳元で鳴っている。

「ねえ、ごめん、今、聞こえちゃったんだけど、なんか、死ねとか言ってなかった?」

仁を刺激しないよう、声が震えないように気をつけながら、月音は尋ねた。

「ああ。聞こえちゃったか」

夜になり、うっすら髭が生え始めた顎を擦りながら、仁は笑っている。大したことではないとでも言いたげに、ナビを操作し、目的地を自宅にセットしている。

「どうする? どっかで夕飯食べて行こうか。家帰ってから作るのしんどいでしょ」
「うん。それは、いいんだけどさ」

仁が話を変えようとするので、さすがに月音は、食ってかかる。

「っていうか、さっきの、何。死ねって、言ってたよね」
「ああ。ねー」

仁は車を発進させる。車はゆっくりとしたスピードで滑らかに駐車場を横断する。そこには、先ほどまで上半身を激しく揺らして「死ね! 死ね!」と獣のように叫んでいた男の面影は一切なく、いつもの穏やかな仁しかいなかった。

だからこそ余計に、不気味だった。

暗い車内でナビの画面が光り、いつものように穏やかな笑みをたたえた仁を、下から照らし出す。笑顔でもっこりと膨らんだほおが、奇妙な人形のようにしか見えなくなる。

「ねえ、なんか、嫌なことあったの」
「ああ。ねー」

仁は曖昧に、「ねー」と繰り返す。前を見たまま、微笑んでいる。月音はゴクリと、つばを飲み込む。

「ねえ、何か嫌なことがあったなら、教えてよ」
「っていうかね」

突然、月音の言葉を遮って、仁が話し出した。

「俺、職場からの帰り道、いつも車の中で死ね! 死ね! って叫びながら帰ってるんだよ。ほら、俺の仕事ってストレスすごいじゃん?」

なぜか誇らしげに、仁は笑顔を浮かべる。

「最近はさ、こいつがちょうどいい位置にいて」

仁は顎をしゃくりあげる。仁の顎が示す先には、すっかりしょげてうつむくサボテンがいた。

「昔は、ただ宙に向かって死ね死ね言いながら帰ってたんだけど、こいつがここに来てから、こいつに向かって言うようになったんだよね。そしたら、前よりもっとスッキリする気がして。やっぱ、聞いてくれる奴がいると違うんだよなあ。最近は毎日こいつに向かって「死ね! 死ね!」って言ってるんだよね」

買った時は、鮮やかな緑色をして、白い棘をふわふわと幸福そうに揺らしていた丸いサボテンが、今では黄色く変色し、棘は硬く尖り、丸かったはずの体は痩せて歪み、今にも鉢から落ちそうなくらい傾いていた。

例え窓越しにであっても、仁の「死ね!」の絶叫を聞いた月音の体も、サボテンと同じように、恐怖でひとまわり小さくなってしまった気がした。精一杯の勇気をふりしぼって、月音は言う。

「愚痴とか言っても仕方ないって、前に言ってたじゃん。何も解決しないから、言わないって」

月音が小さな声でそういうと、仁はあっけらかんとして大きく頷く。

「そう。だから死ねっていうの」
「どういうこと?」

意味がわからなくて、混乱と恐怖が入り混じって、なぜか月音は笑ってしまう。

「愚痴を言うんじゃなくて、死ねって言うってどういうこと」
「だから、ぐちぐち言うんじゃなくて、もう何もかも全部、死ね! はい、それでおしまい。スッキリ。何も問題ないでしょ」

仁は笑う。混乱してぐらぐらとする頭の中で、月音は懸命に言葉を探す。

「ごめんね。ドレス選び、時間がかかってイライラしたよね。レストランで待たされて、お腹が空いて、くたびれちゃったよね。花を選ぶときも、私が迷いすぎちゃって疲れたよね。ごめんね。それが嫌だったんだよね?」

月音は努めて、穏やかに言う。そうだと認めてほしかった。

何もかも全部、死ね、じゃなくて、あれが嫌だった、これが嫌だったとはっきりさせてほしかった。そうじゃなかったら、つまり、私も死ねってことになるじゃん?

「いや、そういうことじゃないんだ」

しかし仁は、ハンドルを指先でトントンと叩きながら、時折舌を出し、しまいながら、言う。

「いいんだ。もう、すっきりしたから。理由とか、どうでも」
「どうでも良くないよ。何も解決しないじゃん。これからも、打ち合わせあるんだから。直して欲しいところとかあったら言ってよ。次からは、気をつけるから」

「別に直して欲しいことなんかないよ。ただ、何もかも全部、死ねって思うだけだから」
「何それ」

月音は泣きたいような気持ちになる。その何もかも全部死ねの中に、自分が含まれているのかは怖くて聞けなかった。いると言われてもいないと言われても、どちらもそれは同じ意味でしかないように思われた。

ダッシュボードの上ですっかり小さくなってしまったサボテンを見て、月音は目が熱くなる。毎日毎日「死ね!」と怒鳴られていたなんて知らなくてごめんね、と抱きしめてあげたいような気分になるが、この子をここから取り外したら、仁はきっと怒るだろう。

「死ね!」という仁の怒鳴り声を聞いてくれるサボテンがいなくなったら、今度はその言葉を誰に向けるだろうか。一度、虚空ではなく、誰かに向かって「死ね!」という気持ちよさを知ってしまった仁が、果たしてまた元に戻れるだろうか。誰もいない虚空に向かって「死ね!」と言って満足できるだろうか。

それが月音に向かう日なんて、あっという間に来るんじゃないか。月音は助手席で震えながら、初めて思う。このことを誰かに話したい、誰かに聞いてほしい、と。


 
翌日、瑠美から電話がかかってきた。会社帰り、駅からの道を歩きながら、月音は電話に出る。

「っていうかさあ、聞いてよー」

開口一番そう言った瑠美に、月音はすがりつきたくなる。高校時代、瑠美が風邪で休んだ翌日と同じように。

「聞いてよ」。月音だって、そう言いたかった。私にだって、聞いて欲しいことがある。たくさんある。昨日、怖いことがあった。人を信じられなくなるような出来事があった。しかし月音の言葉は、形ができあがる前に瑠美の声にかき消されてしまう。

「昨日、日曜だったじゃん。旦那がね、フットサルに行ったんだけど、そこに、ホムセンのバイトの女の子たちも呼んでたんだって! 信じられる? バイトの子達って、若い女子大生とかもいるんだよ? フットサルして、そのあとバーベキューもしたんだって! オフの交流も必要とか言ってるけど、単に自分が若い女の子と遊びたいだけでしょ! ふざけんなって感じ!」

それがどうしたの。そんなの全然、怖くないじゃん。私に向かって毎日「死ね!」って言うかもしれない人と、結婚してしまうかもしれないのに。

女子大生とフットサルして喜ぶ人と、サボテンに毎日「死ね!」って言う人のどっちが怖いかなんか、明らかに後者じゃん。

それでも月音の口から出てくる言葉はいつもと同じだった。
「そうなんだ」「そうなんだ」「そうなんだ」。

言いたいことがあるのに、言えない。ただ月音の耳の中に、通過する電車のように、「フットサル」だの「バーベキュー」だの「バイトの女の子」だのといったワードが、だらだらと流れ落ちていく。

「あのさ」

自分の声を久しぶりに聞いた気がして、月音は驚いた。突然、ぽっかりと穴が空いたのが見えた。機関銃のように連射される瑠美の言葉と言葉の間に空いた、一瞬の隙に、月音は声を出した。電話の向こうが、静まり返る。

「あのさ、相談したいことがあって」
「どうしたの」

月音の言葉に、驚くほど素直に、瑠美は答えた。自分でも信じられないまま、月音は声を出す。

「サボテンって」
「え?」

「植物って、嫌な言葉をかけ続けられたら、枯れることってあるかな」

しん、と電話の向こうが静まり返った。数秒後、空気を割るような甲高い笑い声が響き渡る。受話器をビリビリと震わせながら、瑠美は笑っている。

「やだー。急に深刻な声出すから何かと思ったら。サボテンの話? びっくりしたあ」

笑いすぎたのか、ひっひっと苦しそうに息をしながら、瑠美は言う。月音は顔が熱くなる。

やはり自分はダメだと思う。母親の言う通り、人とまともに会話なんかできないんだと思う。突然サボテンの話をしだす友達なんて、やっぱりおかしい。

「ごめん。なんでもない」
「いいよいいよ。なんでもなくないよ。大事なことだよね」

月音は息を呑む。なんでもなくない。大事なこと。自分の話をそんなふうに言ってもらったことなんて、これまでにあっただろうか。

「うち、旦那がホムセンだから。そういうの詳しいよ。聞いておくね」

そう言う瑠美の声は、想像していたよりずっと優しく、月音を包み込むように受話器の向こうから柔らかく響いた。

瑠美からの電話を切った途端だった。まるでタイミングを計っていたように、もしくは、瑠美と電話している間もずっとかけ続けていたかのように、母親からの電話が鳴った。

いつもならば、取らなかったかもしれない。だけど、今日は違っていた。もしかしたら、という気持ちがあった。さっき、瑠美にしたように。言葉の間の、ほんの小さな隙間を見つけて「あのね」と言ったら。母親は、聞いてくれるだろうか。娘からの相談を、「大変だったね」と、受け入れてくれるだろうか。

「ドレス、決まったの?」

電話に出るなり、母親が言った。

「うん。昨日、決めてきた」
「どんなのにしたの? まさか、純白のドレスなんて言わないでしょうねえ」

月音が口を開こうとする前に、母親が畳み掛けてくる。

「全く、いいご身分よねえ。30にもなって、純白のドレスなんてみっともない。私の時なんかはねえ、姑がうるさくて。わざと意地悪して、純白のドレスなんか着せてくれなかったんだよ。まだ25歳だったのに。お下がりの、おばさんくさいドレス着させられて。お父さんのはとこが着た、ボロくて汚い黄ばんで穴の空いたドレス。あれ、まだ物置にあったと思うのよね。ドレスのレンタルなんて、何十万もかかるんでしょう。もったいないから、あれを着たらいいんじゃない。子供なんかできたら、ますますお金かかるんだから。節約できるところは節約しないと。あんたは肌が地黒だから、あのくらい黄ばんでた方が」

「ねえお母さん」

まだ話を続けようとする母親を遮って、月音は言った。

「聞いて欲しいことがあるんだけど」
「はあ? なに」
「ちょっと怖いことがあって」
「何。いやあねえ。何なの」

おろおろと、電話の向こうで母親が動き回るのが気配でわかる。まるで自分のことのように、怯えている。

もしかして、この人、怖いんじゃないか。不意に月音は思う。この人、娘の身に起きたことを聞くのが、いつもずっと怖かったんじゃないか。

あれは、12歳の時。初めて、月音のパンツが血で汚れた。月音は、今日こそはと、すがりつくような気持ちで台所の母親の元へ走った。今日こそは、今日こそは、私の話を聞いてもらえるのではないか。だって、こんなに大変なことが起きたのだから。授業で習った女の子のとても大切な日が訪れたのだから、今日こそ、母親は月音の話を聞いてくれるのではないかと、祈るように「お母さん」と話しかけた。

だけど、母親は月音を見ようともせず、ただ顔を歪めて「お母さんはね、生理痛が酷くて。毎月、地獄のような苦しみを味わってきたのよ」と、傍に月音を立たせたまま、ひたすら自分の苦労話をし続けた。ナプキンの使い方も、腹痛への対処法も教えてくれず、ただ、「私は大変だった」と語り続けたのだ。

「仁さんにね、怒鳴られたの。直接じゃなくて」

まだ話の途中なのに、母親は待ってましたとばかりに受話器の向こうでがなり立てる。

「なあんだ。それくらいのこと。全然大したことじゃないわよ。当たり前のこと。結婚したらね、日常茶飯事よ。男っていうのはね、そういう生き物なの。いくら優しそうに見えたって、みんな根っこのところは同じなのよ。うちのお父さんだって、結婚するまではそりゃあもうヨン様のように優しかったんだから。それがね、女の苗字が変わった瞬間にね、豹変するのよ。自分の所有物になるんだから。どんなふうに扱ってもいい、モノみたいに思うのよ。だってそうじゃない。自分の働いたお金がなければ生きていけないんだもの。うちのお父さんなんか、半年もしないうちに私のこと蹴り飛ばしたわよ。夕食にスパゲッティを出したらね。馬鹿にすんじゃねえ! って。何度も蹴って、玄関まで追い込んで、「出ていけ!」ってわめいたのよ。出ていけなんて言われたって、実家は弟が継いじゃってるから戻れないし、私は泣きながら夕食を作り直したよ。そんなの一度や二度じゃない。子供が生まれたらもっとひどいわよ。女は仕事なんて絶対にできなくなるから、ますます男はつけ上がって、奴隷のように扱う。女の人生なんてね、所詮そんなものなのよ。だからこうやってせいぜい、愚痴を言って誤魔化して生きていくしかないのよね」

「私だって怖かったんだよ」

月音は言う。母親の長い話など、無視して、言う。

「今はお母さんの話じゃなくて、私の話をしてるんだよ。私が、怒鳴られて怖かったって話。どうしてお母さんの話に変えちゃうの」
「いやあねえ。そんなのよくある話だから、気にするなって言ってるのよ」

母親は馬鹿みたいに明るい声を出す。だけどその声の端々が、震えている気がする。やっぱりそうだ、と月音は確信する。

この人、怖いんだ。娘が傷ついたり、痛い思いをしたなんて話、聞きたくないんだ。

どうしてだろう。それだけ娘を、愛しているってことなのか。家までの暗い夜道を歩きながら、月音は汗でしめった受話器を耳に当て直す。

「そうじゃないよ。お母さんは自分の話したいことを話してるだけだよ。いつだってそうじゃん。昔からずっとそうじゃん。子供はこっちだよ。そっちは大人だよ? 普通、逆じゃない? どうして子供が大人の話を聞いてあげなきゃいけないの? 子供の話を聞いてあげるのが、お母さんの仕事じゃないの」
「何言ってるの。いつも聞いてあげてるじゃない。あんたの要領を得ない話」

要領を得ない、と言われて、月音はグッと空気を飲み込む。確かにそうかもしれない。言葉がうまく思い浮かばなくて、母親はイライラして、「それってこういうこと?」と話の続きを持っていってしまった。

大抵、月音の言いたいことと母親のまとめてしまった話は全く異なるのだが、うまく言葉にできずに、月音は頷くしかなかった。

「それは、お母さんが勝手に話をまとめちゃうから」
「何言ってるの。相変わらず、あんたの話はよくわからない。昔からそうなのよ。あんたは何を言っても、話が下手で、だから誰にも聞いてもらえないのよ。自分のせいなんじゃないの」

月音の顔が、怒りでかっと熱くなる。

「お母さんはね、話がうまいのよ。言葉がいくらでも出てくるの。自分には話術の才能があるんじゃないかと思うのよね。小説でも書こうかしら」

楽しげに母親が言う。その声からは震えが消えていて、月音は密かに安堵する。そしてすぐに、そんな自分が嫌になる。

自分は母親が傷ついた話ばかり聞かされて、その度に母親がかわいそうで胸を痛めてきたのに、母親はその役割は負おうとしない。娘の傷ついた話を、決して聞こうとしない。

やっぱり、おかしい。この人、怖いだけなんだ。娘が傷ついた話なんて、自分が傷ついた以上に怖くて、絶対に聞きたくないんだ。それは娘を愛しているからじゃない。単なる、自己愛だ。

「お母さんって、話の才能があるのかしらね。小説家にでもなろうかしら」

踊るような口調で繰り返し言う母親を、相手にするのも馬鹿馬鹿しくなって、月音は肩を落とす。
 
不意に、鴻巣駅のドトールで、身振り手振りを交えて心地良さそうに話していた瑠美を思い出す。そういえば瑠美も、「私って話がうまいのかな」「私の話って面白いのかな」「私って、芸能人とかに向いてるかもな」などと、高校3年の夏頃に言い出したのを思い出す。

もしかしてあれは、月音が原因だったのではないだろうか。不意に、月音の胸の中に小さなひらめきが、きらきら光りながら舞い降りる。

月音が瑠美の話を、「へえー!」「そうなんだ」「知らなかった」「すごいね」などと反応よく聞いていたから、瑠美は盛大な勘違いをして、20代の全てを夢を追うことに費やしたのではないか。

歌手になるとか、モデルになるとか、女優になるとか。そして最後には、玉砕して家賃を滞納してヤクザにドアを叩かれて鴻巣に逃げ帰ったのではないか。

月音は受話器を耳に当てたまま、空を見上げる。丸い月が、ぽっかりと穴のように空に浮かんでいる。月音はめいっぱい媚びた声を出す。

「そうだと思う。お母さん、お話の才能、絶対にあると思う。そのウエディングドレスのエピソードとか、数え切れないくらい何回も聞かされたけど、初めて聞いたみたいに、毎回面白いもん」
「でしょう。そうでしょう」

先程まで娘の告白に怯えていたことなどすっかり忘れて、母親は上機嫌に言う。

「お母さんの話、小説にしてみなよ。んでさ、出版社に送ってみたら。小説家になれるかもしれないよ。だって面白いもん、お母さんの話」
「やだあ。世の中、そんなに甘くないわよ」

母親は言いながらも、まんざらでもなさそうに声を上ずらせている。

「そうかなあ。お母さんみたいにぽんぽん話が出てくる人って、そういないと思うな。だって、私が子供の頃から、お母さんっ24時間、ずっと話し続けてたじゃん。止まることがなかったもん。言葉の雨、嵐だよ。それってもはや才能だよ。そんな人、滅多にいないと思うな」

「そうかしら。やっぱり、そうかしら。自分でもちょっとは思ってはいたのよね。お母さんってほら、語彙力が豊富だから」

電話の向こうで、母親が身をくねらせているのが想像できる。月音は初めて、受話器の前で笑った。

「小説、書いてみて。書けたら、私に最初に見せてよ」

月音は電話を切る。丸い月は雲に隠れ、小さな星が一つ、瞬いているだけの平べったい東京の空を見上げる。
出版社になど送るまでもない。そこまでたどり着くことさえ、あの人にはできない。

母親はきっと、古臭いワープロに向かって一行も書かないうちに、気がつくだろう。自分の話など、ちっとも珍しくも、面白くもないこと。これを30年間聞かされ続けた娘の気持ちを、ほんの少しでもいいから、想像してくれるだろうか。

アパートの駐車場に近づくと、自然に足取りが重くなっていく。どうか、今日はアクアの中にあの人影を、サボテンに向かって怒鳴る仁を見なくて済むようにと、月音は祈っている。

顔を上げてアパートの窓を見る。まだ電気はついていない。それにホッとした、次の瞬間だった。

「しねえ! しねえええええ!」

近所に響き渡る大きな声で、男が叫んでいるのが聞こえた。月音は慌てて車に駆け寄る。後部座席の窓が少し開いている。気づかずに、仁は運転席で上半身を揺らしながら、叫び続けている。

「しねえ! しねえ! しねえええええ!」

お母さんは、語彙力が豊富だから。不意に、数分前に聞いたその言葉が思い浮かぶ。そうかもしれない。母親は、実に豊かな、溢れかえるほどの言葉の数々で、怒りや悲しみや苛立ちを表現した。

だけど、仁は違う。仁には、これしかない。なんかよくわかんないけど、全部、死ね。自分の中に渦巻く苛立ちや怒りや嫉妬や憎しみや腹立ちや疲れを、とりあえず全部死ね、としか表現できない。

どっちがマシなんだ。24時間かけて娘にじゃぶじゃぶと汚い言葉を浴びせてくる人と、たった一言、「死ね!」とだけ叫ぶ人と、どっちがマシなんだろう。

どっちも嫌だ。

月音がはっきりそう思った瞬間だった。ドアを開けて、仁が出てくる。ほうっと大きく、満足そうに息を吐く。先程まで「死ねえ!」と怒鳴っていたとは思えない、優しい手つきで車のドアを閉め、アパートに向かって歩いていく。その足取りは軽く、今にもスキップしそうだった。アパートの廊下の電気に照らされて、背中がオレンジ色に輝いていた。

仁が施錠していないことに気づいて、月音は助手席のドアを開けた。ダッシュボードには、手のひらサイズだったはずなのに、消しゴムくらいに縮こまって、ほとんど倒れているサボテンがいた。月音は鉢ごとそれを手に取る。

持ち上げた瞬間だった。ぐにゃんと、サボテンは倒れた。根っこから腐り、土から外れてしまった。月音の手に寄りかかるように落ちてきた、その柔らかいぐねぐねした感触に、悲鳴をあげそうになる。

植物じゃなくて、ひんやりとした体温の、動物みたいだった。月音の手の中で、音を立ててそれはぐずぐずと崩れ落ちていく。小さな棘は抜け落ち、月音の手のひらにべったりと張り付く。

やっぱり、あの人、おかしい。

例え相手が植物でも、生き物をこんなふうにして喜んでいる人は、普段は優しくても、やっぱりおかしい。手のひらで冷たく崩れたサボテンを見つめながら、月音は思う。

突き上げるように、ここにいちゃだめだ、と強く思う。

月音は車のドアを閉める。サボテンを手に抱えたまま、アパートに背を向けた。


 
「ま、喧嘩することもあるよねー」

パスタを茹でるもうもうとした湯気に包まれながら、瑠美は陽気に言った。

まさか自分が友達の家に身を寄せることになるなんて、想像したことなんかなかった。だけど、一人暮らしのアパートはとうに解約してしまっていたし、母親のいる実家にも帰る気はない。

駐車場を飛び出した月音は、気づいたら上板橋駅に走って戻り、池袋から湘南新宿ラインに乗り、鴻巣へ向かっていた。

「っていうかさあ、聞いてよー」

どん、と茹で上がったパスタが乗った皿を月音の目の前に置き、瑠美は話し始める。

「仁と喧嘩して、行くところがない」とやってきた月音の話さえも聞き出そうとせずに、瑠美は話を始める。

もはや月音は呆れを通り越して感心している。こんなにも他人に心を開き、四六時中聞いてよ聞いてよと甘えられる瑠美を、尊敬さえし始めている。

月音は茹でたてのパスタに、カルボナーラ味のパスタソースをかける。

「ひどいんだよ、幹也がさあ」と瑠美は話し始めるが、月音は密かに思う。こんなふうにパスタの夕食を出したって、幹也は瑠美を蹴ったりしないだろう。蹴って、玄関まで追い込んで、「出ていけ」なんて行ったりしないだろう。

だから瑠美は、呑気に愚痴なんか言っていられるんだ。それだけ安心できる場所に、瑠美はいるってことなんだ。誰にも、蹴られたり、死ねって言われたりしないような場所。

パスタに向かって唾を飛ばしながら愚痴を言う瑠美を、月音は微笑みさえしながら見る。

「って、ごめん。また私の話しちゃった」

パスタにたらこのソースをあえながら、不意に瑠美が顔を上げた。真っ直ぐ、月音の方を見る。

「今日はどうしたの?」

急に言われて、月音は口の中のパスタを慌てて咀嚼する。

「いや、あの」

どこから話していいのかわからない。手のひらに持っていたサボテンは、電車の中で、大事にバックの中にしまっていた。まだ、手のひらに残った棘が、フォークの下でチクチクと存在を主張している。

「なんかさあ」

どう話して良いかわからずに月音が黙っていると、瑠美が言った。

「月音って全然自分の話してくれないよね。高校の時からじゃん」

言われて、月音は思わず顔を上げる。「それはあんたが」。そう言いたいが、口に出して良いのかわからず、頭の中だけで言葉が組み立てられていく。

それはあんたがずっと喋ってるからじゃん。私に話す隙なんて、一秒も与えてくれなかったじゃん。今日だって、座るなり自分の話ばっかりじゃん。

「いつも距離を感じてたんだよねー。だから今日、私のこと頼って鴻巣まで来てくれて嬉しかったのに。何も話してくれないんだね」

瑠美はたらこのピンク色の粒がついたパスタをフォークにくるくると絡めながら、言う。

そうじゃない、と月音は頭の中で言う。話したいことなんか、たくさんあった。高校生の時から。でも、私の話なんかかき消され続けてきたから、30年間そうされてきたから、話し方が、わからないんだよ。

「サボテンが」
「え?」

やっと口から出てきた言葉が、それだった。

「枯れちゃって。相談したくて」

手の中に、チクチクとした細かい棘の存在を感じながら、月音は言う。瑠美は大きな目を丸くして、月音を見ている。

「サボテンが、枯れたの。根っこから腐って、取れちゃったの」

私みたいに。頭の中で、そう付け加える。ずっとずっと、ネガティブな言葉をかけられ続けて、最後にはとうとう根っこから腐って、落ちちゃったの。

「腐っちゃった根っこなんて、崩れちゃったサボテンなんか、もう元には戻らないよね」

月音がそこまで言った時だった。玄関のドアがガチャっと音を立てて開く。月音は驚いて、肩をすくめる。

毎週末、妻を置いてきぼりにして若い女の子とフットサルをしてパチンコや釣りに行き毎晩徹夜してゲームをして食器も片付けず暴言を吐く、ヤクザのような夫が帰ってくるものだとばかり思っていた。

しかしそこに立っていたのは、痩せて貧相な体つきをした、眼鏡をかけた気弱そうな男だった。

月音を見ても驚いた様子はなく、「いらっしゃい」と軽く頭を下げる。ホームセンターの名前が胸に書いてある作業着を着ている。

「あ、ねえ。サボテンのこと」

幹也が荷物を下ろす前に、瑠美は言った。

「前に話してたじゃん。サボテンのこと。わざわざ相談しにきたんだって」
「ああ」

幹也は思い出したように、うなずいている。かつて月音が電話で相談したサボテンのことを、二人で話してくれていたのだと思うと、不思議な気持ちになる。

誰も、自分の話なんか聞いていないと思っていた。みんな、自分の話に夢中で、月音の話なんか、聞いているふりで最後は自分の話に持っていくつもりなんだろうと思っていた。

「持ってきたんです、サボテン」
「え? わざわざ?」

月音の言葉に、幹也は眼鏡の下の小さな目を丸くする。驚いた時の反応は、瑠美とそっくりだった。

月音は鞄の中に大事に入れておいたサボテンを取り出し、もう土だけになった小さな鉢と並べてテーブルの上に置く。

「こんなになっちゃってるんですけど。大丈夫でしょうか」
「あらあら。水のやりすぎかな?」

根っこから抜け、ぐったりとしたサボテンを見て、幹也はまるで親切な医者のようにくだけた口調で言う。

「そうじゃないんですけど」

まさか、毎日「死ね」と言われたとも言えずに、月音はつばを飲み込む。幹也は眼鏡を中指で上げながら、

「こりゃあ、切るしかないね」

と言った。

「切る?」

驚いている月音を尻目に、幹也は鼻歌でも歌い出しそうな軽い足取りで、キッチンへ向かう。パチンコ狂いでゲーム三昧で瑠美を奴隷扱いする恐ろしい男になんか、到底見えなかった。

キッチンから包丁とまな板を持って戻ってきた幹也を見て、

「ちょっとなにー、怖い」

と瑠美がふざける。幹也は根っこから倒れてしまったサボテンをまな板の上に置くと、すとんと、胴体から真っ二つに切ってしまった。

「わあ! 何するの」

まるで月音の気持ちを代弁するように、瑠美が叫んだ。月音は叫ぶ間もなく、ただ唖然として目の前の光景を見つめている。

「サボテンの胴切りって言ってね。こうやって半分に切って、上半分を植え直すの。そうすると、またそこから新しい根っこが生えてくるんだよ」
「根っこが、新しくなるんですか?」
「そう。面白いでしょう」

そう言って作業着のまま笑う幹也は、毎週フットサルに行って若い女の子を狙っている野獣になどは全く見えなかった。

幹也は小さな鉢から古い土を取り出すと、ベランダに持って行った。ベランダで家庭菜園をしているのか、プランターや大きな袋に入った土が置いてあるのが見える。

「根っこって、もう変えられないと思ってた」

ベランダで背中を丸めて、新しい土を入れ直してくれている幹也を見ながら、月音の口から、自然と言葉が出てくる。

「ああやって新しい土に植えなおしたら、新しい根っこがまた出てくるんだね」

瑠美はもう興味を失ったのか、スマートフォンをいじりながらパスタの残りをすくっている。しかし月音はパスタを食べることも忘れて、一人感動している。

新しい根っこが、あの可愛らしい小さなサボテンの胴体から伸び、土にめいっぱい両手を広げて、前よりも強い根っこを張っていく様子を想像する。

誰かにしがみつかれていた重たい下半身など切り取って、捨ててしまえばいい。新しい土を探して、自分でそこに根っこを張ればいい。

「ほら、できた」

幹也が植え直してくれた上半身だけになったサボテンを受け取りながら、月音は決意している。

幹也が開けたベランダから、冷たい外の空気が入り込んでくる。空気は新鮮で、とても美味しい。

「ねえ、寒い、早くベランダ閉めて」

スマートフォンを見たまま、瑠美は言う。手についた土を払っている幹也に、月音は尋ねる。

「植物に、ひどい言葉をかけ続けたら枯れることって、本当にあると思いますか?」

幹也は顔を上げる。眼鏡の下の小さな目は、好奇心に満ちた子供のように輝いている。

「結構、実験で実証されているらしいよ。実際は、吐きかけられた二酸化炭素とか唾液の量に関係してるみたいだけど。優しく言葉をかけてあげた方が、よく育つんだよね」

「えー、それで枯れちゃったの? 月音、サボテンくんにひどいこと言ったの?」

瑠美が笑って言う。月音は曖昧に微笑むだけで、答えることはできない。自分が駐車場で見たあの恐ろしい光景を、誰かににうまく説明できる気がしなかった。

「じゃあさ、これからは優しい言葉をかけてあげよう」

瑠美はそう言うと、スマートフォンを床に置き、テーブルの上のサボテンに向かって言った。

「ありがとう。可愛いよ。大好きだよ」

瑠美の口からあっさりと吐き出されたその言葉に、月音は息を呑む。今までの人生で一度も聞いたことがない、だけど誰かにずっと言って欲しかった言葉。全身にざあっと鳥肌が立つ。そんな言葉、望んでいることさえ知らなかった。たった今、瑠美が口にするまで。

「ほら、月音も言ってあげなよ。サボテンくんに」

瑠美に言われて、月音はおずおずとテーブルの上のサボテンに対峙する。

胴を半分に切られてさらに小さくなったサボテンが、それでも、新しい土に植えられて瑠美から温かい言葉をかけられて、すでに希望に向かって顔を上げ始めている気がする。

「ありがとう」

月音は驚く。自分の声が、かつて聞いたことのないほど優しく、包み込むように耳に届いた。

「可愛いよ。大好きだよ」

自分の声に、胸がしめつけられる。月音は初めて気がついた。

自分の言った言葉は、一番先に自分の耳に入るのだと。

誰かに言葉をかけられるのを待つ必要なんかない。言って欲しい言葉があるのなら、自分で自分に言ってあげればいいのだと、思う。勝手に目の奥が熱くなる。

「え。やだ。なんか泣いてない?」

瑠美のからかいの声さえも聞こえなくなるくらい、月音の耳は、さっき自分で発した言葉で、温かい熱を持っている。ありがとう。可愛いよ。大好きだよ。

言えばいいんだ。あの人に言ってもらうのを待つんじゃなくて、あの人に期待なんかするんじゃなくて、私が言ってあげればいいんだ。今、この子に言ったように。

月音は目の前で、まるで羽を伸ばすように白い棘を再び輝かせ始めているサボテンを見ながら、思う。

「そう言えば、もうすぐ結婚式ですよね。僕ら夫婦も招待してくれてるんですよね。楽しみにしてます」

泥のついた手をキッチンで洗いながら、幹也は陽気に言う。しゃっきりと胴体を起こし始めたサボテンを見ながら、月音は言う。

「ああ、それ。なんか、やめることになりそうです」
「えっ」

瑠美がスマートフォンを床に放り投げる。

「えー! なんでー! 詳しく話、聞かせてよ!」

かつて見たことがないくらいに大きく目を見開いて、瑠美は月音に飛びついてくる。

「俺も気になる! 聞きたい!」

まだ濡れた手をろくに拭きもしないで、幹也も月音の元に駆けてくる。

こんなにも、はっきりと誰かにそう言われたのは初めてかもしれない。ベランダから吹き込む新鮮な冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んでから、月音は口を開いた。
 
(了)
 
2023年2月10日・91枚


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