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余韻

 夜の食堂は節電のためか部分的に照明が消されていて、広い吹き抜けの室内に学生はまばらだった。お気に入りのカウンター席は窓に面していて、まだほとんどの窓に灯りがついている研究部棟が見えた。
「サークルのミーティングが長引いちゃって。遅くなってごめん。」
陽彦はスタミナ丼を乗せた薄ピンクのトレイを一度カウンターに置くと、背負っていた黒いリュックをもう一つ隣の椅子に置いて、私の隣に座った。
「私の研究室フレックスタイム制だから、いつ帰っても大丈夫だし、ここで考え事するの好きだから、全然大丈夫。」
私は笑ってそう言うと、コーヒーを一口飲んで、ノートパソコンを閉じた。
「ちーちゃんはほんとに勉強好きだね。」
陽彦はスタミナ丼をすごい勢いでかき込みながら言った。
「そんなことないよ。陽彦くんだって、サークルにバイトに趣味にって、いつも忙しそうに頑張ってるじゃん。」
私が苦笑いして言うと、
「ずっと思ってたんだけど、その陽彦くんって呼び方、めっちゃ違和感ある。そんな風に呼ばれたことないし。」
陽彦は笑いながら言った。
「でも、せっかく付き合えたのに、今まで通り今村くんとかよそよそしくて嫌だな。何て呼ばれたいとか希望あるの?」
私が少し口をとがらせて聞くと、
「そうだなー。絵里は、はるくんって呼んでたよ。」
陽彦は窓の外の研究部棟を見上げながら一ヶ月前に別れた元カノの名前を出した。
「なら私は敢えて下を取ってひーくんって呼ぶ。」
私は気にしていない風を装って言った。
「えー、名前のそこ取られたの初めてなんだけど。」
陽彦は私を見て笑いながら言った。
「嫌なら違うのにするけど?」
私が言うと、
「いや、いいよ。ちーちゃんだけ、なんか特別感あっていい。」
陽彦は笑いながらそう言って、私の頭にぽんと優しく手を乗せた。
「うん、いいね。特別感。」
私はその手の重さを噛み締めながら頷いた。

 それから二週間も経たないうちに陽彦から電話で別れを告げられた。そんな気はしていた。
「俺とちーちゃん、なんとなく合わないような気がしてて・・・。」
スマホのスピーカー越しに聞く陽彦の声はくぐもって歯切れ悪く聞こえた。
「やっぱり私じゃダメだったよね・・・。」
陽彦と過ごした短い時間を思った。野外ライブに行くのが好きで、飲み会では中心で盛り上げるタイプで、友達が多い陽彦に憧れていた。どれも、勉強ばかりしてきた私は持っていないものばかりだった。
「何ていうか、・・・うまく言えないんだけど、・・・本当、ごめん。」
「・・・絵里さんだっけ?ずっと忘れられないんだよね?」
私が聞くと、
「・・・・・・そう・・・、なのかな。・・・うん、・・・そうかも。」
陽彦は小さな声で呟くように言った。陽彦に似合うのは同じようなコミュニティに属する絵里さんみたいなタイプで、私はそうじゃないとを感じさせられた二週間だった。
「いいよ・・・。私こそごめんね。短い間だったけどありがと。」
淡白な返事をして電話を切った。涙は出なかった。代わりに小さな声で呟いた。
「ひーくん・・・。」
それはもう二度と呼ぶ事の無い、私だけの特別な名前だった。

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