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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

剣客商売第14巻 暗殺者

●この記事は、物語中の場所の地図を作るものです●

「先生、いかがです、五十両でございますよ」
 小柄な老人と『先生』とよばれた大男が、目黒不動・門前〔山の井〕という料理屋の離れ座敷で密談をしていた。大男の左の小鼻に黒子。質素な身なりではあるが少しも垢じみたところがない。
「金で釣ろうとは、元締めらしくもない」

 14巻は、全体で一つの物語である。・・・長い記事になりそう。
 <可愛い娘のために男は裏世界から抜けようとしていた>

 今まで作ったものは「目次」記事でチェックいただけると嬉しいです。
 切絵図はお借りしています。出典:国会図書館デジタルコレクション
 ではでは。机上ツアーにお付き合いいただけますよう。


地図(画像)

地図1 謎の冒頭、料理屋〔山の井〕

 のちの資料を含む。➀目黒不動 門前の山の井③亀田屋
 
亀田屋の亭主・萱野亀右衛門は香具師の元締(目黒・渋谷・麻布)
 ③妻の店(白金11丁目) ②妻の妹の店 ④隠居所

②山の井で会った周蔵と亀右衛門が、③亀田屋へ向う途中浪人に襲われるエピソードあり。
そのときのルートは、㉖安様院裏から目黒川、土橋で襲われ(撃退)、裏道を亀田屋へ。

 波川周蔵は、わが子のために、殺し屋家業から足抜けしようとしていた。
 注意深く自分の足跡を消し、出自も捨てるつもりだ(主家を抜けた過去あり・呼び戻されたときは殺し屋となっていて、帰れなかった)。
54)亀右衛門は、香具師の元締。本宅は、②料理屋〔亀田屋〕をやっている。この物語のはじめの老人が亀右衛門である。
 結局。波川は、物語のはじめの殺しを引き受け(義理返し?)、妻子を逃がしてもらうことにした。波川の妻子の保護について亀右衛門は『見返りはいらない』と話したにもかかわらず。亀右衛門は波川の人柄が『すきなのですよ』と述懐する。
 悪者がよいことをし、善人であるべき殿様が悪いこと(殿様にとっては正義だし)をする、池波ワールド・・・

地図2 小兵衛、正元宅から隠宅へ戻る

赤ルート1:正元宅 から 七面堂(黒子の男を見る)
※赤×印:七面倒で、浪人の斬り合いを目撃。
赤ルート2:七面堂 から(大治郎宅 経由 隠宅)←鬼子母神へ参詣も。
 ※襲った二人浪人は、⑥高田の馬場の方へ逃げ、
 ※黒子の浪人は、窪地の方へ去った(引越を決意)。

地図3 波川周蔵の住まい(静と結婚後)

1.⑭本所三ツ目 静の父母の家の隣に住む。親を亡くした(5年前)静と夫婦に(地図では⑰の下に⑭がある)。
2.⑮浅草・新鳥越 静と結婚してすぐ、引っ越してきた。永久寺の裏手、菜園と木立に囲まれた三間ほどの家。八重が生まれた。稲垣忠兵衛と知り合い、秋山小兵衛に興味をもって真崎稲荷へ散歩
 ・・八重のために黒歴史を消すべく西部へ引っ越すことにしたらしい。
3.26)⑯高田の馬場の南面にある小さな農家が無人になっていたのを借り受けたもの。浅草からこの家へ引き移ったのは二カ月ほど前。竹藪の中の曲がりくねった細道を何処までも行くと、⑤穴八幡の社の裏手へ出る。⑤八幡社の境内をぬければ馬場下町の町家に出た。
4.57)に、『周蔵は、⑯高田の家を引き払い、この別宅に仮寓しているとみてよい』とある。この別宅とは、④碑文谷の亀右衛門・隠宅に相当。

地図4 仙台坂付近

 伊達屋敷の前の道を「仙台坂」という。二之橋から西へあがって行く。
 道向こうは⑫「善福寺」その向うに⑬暗闇坂
<物語>
 伊達屋敷(松平陸奥守・下屋敷)の長屋に、剣友・稲垣忠兵衛が住む。
 剣友・牛堀九万之助(元鳥越町・奥山念流道場主)の知らせ。見舞いに行くや、波川周蔵が通用口から出て来た(稲垣と波川の交流判明)。
 波川は狐面の町人に尾行されていた<これが小兵衛の見舞い1回目>

伊達屋敷の前に道を「仙台坂」

 その後、波川は何度か稲垣忠兵衛を見舞いに来て、そのどこかで、狐面の町人が尾行成功。
 <見舞い2回目>数日後、弥七と一緒に出て、弥七は小兵衛に尾行があるかどうか、確認した。尾行はなかった。 
 <見舞い3回目>1月18日(134p)。小兵衛は、大治郎暗殺情報の調べが進まないので、弥七と仙台坂へ。善福寺にいる波川を発見。弥七が尾行して、萱野の隠宅に辿り着く。稲垣は、頻繁な見舞いに恐縮するも喜ぶ。
(不穏な気配を感じたか、波川は萱野亀右衛門に妻子を隠してくれと頼む)
 <見舞い4回目>2月3日。伊達屋敷を出たところ(坂上)で、坂をのぼって来る周蔵と出会う。二人は穏やかに会話し別れた。稲垣床上げ(こうした描写にぐっとくる!)

地図5(3枚1セット) 谷中・蛍沢

 小田切と平山が不二楼に来た。小兵衛が稲垣を2回目に見舞った日の翌々日(1/6)の午後。小田切は舟で去り、平山は徒歩で帰った(傘徳尾行)。
 小兵衛、不二楼へ。3時間後、傘徳も戻って来た。
『97)平山は「谷中の蛍沢のあたりの、㉒瑞雲寺という寺へ」入った。
(赤ルート)100)②隠宅を出た小兵衛は、徒歩で十八間の⑰吾妻橋をわたり、浅草の広小路から上野山下へ向って歩む。
 小兵衛は、いま、谷中の蛍沢へ向いつつある。
101)秋山小兵衛が⑯不忍池のほとりをまわって、谷中へでたとき、すでに朝の日は昇っていた』赤ルート上の〇

地図5-1 赤〇:小兵衛が天王寺あたりを眺めた地点。

地図5-2<赤ルート〇の地点の描写>
『㉑蛍沢のあたりから、東面を仰ぐと、谷中・日暮里の台地を⑲天王寺をはじめ多くの寺院の屋根が埋めつくしている。
102)だが、西の方は百姓家と雑木林がひろがっており、その彼方に、駒込へ抜ける⑳団子坂が垣間見えた。
 谷中からの道が⑳団子坂へかかる右側に、板倉摂津守(ポリゴン:p)の宏大な下屋敷がある。
 ㉒瑞雲寺は、その(p)板倉屋敷の裏手(北側)の木立の中に在った』

地図5-2

地図5-3 切絵図による赤〇地点からの位置。妙蓮寺と法住寺から団子坂に向かう道に出たところか。この川を蛍沢としていると思う(上の地図とはちがっているような・・・)。

地図5-3 切絵図:根岸谷中辺。

<その後。小兵衛は瑞雲寺に辿り着きます>
 小兵衛は、周辺を歩き、山門をながめていて、松崎浪人に、㉒瑞雲寺に引っ張り込まれる。(ここで、「風花の朝」は終了)
 次の話「頭巾の武士」107頁、松崎だけでなく、平山も住んでいると判明。・・・一味の内容がだんだんわかってくる。

地図6 碑文谷ー奥沢村

 「頭巾の武士」冒頭、「㉔碑文谷の法華寺・門前茶店の老爺」が周蔵宛ての手紙を持ってくる(小田切)。周蔵は、その指示に従い、㉕九品山・浄真寺へ。小田切の案内で、㉖浄真寺総門から南へ1kmの㉗奥沢村の隠れ家(茅葺屋根の、別宅風の屋敷)へ行く。

 松平伊勢守が待っていて、脅迫するようなことを口にしつつ、
「秋山大治郎を斬ってほしい」
 伊勢守は、正義に燃えている・・・

地図7(1)(2)(3)(3枚) 忍び返しの高い塀

 小田切は駕籠に乗り帰宅(弥七と徳次郎二人で尾行)。駕籠は大川沿いの道を浅草寺の方へ。深川の洲崎弁天・門前で駕籠を返す。
 洲崎弁天・門前から橋をわたって木場。その木場を左に見て堀川沿いの道を北へ・・・そこは平井新田とよばれている。
 小田切は、堀川沿いの一本道を、どこまでも行く。しばらく行くと、別の堀川が横たわってい、小さな橋が架けられた向うに、敷地が六万坪と言われる細川越中守・下屋敷の木立が見える。
 小田切は、橋をわたることなく、川沿いの道を右へ折れた。傘徳は小田切を見失うが、先行する弥七が見ていた。入ったのは、曲がり角にある屋敷

(1)尾行成功した日の小田切のルート

7-(2) 小田切が駕籠を降りてからのルート

7-(3) 『忍び返しの高い塀』屋敷の舟で不二楼へ行くルート。
  伊勢守は本邸へ帰って行ったと思われるが・・・

(3)舟で来る場合の想定ルート

平井新田:寛政5年(1793)の「分限江戸大絵図」という資料在り。
著作権を心配して掲載していません。

地図8(1)(2) 調査・・・(「墓参の日」より)

(1)深川・入舟町 御用聞き新蔵・・・忍び返しの高い塀の屋敷が松平伊勢守の屋敷と知っており、御目付をやめさせられたことも知らせてくれた。

地図8(1)

(2)⑯書物問屋〔和泉屋〕・・・武鑑を調べる
 ㊲湯島天神下・四百俵の旗本・滝口彦右衛門。当年56歳、隠居の身/数年前までは〔奥御祐筆〕・・・「伊勢守は、田沼意次がやめさせた」

地図8(2)

地図9 2月20まで

<松平伊勢守の手の者>
 2月18日:周蔵は夜8時、奥沢村の別宅・泊。小田切が待っていた。
 2月18日:緑町の〔加納屋〕泊
 2月20日早朝、長泉寺へ
 同 蛍沢・瑞雲寺から笠原・松崎浪人、他8名(どこから来たかの記述無し。もしや、忍び返しの高い塀の屋敷から?加納屋の別部屋?)

地図9

地図10 田沼意次の行程

(赤ルート)前日に、江戸城から下がってきた田沼意次は、行列(駕籠)を仕立て、神田御門内の本邸に寄らず、浜町・中屋敷へ。中屋敷につくや、行列は本邸へ帰宅。
 前日、大治郎は、本邸・道場(稽古日)。行列とは違うルートで浜町・中屋敷へ(泊)。
 2月20日 田沼意次は、町駕籠を仕立て長泉寺へ。供は白井与平次と秋山大治郎の二名のみ

地図10

地図11 後日談のうち、弓師・加藤の家。

 襲撃失敗。松平伊勢守は、切腹(深川の忍び返しの高い塀の屋敷にて)
 波川周蔵は、江戸を去る。
 後日。弓師・加藤八兵衛を訪ねた波川周蔵は、母の行方を尋ねる。
 加藤はこっそり連れ出してくれていた。周蔵は今の住まいへ連れ帰る。

地図11

 正義の人、伊勢守はどうして、暗殺の黒幕になったのか?
 どうして子が亡くなったときに、世継ぎの手配をしなかったのか?
 たか子夫人が亡くなったときに、周蔵を呼び返したタイミングのなぜ。
 私は、おたか(周蔵の母)と<将来>結婚するつもりだったのではないかと思う。当時、わが子は健在で、大事にしていた。周蔵を我が子の後ろ盾(用人・・周蔵の父の跡目を継がせて)にしようと思っていた。
 ただ・・・わが子が亡くなってしまったときには、周蔵を養子にしようと思っていたかもしれないと思った。それは無理な事なのだと思うのだが。
 忍び返しの高い塀の屋敷に象徴される伊勢守の内面。
 伊勢守もまた〔奇怪な暗殺者〕とは別の・・・愛に悩み苦しむ悲しい姿が見え隠れする。
 周蔵が裏切ったとき、それでよかったと思って、潔く切腹したに違いない。
 ただ・・・一族・家来の将来をおもうと暗澹たる気分になる。

地図データ

 上の地図のデータです、地名等について、本文の書き抜きをしています。また、江戸時代の地図で場所の特定など・・。
 なお、本文抜書の『51)』等は、文庫本のページ数です。
<地図上の数字について・・・>
 〇数字(➀とか②とか)は、今回の物語の場所、の〇の中に数字が入っています。
 「●」印は剣客商売で頻繁に出る場所で、地図上では、エンジ色の円の中に数字が入っています。

7)浪人・波川周蔵

地図1データ。  目黒不動周辺1

8)小柄な老人と『先生』と呼ばれた大男(左の小鼻に黒子)が、②目黒不動・門前〔山の井〕という料理屋の離れ座敷。記事冒頭の会話が行われ大男は仕事を引き受けることなく去る。

地図2データ・正元宅→隠宅

10)その日の朝。
 秋山小兵衛は、牛込の早稲田にある●横山正元の家を出て、隠宅への帰路に着いた。
11)「⑨雑司が谷の鬼子母神さまに詣ってみようと思う」
 こう言って、正元夫婦に別れを告げた。
 ⑤穴八幡から⑥高田の馬場の方(かた)へ向って歩む。
12)小兵衛は、⑥高田の馬場の西側の坂道を北へ向って下って行く。
 坂を下り切れば⑧姿見の橋(すがたみ/現名称:面影橋)で、それからさらに坂道を北へのぼれば⑨雑司が谷だ。
 坂道の小さな寺を見やって
(⑦七面堂であったな、ついでのことに詣って行こうか)
13)小兵衛が木造の門を潜ろうとしたとき微かに男の叫び声を聞く。
 ・午前10時ごろ・刀を抜いての立ち回り
14)素手の浪人(左の小鼻に黒子)と二人の相手。
15)二人の浪人は窪地から抜け出し、⑥高田の馬場へつづく木立の中へ逃げ去った。
16)小兵衛は黒子の浪人に見覚えがあった。今年の春ごろと夏になってから、●真崎稲荷社の門前で見ている。小兵衛は小太郎を抱き、浪人は四、五歳の童女連れで、言葉を交わした。
18)この日、●大治郎宅へ立ち寄ってこころあたりを尋ねたが、二人とも知らなかった。

地図3データ・黒子浪人・波川周蔵

・・・黒子の浪人の家
20)「静、また何処ぞへ引き移らねばならなくなった」
 ⑥高田の馬場に近い窪地で二人の浪人を追い払った、あの浪人である。
 名は、波川周蔵。年齢は36歳。妻・静は30歳で、ひとりむすめの八重が4歳であった。

21)波川周蔵は、⑭本所三ツ目、静の家のとなりに住んでいた。家は表通りの蝋燭問屋〔加嶋屋金五郎〕のもの。

本所三ツ目とは、林町5丁目あたりとのこと。図では左側「同」が「林」

25)波川周蔵は、静と夫婦になって間もなく、⑭本所三ツ目の家から、⑮浅草・新鳥越へ引き移った。
 ⑮永久寺の裏手、菜園と木立に囲まれた三間ほどの家。八重が生まれ、●真崎稲荷へ散歩。

 浅草から⑯この家(高田の馬場)へ引き移ったのは二カ月ほど前。
26)⑯高田の馬場の南面にある小さな農家が無人になっていたのを借り受けたもの。
 竹藪の中の曲がりくねった細道を何処までも行くと、⑤穴八幡の社の裏手へ出る。⑤八幡社の境内をぬければ馬場下町の町家に出た。

<小兵衛、波川周蔵の名を知る>
27)その日の午後遅く、●秋山小兵衛はおはるの舟に乗り、●船宿〔鯉屋〕へ舟を着けた。
 この日は●〔不二楼〕の主人、与兵衛から招きを受けていた。
29)●鯉屋で黒子の浪人のことを尋ねると、
「⑮新鳥越の永久寺さんの裏にお住まいでした。波川周蔵さまとおっしゃいます」
32)●不二楼の離れに落ち着いた小兵衛だったが廊下を行く二人づれの侍、その一人が先日、波川周蔵と斬り合い、逃げた浪人の一人であった。
33)二人連れの侍は、隠し部屋のある蘭の間へ入った。
34)小兵衛は隠し部屋へ入らせてもらった。
35)侍の客は小田切様。麹町六丁目に住む〔煙管師・宮田政四郎〕の紹介
36)小田切は浪人に尋ねる。
「波川周蔵は、さほどの手練者か?」
「まさに」
 以前襲ったのは、波川の手並みを見るためであった。
38)この日、このとき、波川夫妻は、すでに⑯高田の百姓家から何処かへ引き移ってしまっている。


39)蘭の間・隠し部屋

40)謎の場所での密談シーン。・・・場所不明。

42)小兵衛がおはるへ
「昨日、●牛堀が、⑪稲垣忠兵衛が重い病と申していたゆえ、見舞いに行くつもりじゃ」
 ※稲垣忠兵衛は70歳の老剣客。年に三度ほどは●小兵衛の隠宅へ顔を見せていた。妻子もなく、縁類もなく、門人もない。忠兵衛の亡父もすぐれた剣客で仙台城下に道場をかまえていたが、忠兵衛は若くして諸国遍歴に出たという。亡父の門人の中には、⑪伊達家の家来も多かったらしく、その縁故により、老いの身を、⑪伊達家・下屋敷内の長屋に落ちつけたのである。
43)●牛堀九万之助は、浅草の元鳥越町に奥山念流の道場をかまえている剣客。

稲垣忠兵衛を見舞う

 小兵衛は、●浅草・山之宿〔駕籠駒〕
「⑪麻布の仙台坂まで頼む」

麻布絵図:松平陸奥守=伊達様。●は下屋敷マーク。右上:二ノ橋=間部(マナベ)橋と云

46)⑪仙台坂の上で駕籠を降り、半刻後に戻ると言って坂をくだりはじめた。
 坂の左側は、⑫了海上人開山の有名な善福寺で、その裏門の先の右側に⑪伊達屋敷の正門がある。
 正門より手前に通用門があり、小兵衛はそこから刺(し)を通ずるつもりであった。
46)小兵衛は身をひるがえして隠れた。
 通用門から出て来たのは、波川周蔵。
 波川浪人は、坂道へ出ると、手にした浅目の編笠をかぶり、坂をのぼって行く・・・小兵衛の隠れた茶店の隣りの仏具屋から町人が尾行。
47)浪人・波川周蔵は、稲垣忠兵衛を見舞っていた。
48)周蔵は、三年前飯倉の榎坂で発作を起こした稲垣を助けた。互いに無口な剣客。二刻ほど碁を打つ。淡々とした交際だった。
51)世話をする中年の足軽は、初見国助といった。
52)初見に見送られて通用門を出た小兵衛は、⑪仙台坂をのぼりはじめた。
 のぼりきったところの茶店から駕籠舁きが飛び出して来た。
 そのとき、先刻、波川を尾けて行った町人が⑬暗闇坂の方からやってきた。
 小兵衛は「おい」と声をかけた。

目黒・碑文谷

53)そのころの㉔目黒の碑文谷というと、まったくの田園地帯で竹藪も多かった。
 ④萱野の亀右衛門の別宅はそうした碑文谷の竹藪に三方を囲まれている
54)亀右衛門は、目黒から渋谷・麻布にかけて縄張りをもつ香具師の元締。
 ③本宅は、白金から目黒不動へ通じる往還の、白金一丁目の東側。女房が〔亀田屋〕をやっている。
 この物語のはじめの老人が亀右衛門である。
57)周蔵は、⑯高田の家を引き払い、この④別宅に仮寓しているとみてよい。
 これを竹藪の中から見届けた者がいる。あの狐面の町人であった。

<地図1 目黒不動周辺、補足データ>

58)翌日の午後に、波川周蔵は寓居を出て、②目黒不動・門前の山の井へ。
 以前から別宅の留守番をしている為吉という老爺に使いを頼み、亀右衛門から「午後二時ごろに②山の井で待っていると伝えておくれ」と返事。
 山の井の女主人お幸は、亀右衛門の女房おさいの妹なのである。

<エピソード>
63)二人が②山の井を出たときは、まだ、夕闇も淡く、提灯をことわった。
 波川もおさいに挨拶するつもりでいっしょに歩み出した。
64)二人は➀目黒不動・門前にある養安院という寺の裏道をまわり、百姓地へ出た。
 あたりは、一面の田圃で、前方の台地に細川・柳生両大名家の下屋敷の屋根と木立が望まれた。
 そのあたりの細道をのぼって行けば、③亀田屋の裏手へ出られる。
 すぐ前方に目黒川がながれてい、土橋がかかっている。
65)土橋の向うの木立の中から、突如、浪人がひとり、走り出て来た。←波川が撃退。
「元締めは油断が過ぎる!」

矢印の位置が、「土橋」と思われる。

不二楼

67)その翌日。
 ●不二楼の主人・与兵衛が、●隠宅へあらわれた。
「小田切様が蘭の間へ見えましてね」
 昨日の、小田切は、頭巾をかぶった立派な風采の侍と大川から舟で、●不二楼へあらわれた。
「・・・秋山大治郎が・・・」
 という声が、隠し部屋に入っていた与兵衛の耳に入った。
 頭巾の侍と小田切とが乗って来たのは船宿の舟ではなく、頭巾の侍の持ちもののようだった。頭巾の侍は大川を下って行った。


74)風花の朝

74)「年が明けたのう」
 うなずいたのは、浪人剣客平山某。向かい合うのは、小田切平七郎。
 場所は、この前に、二人が語り合っていた屋敷内の小部屋。
 波川の名が出た。

弥七・傘徳

77)天明四年(1784)の年が明けて、小兵衛は66歳、おはる26歳、息・大治郎31歳、三冬26歳、小太郎は数えで3歳
78)その翌日
 四谷の御用聞き弥七が傘屋の徳次郎と共に●隠宅へ年賀にあらわれた。
79)小兵衛は、去年の師走のはじめに⑥高田馬場の近くで浪人を追い散らした波川周蔵を目撃したこと、不二楼で追い散らされた浪人を見、話を聞いたこと、与兵衛が聞いた「大治郎」の名などすべて語り終えて意見を聞いた。弥七は呻くように
81)「その波川をさしむけて、若先生を・・・」
81)「先ず、●不二楼へ徳次郎を詰めさせておくことから」
「そうしてくれるかえ」
 A:いまのところは、小田切平七郎か平山浪人、または頭巾の侍を待つしかない。そして、行き先を突きとめる。
82)B:いま一つは、⑪麻布・仙台坂の伊達家・下屋敷内で病床についている稲垣忠兵衛を見舞に来る波川周蔵を尾行し、その行先を見届ける。
82)おはるに大治郎をよびにやらせた(●田沼屋敷の初稽古で不在)
84)夕餉の馳走のあと、弥七・傘徳は帰って行った。入れ違いに大治郎が●船宿〔鯉屋〕の舟で大川をわたって来た。大治郎は話を全て聞いたが心当たりはなかった。
「剣客であるからには、知らぬうちに恨みを買うやもしれませぬ」
 夕餉をすませ、半刻程打ち合わせをすませ●隠宅の舟を借りて帰って行った(小兵衛も大治郎も小舟を繰れるようになった)。

仙台坂

86)翌朝、●鯉屋の船頭が小舟を曳いて来てくれた。
 小兵衛はおはるに船頭させて大川をわたった。
(そうじゃ、もう一艘、小舟を買って鯉屋へあずけておこう)
 ●橋場の不二楼では弥七と徳次郎が待っていた。
 ・・徳次郎は●不二楼で見張りに着いた。
87)●山之宿まで来た小兵衛と弥七は、駕籠で、⑪麻布・仙台坂へ向った。
*小兵衛は仙台坂の上で駕籠を降り、⑪伊達家・下屋敷の通用門へ入る
*弥七は、仙台坂を下り切った点で駕籠を返し、⑫善福寺の境内へ。
88)稲垣忠兵衛の病状は、やや軽快に向っているように見うけられた。
89)「波川殿には拙者が、先生や御子息のことを話しました」
90)間もなく小兵衛は⑪伊達屋敷を出た。
 四谷の弥七は⑫仙台坂の茶店で見ていた。小兵衛を尾行。尾行者がいるかどうかの確認を取る。
 小兵衛は、⑪仙台坂から③暗闇坂へ向って歩く。
 日ヶ窪から麻布の材木町へ出た小兵衛は、乗泉寺前の〔明月庵〕という蕎麦屋の二階座敷へ。
91)酒を半分ほど、のんだところへ、弥七があがってきた。
92)尾行者はなし。波川は自分の住まいを
「稲垣にも洩らしはすまい」
92)小兵衛が先へ出て駕籠を拾い、帰途についた。●不二楼へ寄ってみるつもりだ。
 弥七は尾行者を確認して、●四谷の家へ帰って行った。
 ●不二楼では何も起こっていなかった。

平山浪人を尾行

93)小田切平七郎と平山浪人が舟で●不二楼にあらわれたのは、その翌々日の午後であった。
94)この日は正月六日で、秋山小兵衛は昼前から●息・大治郎宅。孫の相手などして午後に●不二楼に立ち寄り、●隠宅へ戻った。
 小田切たちが、姿を見せたのは、それから半刻後。与兵衛はすぐに舟をだし、●隠宅へ知らせた。
95)ところが、蘭の間に先客があったため、藤の間へ通された小田切は、さっさと帰ってしまった。平山浪人へ
95)「今日はこれまでだ、明後日に、また来てくれ」
 一艘だけの●不二楼の舟は帰って来なかった。与兵衛は動揺する。
 だが、小舟に乗ったのは、小田切平七郎ひとりであった。
96)舟を見送った平山浪人は徒歩で立ち去った。
 やがて、小兵衛が、●不二楼の舟に乗り大川をわたって来た。
 徳次郎がもどったのは、一刻半ほど後になってからだ。

谷中の蛍沢

97)「㉑谷中の蛍沢のあたりの、㉒瑞雲寺という寺へ」
98)「明日の昼すぎには、四谷の親分がみえます、大先生は・・?」
「では、わしも昼ごろ、此処へ来て三人で相談しよう」
99)翌朝。
 小兵衛は、まだ暗いうちに腹ごしらえして出かけた。
「帰りに●不二楼へ立ち寄るから、おはるも昼ごろに来ていなさい」
100)●隠宅を出た小兵衛は、徒歩で十八間の⑰吾妻橋をわたり、浅草の広小路から上野山下へ向って歩む。
 小兵衛は、いま、㉑谷中の蛍沢へ向いつつある。
101)秋山小兵衛が不忍池のほとりをまわって、⑱谷中へでたとき、すでに朝の日は昇っていた。
 ㉑蛍沢のあたりから、東面を仰ぐと、谷中・日暮里の台地を⑲天王寺をはじめ多くの寺院の屋根が埋めつくしている。
102)だが、西の方は百姓家と雑木林がひろがっており、その彼方に、駒込へ抜ける⑳団子坂が垣間見えた。
 谷中からの道が団子坂へかかる右側に、(ポリゴン)板倉摂津守の宏大な下屋敷がある。
 ㉒瑞雲寺は、その(ポリゴン)板倉屋敷の裏手(北側)の木立の中に在った。
 ㉒瑞雲寺は古びた小さな寺だが、山門は立派で、臨済宗の寺院らしい。
 寺の周辺をまわり、木立の蔭から、㉒瑞雲寺・山門の側面が見える。
103)およそ2、30歩歩いたとき、(波川に股を斬られた)浪人がぬっとあらわれた。
「何を見ていた」
 激しい勢いで、松崎浪人は小兵衛を㉒瑞雲寺の山門の傍の潜り戸の中へ引き入れた。


105)頭巾の武士周

105)㉔碑文谷の法華寺の門前で茶店をやっている老爺が手紙をもってきた。
「波川周蔵さまというお人が、おいででござりましょうか」
 慎重なやり取りのあと、波川周蔵は手紙を受け取り、老爺を見送った。

107)㉑蛍沢で小兵衛が拉致されたのは、ちょうど同じ頃おい。
 松崎浪人に右腕を掴まれた小兵衛はいささかの抵抗もせぬ。
110)「これ、名は何という?」
「内山文太と申す」
111)「泥を吐け」・・・
 平山浪人が、いきなり小兵衛の耳を切ろうとし、小兵衛は逃げた。

114)秋山小兵衛が辻駕籠を拾い、●橋場の〔不二楼〕へ着いたとき、四谷の弥七は、まだ来ておらず、小兵衛は始終を傘屋の徳次郎へ語った。
 小兵衛は、おはると三冬・小太郎を、しばらくの間、●おはるの実家へ預け、大治郎と寝泊りするつもりになって、●大治郎宅へ急いだ。
115)大治郎は小兵衛からすべてを聞くや、三冬同様
「何事も、父上に従います」
117)また、小兵衛は大治郎と相談し、稽古に来ていた永井源太郎を、奥の部屋へまねいた。
「●わしのところに、泊り込んでもらいたい」「承知いたしました。」
118)小兵衛は、大治郎をまじえ、およそ半刻(1時間)ほど源太郎と打ち合わせをしてから、●不二楼へ取って返した。

 ●不二楼では四谷の弥七が待っていた。
 そのころ、秋山大治郎と三冬は小太郎、永井源太郎と共に家を出て、●橋場の船宿〔鯉屋〕から舟に乗って大川(隅田川)をわたり、●小兵衛の隠宅へ向った。

奥沢村、九品山・浄真寺(近くの別宅風の屋敷)

118)波川周蔵が④碑文谷の寓居を出たのは、ちょうどそのころであったろう。
119)碑文谷から西南一里ほどを隔てた㉕奥沢村に、九品山・浄真寺という大刹がある。
 周蔵は、低い崖下の田地が見える場所に立った。
 侍があらわれた。
120)「今朝ほど、松平伊勢守様のご書状を、お届けしたものでござる」
 これは、小田切平七郎だった。
「伊勢守殿は、いずこにおられる?」
120)「案内つかまつる」
 ㉕浄真寺の惣門前の参道をまっすぐ先へ行き、南へ十町(約一キロ強)ほどのところで振り向いた。㉗茅葺屋根の家(別宅風の屋敷)
122)波川周蔵が部屋へ入ると、小田切は襖を閉め、小廊下へ残った。
124)部屋には頭巾の侍がひとり。
「久しぶりよの」・・・・しばらく話した後、
「秋山大治郎という剣客を、あの世へ送ってもらいたい」
 周蔵は大治郎の名を知っていた。
126)周蔵は辞去する姿勢を取った。
「ではこれにて」
「三日後のこの時刻に㉗此処へまいって、しかと返答せよ」
127)「こたびの事は、天下の事じゃ。これだけは申しておく」
 頭巾の侍はさっと立った。
「周蔵。おのれが母のこと、忘るなよ」
128)その日。④碑文谷の寓居へ帰った波川周蔵には、変わった様子もなかった。
130)波川周蔵は、頭巾の侍と約束した当日に㉗件の家へ出向いて行ったが、このときは、小田切平七郎のみが待っていた。

131)周蔵は、老爺の為吉へ萱野の元締との面談を頼み、
「明日の昼前に②山の井でお待ちしています」
 との返事をもらった。
 時刻に、波川周蔵が②山の井に到着すると、すでに萱野の亀右衛門は待っていた。
 周蔵は、物語の最初に語られていた殺人をひきうけるかわりに、時期が来たら、妻子を安全な場所へ隠してもらいたいと頼んだ。元締めは、見返りがなくても大丈夫だと請け合ったが、周蔵の決意は固く、次話の冒頭にそのシーンが入る。

134)秋山小兵衛が、⑪稲垣忠兵衛を見舞いに出かけたのは、1月18日のことであった。
136)この日、⑫善福寺の門前で、秋山小兵衛は駕籠を降り(四谷の弥七が見え隠れに附いていく)
 小兵衛は、⑫善福寺の境内へ入って行った。
 と、いましも中門を潜り、参道へ向って来る波川周蔵をみてあわてて引き返した。
 ⑫総門を出て茶店へ入った小兵衛の後から、四谷の弥七があらわれた。
137)波川周蔵は⑫総門から出て来ると、広い道の向う側にいた辻駕籠に乗った。
 弥七は後を尾う。
 やがて小兵衛は、⑪伊達屋敷の通用門から中へ入って行った。
138)稲垣忠兵衛老人は、たいそう、残念がった。
「先生。一足違いでござった。かの波川殿が帰ったばかりで」
「波川殿も、今日は、秋山先生のことをいろいろ尋ねておりました」

140)忍び返しの高い塀

周蔵の仕事

140)時刻は、夜の五ツ半(午後9時)をまわっていたろう(雪)
 ㉘日本橋川へ架かる㉙江戸橋の南詰に〔吉野屋〕という料理屋。
 吉野家の裏手は、日本橋川に沿った㉚木更津河岸へ通じてい、荷舟が浮かんでいる。
 ・・・波川周蔵の裏の仕事・・
143)「私を、㉛両国橋の近くでおろしてくれ」

144)その翌日、すなわち、1月24日の午後。②山の井に周蔵と萱野の亀右衛門
「私の妻子のことだが・・・隠れ家を、見つけてくれたろうか」
140)「見つけてございますよ」
「・・・急に、一日も早く他所へ移さねばならぬことになった」
 去る1月18日に弥七は④周蔵の隠れ家を突きとめたのである。
147)このときは、周蔵も尾行に気づいていなかった。
 しかし、そのあと不穏な気配を感じたのだ。

見舞い<4回目 2/3>

149)秋山小兵衛は、じりじりしながら●息・大治郎と暮らしていた。
151)月が変った2月3日の昼近くになると、小兵衛は大治郎に
「日暮れまでには、もどる」
 言い残して、●不二楼へおもむき
「⑪仙台屋敷まで行って来る」
152)小兵衛が去って後、しばらくしてから、弥七が姿を見せた。
153)小兵衛は稲垣忠兵衛を見舞うべく駕籠に揺られていた。

そのころ・・。不二楼には小田切が

155)そのころ、●不二楼には小田切平七郎が姿をあらわした。
156)小田切は駕籠に乗って帰って行った・・・弥七と徳次郎二人で尾行。
157)大川沿いの道を浅草寺の方

小兵衛、周蔵に会う。

 それとも知らず秋山小兵衛は、麻布・材木町の蕎麦屋〔明月庵〕へ入り〔蕎麦落雁〕を土産に包んでもらい、⑪伊達屋敷
158)稲垣忠兵衛は、昨日から床をはらっていた。
159)半刻ほど語り合ってから、⑪伊達屋敷を出た。
 今日は、駕籠を⑪仙台坂の下へ待たせてある。
 <たまさか来た周蔵と擦れ違い、穏やかに語り合って別れた>
160)二人とも相手を避けようとはせぬ・・・おだやかに語り合い、別れた。

164)波川周蔵は、㉗九品仏(浄真寺)に近い別宅風の屋敷へ行き「お引き受け申した」と、言っているはずだ。

166)秋山小兵衛は●駒形の元長へ寄って酒をのんだ。とぼとぼと歩み、●不二楼

小田切を尾行して屋敷を突きとめた

167)(緑ルート)小田切平七郎は、㉝深川の洲崎弁天・門前で駕籠を返した。
 門前から橋をわたって木場へ出た。その木場を左に見て堀川沿いの道を北へ向う。:切絵図では、門前町と平井新田とが陸続きに見えるが、別地図では、堀があり、橋が架かっている。

168)そこは㉞平井新田とよばれている。(平井氏による塩田開発)
 小田切は、堀川沿いの一本道を、どこまでも行く。しばらく行くと、別の堀川が横たわってい、小さな橋が架けられた向うに、敷地が(ポリゴン)六万坪と言われる(ポリゴン)細川越中守・下屋敷の木立が見える。
 小田切は、橋をわたることなく、川沿いの道を右へ折れた。
 傘徳は小田切を見失うが、先行する弥七が見ていた。
 入ったのは、㉟曲がり角にある屋敷(名前不肖・・・町屋の一角と思われる)。

169)細川屋敷とは、くらべものにならぬ小さなもので忍び返しのついた塀が異常に高い。
170)●不二楼の離れで、弥七は深川・木場あたりの図面を描き示した。
「弥七、探ってくれ」
「実は大先生。㊱深川の入舟町に、新蔵という御用聞きがおります。いかがなもので/では、明日の朝、行ってまいります」

172)墓参の日

172)小田切と平山の会話・・・深川の屋敷だと思われ。

175)小田切平七郎が、㉟深川の木場の外れの屋敷へ入って行ったのを突きとめた・・・翌日
176)弥七が㊱入舟町の新蔵宅を訪れると
「やぁ、めずらしい人が見えたものだ」
 二階へ案内され、人払いもしてくれた。
177)「松平伊勢守様という旗本のもの。三年ほど前まで公儀の御目付役をつとめていたそうだ」・・そして、何も言わない何も聞かぬことに・・
179)●富岡八幡宮の門前で駕籠を拾うと、●不二楼へもどって来た。
180)四谷の弥七が語るのを聞いた小兵衛は、身じろぎもしなくなった。
 翌日、秋山小兵衛は●〔和泉屋吉右衛門〕方へ出向き、武鑑を確認した。
183)松平伊勢守勝義について・・・松平姓なのは、徳川譜代の家臣だから。
 二千石の大身旗本、屋敷は神田・駿河台。㉟深川の屋敷の記載はなかった。
 御目付就任は、明和9年(1772)、天明9年(1781)には、御目付の項から消えている。前年の安永9年までは、御目付であった。
186)歩みながら小兵衛は、旧門人の中から、四百俵の旗本・滝口彦右衛門を思い出した。当年56歳、隠居の身だが、数年前までは〔奥御祐筆〕であった。
187)翌2月6日の昼すぎに、㊲湯島天神下の滝口屋敷を訪ねた。ひとしきり話した後、
「ときに、以前、御目付衆をつとめておられた松平伊勢守という人のことを知っておられような」
 滝口彦右衛門の目の色が冷たく変った。小兵衛は聞くのをやめた。
192)「先生。一つだけ申し上げたく存じます。松平伊勢守殿をおもいきって罷免させましたのは、田沼主殿頭様でございます」

193)秋山小兵衛は、㊲滝口屋敷を出て、●湯島天神の男坂をのぼり、●境内へ入り、拝殿にぬかづいた
194)小兵衛は、湯島天神から切通しの坂を横切り、●不忍池のほとりへ出て、最寄りの茶店へ入った。
195)茶店を出た秋山小兵衛の足は上野の広小路の方へ。辻駕籠を拾い、●不二楼へ立ち寄った。
 小兵衛は、●不二楼を出て、●大治郎の道場へ帰った。
197)大治郎との話の中で「今年もまた、2月20日の御伴を頼まれました」
198)「それだ。2月20日じゃ。去年のことをすっかり忘れていた」
 ㊳南葛飾の亀戸村に長泉寺(浄土宗)という小さな寺がある。田沼意次は、2月20日に小さな墓を詣でるのを例とした。
 そのときの田沼意次は、その前日に●浜町の別邸へおもむいて一泊し、翌朝町駕籠に乗って行く。
 しかも、供は二人きりなのだ。大治郎と共に供をするのは白井与平次。無欲誠実の男であった。


204)血闘

207)小田切「来る2月18日の夜、五ツ(午後8時)までに㉗此処へおいで願いたい」
波川「心得た」
小「その夜は泊っていただく、次の日についてはその折に申し上げる」
小「ともあれ、波川殿は、秋山大治郎ひとりに立向かっていただきたい」
波「他の者は?」
小「さよう・・・二人でござる、他に町駕籠の駕籠舁きが二名」
 此処は、㉗奥沢村の九品山・浄真寺に近い、例の家だ。
 この日の朝、④碑文谷にある萱野の亀右衛門別宅へ小田切の使いの者があらわれ〔蔭日向二つ巴〕の紋を朱墨で描いた手紙を渡した。
『この日の七ツ(午後4時)に、㉗奥の沢の家へ来てもらいたい』
 と、したためてあった。そこで、207)冒頭へ。
<210P~223Pl1まで、周蔵と伊勢守との因縁>
223)そのときから17年の歳月が流れ去っていた。双方をむすびつけているのは周蔵の母が屋敷に暮していること。
 松平伊勢守と波川周蔵との間を結んでいた場所は、㊴麹町1丁目弓師の加藤八兵衛

227)2月18日の朝も遅くなって・・・。
 ④碑文谷の亀右衛門・隠宅で目覚めた波川周蔵が、為吉に萱野の亀右衛門あての手紙をわたした。
230)その日の午後、周蔵は④亀右衛門の隠宅を出て行った。
230)翌19日の午後、周蔵は小田切とともに旅支度をして㉗奥沢村の隠れ家を出た。
 昨18日に、周蔵が㉗隠れ家へ到着すると、すでに小田切は待ち受けていた。
231)夕暮れ時に、二人が当着したのは、㊵本所の三ツ目橋の北詰緑町東の角地にある〔加納屋〕という小さな宿屋であった。


232)このころ、江戸城を下って来た老中・田沼意次の行列は、●神田橋御門内の本邸へは入らず、まっすぐに●日本橋・浜町の中屋敷(別邸)へ向った。
 そのころ・・・。
 ●田沼本邸内の道場で、稽古を終えた秋山大治郎は、田沼の行列とは別の道をとり、これまた、●浜町の田沼家・中屋敷へ向ったのである。
 田沼意次を●中屋敷へ送りとどけた行列は、すぐさま●本邸へもどっていく。
 ㊵本所・緑町の加納屋では、波川周蔵と小田切平七郎が夕餉の膳に向っている。

233)㊶南葛飾の亀戸村の外れに、香取大神宮という古跡がある。
 この社の祭神は経津主命というのだそうで藤原鎌足の勧請だと、伝えられているほどであるから、よほどに古い社なのであろう。
 本社は藁屋根の鄙びたものだ。
 何でも、香取大神宮のあたりは、遠い昔のころ、海の中の離れ島だったともいう。

 ㊶香取大神宮から東へ少し離れた松林の中に、㊳長泉寺はあった。
 深い竹藪に沿った道から一段低く、窪地のようになったところに茅ぶき屋根の本堂があり、墓地は本堂の裏になっている。
 あたりに人家はほとんどない。
224)道に沿った土塀と山門は、ほかならぬ田沼意次の寄進によるものであった。
 2月20日の、この朝、例年の通りに、●日本橋・浜町の田沼家・中屋敷から出た町駕籠は、家来の白井与平次と秋山大治郎の二名のみが、供につき、さしわたしにして一里半ほどの㊳長泉寺へ向った。
 ときに、六ツ半(午後7時)である。
 そのころ、すでに、小田切平七郎がひきいる刺客は㊳長泉寺に近い竹藪の中に結集していた。
 前夜、㊵緑町の加納屋へ一泊した小田切と周蔵が、今朝早く㊵加納屋を出て、この場所へ来ると、すでに、平山と松崎は、他の浪人を連れ、待っていた。
 ここではじめて、平山と松崎を見た波川周蔵は、
(あのときは、自分の腕試しをしたのか・・・)
 と、わかった。
 刺客は合わせて八名。別に2名いて、●浜町からの駕籠を見とどけるはずであった。
235)その中の一人(小林)が走り込んで来たのは、五ツ半(午前9時)前。
236)しばらくしてもう一人の見張り(山口浪人)が「間もなく、これへ」
237)刺客たちは、竹藪の中を少しずつ、長泉寺の方へ近寄って行った。
237)㊳長泉寺への道は、山門が近くなるにつれて、やや道がひろくなる。
 といっても、二間ほどであろうか。
 道の右側が松林、左側が竹藪で、その道へ、駕籠がさしかかったとき
「それっ」
 小田切平七郎が、唸るような声で襲撃の合図をした。
 ーーー血闘開始<周蔵は小田切を斬りつけた><駕籠には意次ではなく、小兵衛が乗っていた>
241)生き残った三人の刺客は、死物狂いで㊳長泉寺の方に逃げて行く。
 このとき竹藪の中から、波川周蔵が、小田切平七郎を捕らえてあらわれた。
242)周蔵が小田切一味に加担したと見せかけて来たのは、旧主・松平伊勢守が町駕籠の中の、だれをねらっているのか、それをたしかめたい一念であった。
244)五日後の朝、松平伊勢守は、㉟深川の別邸において切腹した。
 その翌々日の午後に、秋山父子は田沼意次の招きを受け、●神田橋・御門内の田沼本邸へ出向いた。
248)それから一年後の天明5年(1785)、秋の或る日。
 ㊴麹町一丁目の弓師・加藤弥兵衛宅を波川周蔵が訪れ、母を迎えて「相州・藤沢の外れ」へ去った。


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