見出し画像

【短編小説】殺意の蜷局 最終話

 夫の笑い声が聞こえた。

 何故こんな緊迫した状況で、笑い声が聞こえてくるのか。恐る恐る見ると、夫はあたしに背を向けてテレビを見て笑っていた。あたしが今から夫を殺そうとしているのに、夫はテレビを見て笑っている。おかしな事態が発生している。

 何故だ、何故あたしの殺意に気付かないのだ。包丁を持って立っているあたしが目に入らないのか。

 そこであたしは悲しく気付いてしまった。夫はあたしを見ていないのだ。夫にとってあたしは透明人間なのだ。あたしは存在していないのだ。存在しているのはごはんだけなのだ。

 殺意が一気に萎んでいく。
 あたしの中のヘビも萎んでいく。

 急速に殺意を失い、あたしは包丁をシンクに戻した。無言で割れたガラスを片づけ始めた。まだ夫は笑っている。蟻地獄のようだ。あたしだけが殺意に囚われ、ズブズブと嵌っていく蟻地獄。

 誰かあたしを助けて。

 その時玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に誰が来たのだろう。思考回路が止まったままのあたしは、簡単にドアを開けてしまった。

 見知らぬ若い女が立っていた。化粧が濃く胸の谷間がはっきりしていて、あたしにないものを全て持っているだろう若い女だ。何故だか無性に憤りを感じ、チっと舌打ちしてしまった。

「奥さんですよね」

 女の問いかけに、何と答えていいのかわからず返事に詰まっていると、背後から夫の甘い空気が流れてくるのを感じた。夫に合わせたように、若い女からも甘い空気が流れ始めた。あたしは今、前からも後ろからも甘い空気に挟まれて溶かされようとしている。

 油断していたあたしは、眠っているあたしの中のヘビを起こそうとする。だがヘビは永遠の眠りについてしまったかのように、ピクリとも起きてくれない。

「しんちゃんと別れてあげてよ」

 衝撃的な言葉なのに、ヘビは全く反応しない。

「何で愛人を家に呼ぶの。あたしはまだあなたの妻なのよ。別れてあげてよって、どうして愛人に言われなきゃいけないの。どうしてあなたがあたしに言わないの」

 あたしは言葉を仕方なく自分で呑み込む。

「どうしてあたしじゃ駄目で、こんな若いだけの女がいいの。あたしにだって若い時はあったのよ。みんな年を取るのよ。あなただって」

 また自分で無理やり言葉を呑み込む。

 呑み込みすぎてお腹が破裂しそうだ。
 苦しい。助けて。どうしてヘビは起きてくれないのだ。今まで一緒にやってきたじゃないか。

 あたしはだんだん誰に怒りを感じているのかわからなくなってきた。言葉をあたしはもう呑み込めなかった。お腹が破裂寸前で、一言たりとも呑み込めなかった。呑み込めなかった言葉は外に漏れてしまった。

 気付くとあたしは大声で若い女に向かって叫んでいた。

「どうして。あんたはあたしの味方じゃなかったの。あんなに毎晩愛し合ったじゃない」

 その言葉が終わるか終らないかの瞬間、あたしは女に刺された。腹を裂かれた。

 仰向けに倒れたあたしが最初に見たものは、腹に突き刺さっている包丁の柄のキティちゃんだった。

 ヒトを殺すのにキティちゃんの包丁を使う女に、夫を奪われたあたしは、世界一間抜けな女だ。

 夫が救急車を呼んでいる声が聞こえる。薄れていく意識の中、夫はあたしを近所に配らないんだと、自虐的な喜びを感じた。

 夫の横で女は呆然と立ちすくんでいる。本当に刺すつもりはなかったのに、あたしの言葉が女の中のヘビを起こしてしまったんだろう。同じ女という生き物として、女に対して哀憐の気持ちが少しだけ沸いた。

 あたしの腹から血が流れていく。この血はあたしの言葉だ。言えなかった言葉たちだ。膨れ上がっていた腹が小さくなっていく。

 流れろ、流れてしまえ。

 言葉は呑み込んじゃ駄目なんだ。自分の気持ちは呑み込んじゃ駄目なんだ。伝える努力をしなければ何も伝わらない。めんどくさいけど伝える。わかってもらえなくても伝える。その努力を怠ったら、きっとまたあたしは、ヘビになってしまうのだろう。

 もしまだ生きる事が出来るのなら、今度は自分の言葉で伝えよう。奥歯も治そう。大好物の唐揚げを味わって食べよう。仕事も見つけよう……そして夫と別れよう。

 ちゃんと自分の足で歩くんだ。あたしはあたしに戻るんだ。

 あたしはヒトだ。

 (おわり)







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?