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【短編小説】殺意の蜷局 第7話

 セックスがなくなったのはいつからだったんだろう。

 少しずつなくなったのではなく、唐突になくなった気がする。その日を境に、夫とあたしは男と女ではなくなった。

 一度勇気を出して自分から夫を誘った事があった。凄い速さで背中を向けられた。今から思えば、その頃から夫には女がいたのだろう。

 その女とあたしの何が違うんだろう。同じ穴ではないのか。何故あたしの穴では駄目なのだ。

 あの頃あたしは飢えていた。セックスがしたくてしたくて溜まらなかった。たぶん自分が女である事を確認したかったのだろう。自分がどうして夫を求めているのか、他の男では自分の穴を埋める事が出来ないのか。 

 手当たり次第に男と寝てみた。寝るだけの相手なんて、今の時代すぐ見つける事が出来た。簡単な事だった。

 結局わかったのは、快楽は快楽だけだという事。

 ならば自分で自分を慰めればいい。穴に入れるモノなんて別にいくらでもある。ヒトである必要性を感じなくなっていった。

 この頃から夜になると、あたしの中からヘビが出てきて全身を這うようになった。ヘビから与えられる快楽は、男から与えられる快楽を遥かに上回っていた。内臓がぐちゃぐちゃに食い荒らされていくような快楽に、あたしは溺れていった。

 あたしはヒトを必要としなくなっていった。

 目の前にポン酢が並んでいる。お金がないのにスーパーまで来て、ポン酢をじっと見つめているあたしは、もう壊れているのかもしれない。

 なんとかしてやり遂げるしかないという、訳のわからない使命感を感じていた。あたしはポン酢を手に取り、そっと上着の中に隠し入れてみた。

 よし、いける。

 ふと強い視線を感じて振り向くと、年配の太った女性がこちらをじっと見ている。まさか万引きGメンか。

 女性が早いスピードで、あたしに近づいてくる。

 今ここで捕まるわけにはいかないと思い、あたしは小走りに反対方向に歩きだした。あまりの緊張に足の動きがおかしい。膝を曲げていないから競歩の選手みたいになっているのがわかる。どう見ても怪しい。

 もし捕まったら夫はあたしを迎えにきてくれるのだろうか。いや、またドロドロの白菜を見るような目であたしを見るだけだろう。

 絶望感に襲われ、足が止まってしまった。逃げなきゃと頭では思っているのだが、あたしの足は床にしっかりと根をはやしてしまった。

 泣きたくなった。どうしてあたしがこんな恐ろしい目に合わなければいけないのだ。夫の仕組んだ罠のような気さえした。

 負けてはならない。

 あたしは自分に言い聞かせ、足元の根っこをグイッと引き抜く。そんなあたしを、先ほどの女性がスイスイと追い抜いて行った。あたしには一瞥もくれず歩き去って行った。

 ああ、誰もあたしを見ていないんだ。
 あたしはもう死んでいるのかもしれないな。

 帰宅して意気揚々とポン酢を差し出したあたしが見たものは、もうどうやっても食べる事が出来ない状態のお鍋だった。お鍋の水は全て奪われ鍋の底が真っ黒になっている。食べる事はもう不可能だ。

 まるであたしたち夫婦のようだ。もうやり直す事が出来ない関係。

 その事実を認めたくないあたしは、夫にポン酢を差し出し続ける。一口でも食べてくれたら夫とやり直せるような気がしたのだ。

 最初は「いいよ」と軽く断っていた夫だったが、あたしのあまりの執拗さに、

「こんなごはん食えないって」

 と怒鳴り、ポン酢を手で払いのけた。
 ポン酢は割れ、同時にあたしの心も粉々に壊れてしまった。もう再生できない程粉々に。

 あたしの中のヘビが殺意で溢れている。
 蜷局を巻いて口を大きく開けている。

 あたしはシンクの方に走り包丁を掴んだ。あれだけ殺し方を考え続けてきたのに、結局はオーソドックスに包丁なのか。

 普通だ、普通すぎる。
 あぁ、あたしの人生と同じだ。

 あたしは包丁を握りしめ深く息をする。刺せるのか夫を。いや、きっと刺せる。あたしはいつも、肉や魚を切り刻んでごはんを作っているのだから得意なはずだ。

 夫の死体はどうするのだ。いや、今はそんな事はどうでもいい。後の事は後で考えればいいのだ。

 あたしにはもうヘビを止める事が出来ない。

 (つづく)

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