小説 私だけの世界 Ⅳ、再生①

 こんなに全力で走ったのは久しぶりか、もしかしたら初めてかもしれない。

 校舎を出て、校庭を抜け、校門のところに差し掛かる。そのまま走り去るつもりだった――けれど、思わず足を止めてしまった。

 不意を突かれたからだ。

 校名が彫られた石碑に背中をもたれさせ、腕を組んでいた少年は、私が足を止めたことに気づいたようで、目を開けた。その眼は相変わらず、厳しいものだった。

 「これでさすがにわかったか? ここが現実じゃないってことを」

 私は黙っていた。少年の口調からすると、さっき空き教室で起きたことも、なぜか知っているらしかった。

 そして、それを裏付ける言葉を、少年は発する。

 「まだ信じていないのか? だったら、今からあの教室に戻ってみろ。お前は、あの友達の怪我が治ってほしいと、このことをなかったことにしたいと強く思っているだろうから、きっとその友達は、今頃ぴんぴんしてるぞ。お前とのいざこざも忘れてな」

 私は、やっぱり黙っていた。空き教室に戻らなくても、亜梨沙に会わなくても、私は気づいている。

 少年は苛立ったようだった。

 「自分のしたことがショックなんだろうが、ちゃんと話をしろよ。もう時間がなくなってきているんだぞ。早いうちに現実の身体に戻らないと、取り返しのつかないことになる」

 「……だから、なんだっていうのよ」

 呟くように、声を漏らす。

 少年が微かに目を見開いたのが、視界の端でわかった。

 「構わないっていうのか?」

 「少しひとりにさせてほしいの」

 少年の問いに答えず、私は言った。

 考えなくてはいけない。……思い出さなきゃ。

 少年の返事を聞く前に、私は彼に背を向けて走り去る。たぶん、少年は呼び止めることもしないだろう。私がそれを許さないから。

 駆ける私の頬に、滴が落ちた。とうとう雨が降ってきたらしい。今の私の気分にぴったりだ。

 私は、押し寄せる記憶の波を、静かに受け入れた。


           * * *


 駿河くんを初めて意識したのは、二年生の時だ。

 確か――地理の授業でだったか、あるものを取ってきてほしいと先生に頼まれたのだ。それで、資料室に行ったのだった。

 資料室は埃臭かった。窓を開けて換気したほうがいいんじゃないか、と思ったことを覚えている。

 先生に頼まれたものは、世界地図だった。かなり大きめで、両手を広げたくらいだったはず。ただ、丸めてあるので、持っていくのにさほど苦労もしなかったはずだ。

 苦労したのは、その世界地図を取る時だ。

 世界地図は棚の上にあった。そこは、私が背伸びして手を伸ばしても届かなかった。それで仕方なく、近くのいすの上に乗って、手を伸ばしたのだ。そこは資料室というより物置部屋みたいな状況になっていたから、いすが何脚かあったのだ。

 そのままなにもなければ、私は楽に先生からの頼まれごとを成し遂げていた。けれど、そうはいかないもので、私がいすの上に乗っているとき、思わぬことが起こった。

 いきなり、がらっとドアが開いたのだ。

 資料室なんてところに誰も来ないだろうと油断していた私は、かなり驚いてしまい、恥ずかしいことにいすの上でバランスを崩してしまった。

 それを、身を挺して庇ってくれたのが、私を図らずも驚かせた人物――駿河くんだった。

 私は彼のおかげで、どこにも怪我らしい怪我はしなかった。

 けれど、駿河くんは違う。資料室には雑多に物が置かれていたから、腕に切り傷ができてしまったようだった。

 今思えば、それは大した傷でもなかっただろうけれど、また恥ずかしいことに、私はすっかり慌ててしまった。

 「あ――わ、私……」

 「だいじょうぶだよ」

 駿河くんはその時、微笑んだ。たぶん、動転した私を落ち着かせるためだったろうけれど、理由はどうでもいい。

 そのとき、彼は、私に向けて、笑みを見せたのだ。

 私が椅子から落ちた時に一緒に落ちてきた世界地図を拾って、駿河くんは、「これ?」と訊いた。私は頷くことしかできなかった。

 「怪我はない?」

 「あ――うん、私は平気……」

 「立てる?」

 いつまでも床に座り込んでいる私に、駿河くんが尋ねた。私は慌てて立ち上がった。

 お礼を言わなきゃ、と思った。

 けれど、それを実行する前に、駿河くんは彼が取りにきたもの――なんだったかはよく覚えていないんだけれど、確かこちらも丸めた紙だった気がする――を持って、出て行ってしまったのだ。

 「じゃあ、気を付けてね」

 と、私に言って。

 結局、お礼は言えなかった。この時も、そのあとも。


 それからは、駿河くんを目で追うようになっていった。

 最初のほうは、彼自身のことが気になるというより、お礼を言うために話しかけるタイミングを計っていただけだった。それがいつの間にか、変わっていったのだ。不思議なものだ、我ながら。

 彼に話しかけることは、ついぞできなかった。私は男子に話しかけることも平気だったはずなのに、できなかった。

 なぜだろう、今ならその理由が、ちょっとだけわかる気がする。

 そんな私の変化に目ざとく気づいたのが、亜梨沙だった。亜梨沙とは中学に入ってから知り合ったんだけれど、それ以上の年月を過ごしてきたように、仲良くなっていた。

 「最近、あの男の子を目で追ってるね」

 三年になって、一年ぶりに同じクラスになってから、亜梨沙はそう言ったのだ。この時、ごまかしても駄目だろうな、と思った。

 それに、照れくさくはあったけれど、誰かに言いたいという気持ちもあったから、亜梨沙に打ち明けた。

 けれど、あの資料室でのことは言わなかった。あの出来事だけは、誰にも言えない。

 あれは、私だけのものだ。話してしまえば、この輝きが消えてしまうような気がした。

 話しても減るものではない――そんな言葉は嘘だ。言葉にしてしまえば、消えてしまうものだってある。そして一度消えてしまったものは、そう簡単には元のように戻ってくれないのだ。

 打ち明けるといっても、軽く、駿河くんのことを「いいなと思うんだよね」と言っただけだ。けれど、亜梨沙は自分のことのように喜んでくれた。

 「応援するよ」
 「話しかけるのを手伝うよ」

 と、最初のころは、彼を見かけるたびに言われた。けれど、私はそれらをいつも断った。彼ともう一度話してみたい気持ちはあったけれど。遠くから見ているだけでいい、そう思う気持ちのほうが強かった。

 駿河くんを見かけるたびに、亜梨沙と盛り上がる日々。あの頃が一番楽しかった。なにも考えていなかった、あの頃が。

 そんな日々の中、文化祭――合唱祭の実行委員に、私のクラスから亜梨沙が選ばれた。そして、駿河くんも彼のクラスから委員に選ばれた。彼も亜梨沙と同じように、くじ引きで当たってしまったのだろう。

 最初は、心配していなかった。むしろ、喜んでいた。亜梨沙が委員での駿河くんの様子を、たびたび報告してくれるようになったから。

 そう、亜梨沙と駿河くんの接点は、実行委員だったのだ。塾ではなく。(ちなみに言うと、橋田さんとの接点もそうだった。駿河くんの幼馴染みで彼に気があり、亜梨沙に協力の要請をしていたのは事実だったけれど)

 私はたぶん、この頃に気づくべきだったのだ。

 今思えば大好きだった、少々退屈ではあるけれど、なくしたくはなかった日常が、実は危ういものだったということに。

 耳を澄ましてみれば、日常が崩れ始める音が聞こえ始めていたはずだったのに。


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