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小説 あべこべのカインとアベル④

「こんにちは」

 彼は窓辺から降りて、私の前まで進み、膝をついて、私の落とした本を拾った。ふわりと漂ってきた香りは、深い森のような匂いだった。

 本の埃を払い、興味深くそれを見つめた後、はい、と彼は私にそれを差し出した。

「どうぞ。……ええと」

「しおり。村崎、栞です。ありがとう」

  彼の目を見つめながら、私は本を受け取った。こんなに視線を合わせるのが苦ではない人は初めてだった。

 彼の眼は遠くを見ているようだったから、私は気が楽だったのかもしれない。

 しおり、と彼はその名を口のなかで転がして、「いい名前だね」と言った。

「あなたは?」

 私がこの時最初に欲したのは、彼の名だった。彼はためらうことなく、それにこたえた。

「カイン」

 大昔に弟を殺した兄の名は、この時、私が兄と慕い、のちに殺した人の名前でもあったのだった。

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