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小説 私だけの世界 Ⅴ、真実①

 私は、ふらふらと意識なく歩き続けていたらしい。気づくと、あの商店街の路地に入っていて、その出口にあの少年がいた。

 私は驚かなかった。なんとなく、わかっていた。少年がそこで私を待っていることを。

 雨はまだ降り続けている。さっきよりは弱く、まるで霧のように視界に移る、細い糸筋の雨だ。

 目の前の少年はビニール傘を差している。対して、私はびしょ濡れだ。まあ、構わないけれど。

 少年が私のほうを見た。瞬間、彼はぎょっとしたような表情をした。

 「お前……その顔」

 顔?

 言われてなんとなく、自分の顔に手を当てた。すると、頬が濡れていることに気づく。

 雨のせいじゃない、これは――この熱を持つものは、そうか、涙だ。私は知らず知らず泣いていたらしい。

 なんだか気まずい。そして、相手の少年も気まずそうだった。彼は、目を逸らして頭を掻く。

 「あー……その、お前は、よく持ちこたえたと思う。友達と好きな奴のことはぐたぐたになったが、親の離婚のことは、よくコントロールされていたようだしな。なかなか強い精神力だったんじゃないか」

 それは、人を慰めることにあまり慣れていないような口調だった。まあ、慣れている人がいるのかどうかは疑問だけれど。

 でも、間違いなく彼は、私を慰めようとしてくれているのだ。

 私は、手のひらでごしごしと目元をこすった。

 「誉められてもね……」

 けれど、少年の不器用そうな口調が面白くて、少しだけ喋る気力が湧いてきたみたいだった。それならば話を聞く気力も、当然あることだろう。

 「この世界――小世界って言ったっけ? それを、もう少し詳しく聞かせてほしいんだけど」

 少年は、ほっとしたようだった。

 「ああ、当事者のお前は知るべきだろう。お前に話すために、俺はここで待っていた。話が長くなるかもしれないから、路地の先のベンチに座りながら話そう」

 「わかった。……どうしてあんたが私のことを詳しく知っているのか、その理由も知りたいしね」

 すると、少年は「まずい」という顔をした。

 路地を抜け、土手に出る。そこには変わらずにベンチがひとつある。けれど、ある重大なことに気づいた。雨でベンチは濡れている。正直、そこに座る勇気はない。

 少年もそのことに気づいたようで、横からアドバイスしてきた。

 「ここはお前の世界だ。本来はお前の思い通りになるはずだから、ベンチが乾くようイメージしてみろ」

 いや、イメージしてみろと言われても。

 だけど、ここはなんでもありな世界なんだろう。信じられないけれど、私は体験して知っている。

 亜梨沙に向けたはさみ――それは突然現れた。確かに、その前までは机の上になにもなかったはずなのに。

 嫌なことを思い出してしまい、また気力が奪われそうになる。記憶を振り払うように首を振り、とりあえず試してみることにした。

 ベンチが乾くようにイメージ、イメージ……

 見つめ続けたけれど、なにかが変わる気配はない。

 「半信半疑じゃ難しいぞ」

 私の心を見透かしたかのように、少年が言う。

 そこまで言うのなら、私も吹っ切ろうか。目を閉じ、ベンチの水滴が雑巾で拭きとったように消えていく様を思い浮かべた。掃除しているみたいに、きれいさっぱりと……

 「やればできるじゃないか」

 少年の言葉に、目を開けた。

 すると、目の前のベンチはすっかり乾いている。そう、きれいさっぱりと。触ってみても、指が撫でたのは乾いた木の表面。

 「すご……魔法みたいじゃない」

 私が感嘆していると、水を差すような冷淡な声がした。

 「ロマンチックなことを言っているのもいいが、また濡れるぞ。それからお前、身体が濡れたままだと気持ち悪くないか?」

 むっとした。けれど、少年の言っていることはもっともだった。

 視界にはまだ糸筋の雨が見え、事実、身体に水滴が落ちてくる。それに、私の服も身体もぐっしょりと濡れていて、確かに気持ちが悪い。

 このままだと風邪をひいてしまうかもしれない……いや、手を触れずともベンチを乾かすことができるような世界なら、風邪をひかないと強く思い続けていれば、大丈夫かもしれない。

 しかし、とりあえず、話をするのにもっと快適な状態にしなくては。

 ベンチのことで自信をつけた私は、空を見上げて――雨が当たってやりにくかったけれど――雨が止むようにイメージしてみた。

 雨の糸筋はだんだんと細くなって、やがて途切れて……落ちてくる水滴も、だんだんと間隔が伸びて、やがてなくなり……

 すると、今度は簡単に達成できた。空は曇り空だけれど、雨はもう降っていない。

 「おお……すごい」

 それから、濡れている自分も乾かす。これは、乾いてほしいなあと強く思うだけで、イメージせずとも服と身体を乾かすことができた。

 「うわ、面白い。便利だし、もっと早くにこういうのを知りたかったなあ」

 ベンチの向かって右側に座りながら、私は言った。

 自分から「座って話そう」と言ったのに、少年は座らなかった。左側の方のの背もたれに手を置いて立っている。

 変な人だ。最初からそうだったけれど。そういえば、いつのまにか少年のビニール傘がなくなっている。簡単にものを消すこともできるんだろう。

 ……消すという言葉で、ちょっと気分の悪いことを想像してしまった私は、心の中で首を振った。幸い、その想像はすぐに消えてくれた。

 少年が口を開く。

 「で、この世界のことだな。わかりやすく言うと、ここは小さなビックバンから生まれた世界らしい」

 「ビックバンって、宇宙の始まりに起きた大爆発のこと?」

 少年は頷く。

 「そうだ。それに似たような爆発が無の空間で起こって、小世界を造ってしまうのだと言われている。百四十億年なんて膨大な時間をかけずに、ほとんど一瞬で構成してしまうらしい。

 だから、小世界は俺たちの現実と似ているが、まったく違うものでもあるんだ。

 もっともいい例が、なにもない空間からものを出現させられるってことだな。現実とは物質の法則や科学的なことが異なっているんだ」

 少年は右手を伸ばして、一瞬でさっきのビニール傘を出現させた。そしてすぐに、これまた一瞬で消す。少年の右手には、もうなにもない。

 これは確かに、現実ではありえないことだよなあ……さっき、私が自分でやったことといい、魔法とか超能力とか、非科学的な言葉が思い浮かぶ。

 「まあ、こういう風に小世界を思い通りにできるのは、その世界を造った魂の主だけだがな。お前の造ったこの小世界は現実そっくりで、お前自身もここは現実だと思い込んでいたから、今までこういうことはできなかったんだろう。無意識ではどうだったのか、それは知らないが」

 なにもないところからものを出現させようだなんて、思ったことすらなかった。もしそれを考えていて、ものを出現させていたら、もっと早くに、ここが現実ではないと確信することができただろうか。

 ふと、少年の話に疑問がわく。

 「でも、あんたは? ここは私の小世界のはずなのに、どうしてあんたも思い通りにできるの。この間言っていた、小世界……なんとか官っていうのと関係がある?」

 小世界監督官だ、と少年は強調してから、説明を始めた。

 「この役目は前にも言ったが、小世界を造ってしまった魂を元の身体に戻す仕事だ。小世界には現実の身体のままじゃ入れないから、俺も魂だけの存在になっている。

 小世界を思い通りにできるのは、魂――つまり、精神がある奴だけなんだ。小世界とともに造られた、この世界の住人にはそれが欠けている――一般的には、そう言われているんだ。

 まあ、ここはお前の小世界だから、お前の意向のほうが俺のよりも優先される。俺じゃ、ここで起こる出来事を操作することはできない。少なくとも、俺が主体の出来事じゃないとな」

 ふうん、と私は相槌を打つ。ちゃんと理解しているかどうかは自分でも疑問だけれど、わかっているふりだ。

 ただ、この話でも気になったことがある。

 「ねえ、この間も言っていたけどさ、魂だけの存在ってどういうこと? 私、自分の身体があるように思えるんだけど」

 試しに、自分の両手を打ち合わせてみる。互いの手が当たった感触があるし、打ち合わせた証拠に、ぱんという音も鳴る。これが魂だけの存在だなんて、どうしても思えない。

 「ああ……それはな」

 少年は頭を掻く。

 「俺は前に、寝るときに見る夢とは違うと言ったが、同じ原理でもあるんだ。

 つまり、寝ている身体のほうは動いていないが、夢の中では動いたり走ったりしているだろ。例えば夢の中で怪我をした時、現実の身体はなんともないのに、痛みを感じたことがあるだろ。それと同じことだ。

 現実の身体には起きていないのに、脳が錯覚するんだ。脳も身体の一部だが、魂と密接に結びついている。

 この小世界でのことを脳に記憶を刻み込んでいるのか、それとも魂のほうなのか、それはわからないが、どっちかで自分の身体があると錯覚しているんだ。だから、食べ物を食べて味を感じるし、自分の頬をつねったら痛みだって感じる」

 なんとなく、これはわかるかもしれない。夢のなかと似たようなものだと考えれば、少しは理解できそうだ。夢の中ではなんだってありだし、たいていの場合、夢を見ているとは自分では思わない。

 夢と小世界は、根本的に誕生した過程なんかは違うけれど、似ている――そんな感じなのかな。

 私が考え込んでいると、まだ説明は終わっていなかったようで、少年は言葉を続けた。

 「だが、身体があるように見えても、やはり俺たちは魂だけの存在だ。だから、危険な状態なんだ。

 前にも言ったが、このままだと身体は死ぬ。

 その時、身体と魂をつないでいた糸のようなものが切れる反動で、小世界も不安定になる。そして、たいていの場合、その不安定になった小世界をコントロールできなくなって、崩壊させてしまう。

 魂はそれに呑みこまれて、消滅する。小世界と一緒にな」

 死。この前みたいに取り乱したりはしないけれど、聞いていて気持ちのいいものじゃない。それが私に起こるかもしれないという実感はまだないけれど。

 少年の言葉の意味を考えてみる。現実の身体を失うと、たいていは魂も消滅する。だから、少年は私を、身体が死ぬ前に現実に戻らせたいのだ。

 「でも、小世界の崩壊ってどういうことが起きるの? 現実の身体が死んだり小世界の崩壊が始まったりしたら、私はわかるものなの?」

 「ああ、お前にははっきりと、どちらの時も感じられるだろう。幸運なことに、まだどちらも起きてはいない。現実に引き返す道があるってことだ。

 崩壊に関しては個人によってさまざまだが、目に見える変化が起こるはずだ。お前の場合だったら、おそらく、好きな奴を友達に取られ、親が離婚する――このふたつが起こるんだろう。

 そして絶望し、現実の記憶を取り戻し、小世界が消滅するんだろうな」

 だいたい、と少年は付け足す。

 「小世界の崩壊というのは、身体が死んでから起こるものだけじゃない。身体が生きていても起こることがある。

 だから、今この瞬間、崩壊は起こるかもしれない。まあ、俺の話を聞いている途中でっていうのは、可能性が低いとは思うがな。

 身体が死ぬより先に小世界が消滅すると、身体もまもなく死ぬってことはわかるな? 魂が永遠に失われて核になるものがなくなるからだ。

 とにかく、身体が先に死んでも、小世界が先に崩壊しても、どっちにしても終わり――ジ・エンドだ」

 私は視線を落とす。

 「……じゃあ、私は本当に危ない状態なんだね。亜梨沙と駿河くんのことは、もう起きちゃったし」

 「ああ、危険の度合いで言ったら、かなり」

 少年が「かなり」というところを強調したので、これは相当らしい。のんびり質問している場合じゃないのかもしれない。

 けれど、少年は今この瞬間に崩壊が起こる可能性は低いと思っているようだから、まあ、訊きたいことを全部訊いてしまおう。

 「あのさ、前に言っていたじゃない? 意思を持っているのは私だけだって。でも、本当にそう? 

 それだと私が亜梨沙たちを操っているということになるけど、いくら小世界をコントロールできなくなったといっても、私が自分で亜梨沙と駿河くんをくっつけるかな。

 ――いや? コントロールできなくなってきているということは、私が操ってはいないってこと? 

 それじゃ、だれが亜梨沙たちをそうさせているの?」

 自分で言っていて、わけがわからなくなる。

 けれど、少年はちゃんと私の疑問を理解してくれたようだ。少し考えるそぶりを見せてから、彼は答えてくれた。

 「そうだな……難しい問題だ。

 他の人間は人形のようなものだと言われているが、確かな証拠があるわけじゃないんだ。ただ、広く認知されているのはその仮説だというだけで。意思というのは目に見えるものじゃないからな。本人でさえ、自分の意思かどうかなんて、根拠を持って言えないだろう。

 ただ、コントロールのことは……まあ、説明できなくもないが」

 少年はそこで言葉を切り、「これはあくまで俺の仮説だが」とことわった。

 「……小世界が成り立った時、お前の無意識も反映されたはずだ。街や学校の様子なんかががな。まあ、街の外は造らなかったようだが」

「え? 待って、それって、この街の外にはなにもないってこと? 外に行けないの?」

 少年はわずかに眉を上げ、左手でベンチの肘掛け部分をとんとんと叩く。

 「気づかなかったか? ただ、お前が願えば新たに造られるから、気づく機会もないだろうが」

 そうだったのか……確かに、ここ数か月、街の外には行かなかった。

 「でも、テレビとか雑誌とかは? 街の外で作られているものがあったのはなんで」

 「ここは現実じゃないんだ。作る人がいなくたって、勝手に存在するものなんだ、ここではな。内容とかは、お前が昔に見たやつでも反映されてるんじゃないか。まさか、今までに目にしたもの全部、覚えているわけじゃないだろう」

 少年は焦り始めているのか、不機嫌さが声と表情に表れていた。

 「話の腰を折らないでほしいんだが。気になったことは、いったん話が終わってから質問しろよ」

 正直むっとした。けれど、私は感情的にならずに、素直に従うことにする。

 「はいはい、わかったよ。じゃ、説明の続きをどうぞ」

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