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小説 私だけの世界 Ⅴ、真実④

「できないよ」

 私は今でも覚えている。あの感触、あの激情。

 心によみがえってきた映像から目を逸らすように、ぎゅっと瞼を閉じた。もちろん、そんなことで目を逸らすことなどできないけれど。

「私は、亜梨沙を刺してしまったんだよ」

「だが、ここは現実じゃない」

 私は首を振る。ここが現実か現実じゃないかなんて、なんの意味があるというのだろう。

「それでも、あの、はさみを手に取った気持ちは本物だった。ごまかすことなんてできない。

 私は、亜梨沙に殺意を持ったんだ。

 亜梨沙と会うたび、私はそれを思い出してしまうと思う。今まで通りに亜梨沙に接することができるなんて、思っていたわけじゃないけれど。

 これでもう二度と、亜梨沙と親友には――友達にすら戻れないことがはっきりしてしまった」

 今でも亜梨沙と元のように仲良くなりたいと思っているなんて、自分でもびっくりだけど。

「……よほど、その友達が好きだったんだな」

 うん、と素直に頷けた。私は、亜梨沙が大好きだったのだ。駿河くんに抱いていた感情よりも、もっと深く強く。

 本当に、唯一無二の親友だった。なのに、亜梨沙は駿河くんのことを正直に話してくれなかった。

 だから、私は憎んだのだ。

 それには、自分への怒りも含まれていたかもしれない。友情と信頼が揺らいでしまったことで、それを構成していたすべてを、私は憎んでいた。

「償えるものなら、償いたい……でも、現実に戻ったとしても、無理だもの」

「なぜ決めつける?」

 私は顔を上げた。少年は次の言葉を、やけにあっさりと、軽く聞こえるほどの口調で発した。

「償えばいいだけのことだ」

それは、あまりにも楽観視していた。できるわけがないことだ。

私は反論する。

「無理だよ。ここは現実じゃないって、あんたも言ったじゃない。

 現実の亜梨沙はなにも知らないし、法律で取り締まってもらうわけにもいかないんだよ? 

 謝ることも罰を受けることもできない私が、どうやって償うというの?」

「お前なりの答えを見つけてみろよ」

 少年の声は静かで、先行する感情も持たずに私のなかへ入ってくる。

 「現実に戻って、自分なりの償い方を見つければいい。小世界に留まって死ねば、償おうとする気持ちやなにもかもが消えてしまうんだ。それよりは、抱えて生きていくほうがいい。俺は、そうしたいと思っている」

 丸投げだ、ただの理想論だと、そう思う。

 けれど、それが達成できるのなら?

 そこまで考えて、首を振る。

 「……理想論だよ、そんなの」

 そうだな、と意外にもあっさりと少年は認めた。

 「これは、ただの自己満足かもしれない。そんなことを考えても、答えは出ないがな。

 だから、俺は探したいんだよ。見つけられなくても、なにかをしているという事実が欲しいんだ」

 それはまるで、自分も償いの真っ最中だというように聞こえた。

 私は少年を見つめるけれど、彼の表情は静かで、なんの感情も読み取れない。

 「私は」

 私も、できるだろうか? 少年のように、償い方を探して生きていくことが。

 自分なりの償い方があるとしても、見つけるのは容易ではないだろう。苦しいだろう。自分のしていることが正しいのか、その答えを見つけるのも、きっと。

 目を伏せる。

 「……私は、あんたみたいに強くない……」

 口から出たのは弱音だった。

 少年は、今度こそ私を見放しただろうか。呆れ、いらついただろうか。けれど、彼が発した言葉は、とても淡々としていた。

 「俺は、自分が強い人間だとは思っていない。ただ、自分が生きていくためにそう考え、行動しているだけだ」

 そして、次の言葉だけは、口調を強めて言った。

 「俺はまだ、死ぬのはご免だからな」

 少年の姿は、やっぱり強い人のそれに見えた。でも、彼が当たり前なのだろうか。

 そういえば、初めて少年に会った時、「死」という言葉に私はとても怯えたはずだった。まだ死にたくないと、嫌だと思った。

 けれど、今の私は、あんなに嫌がっていた方向へ進もうとしているのだろうか。

 「私……死にたそうに見える?」

 少年は肩をすくめた。

 「見える。気づいてなかったのか?」

 私は頷く。言われてみれば、そういう気持ちもあったかもしれないと思う。でもきっと、本気ではなかった。

 少年は、言った。

 「俺の持論から言わせてもらえば、なにも死ぬことはないと思う。自分だけの世界――決して裏切らない世界が欲しかったんだろ。確かに、純粋なそれは、現実にいては叶えられないかもしれない。だが、小世界でも無理だ」

 頷く身振りで同意した。

 少年の言葉は真実だから、私は、またこんなにも絶望的な気持ちになっているのだ。理想郷などないと、わかってしまったから。

 少年が言葉を続ける。

 「だがな、現実だって、お前の世界を含んでいるんだ。現実は、個々に存在する世界が重なり合い広がり合って、構成されている。受け売りだが、俺も現実をそう位置づけている。

 だったら、死ぬのは惜しいだろ。生きていれば、自分の世界が誰かの世界と重なることだってある、広がることだってあるんだ。

 それは、お前の望んだような自分だけの世界ではないかもしれないが、それでもまぎれもなく、お前の世界だ。それを壊すことは、ほかの誰にもできない。

 だから、それを自分自身で壊すのは、もったいない気がする、俺は」

 そう、なんだろうか。ただの綺麗事じゃなく、本当に?

 そういえば、私は改めて気づいたはずだった。他の人たちにもそれぞれの世界があると。私は、自分のことしか考えてこなかったと。

 少年はつまり、自分の世界を広げれば現実を好きになれるかもしれないと、そう言外に告げているのだ。それができるのは生きていればこそで、死んでは永遠に叶えられないと言っている。

 だから生きろと――少年は言っているのだ。

 私は、そっと呟いた。

 「……生きていくのって、つらいんだね」

 償い方を見つけるにしても、自分の世界を広げるにしても、その達成には長い年月がかかってしまうかもしれない。もしかしたら、一生無理かもしれない。

 けれど、すぐかもしれないという希望も、そこには存在しているのだ。

 人生は予測できないから面白い、そんな意味の言葉を聞いたことがある。その時私は、理解できないと思ったけれど。

 でも、今、思うのは。

 予測できないから面白い。それは、予測できないから希望を信じられるということでもあるんじゃないだろうか。

 なにが起こるのかわかりきった世界だったら、希望なんて持たなくなってしまうだろう。あるのは絶望と諦念くらいなんじゃないだろうか。それって、面白くないかもしれない。

 なんだか、少しだけその言葉の意味が自分なりにわかった気がした。

 私は、さっきの自分の呟きに答えを期待していなかったんだけれど、少年はやや間を置いてから、律儀に答えてくれた。

 「当たり前だ」

 思わず微笑んでしまった。自分でも意外だ。

 そっと息を吐く。溜め込んでいたものを、いっきに吐き出すように。

 私は立ち上がって、少年を真正面から見つめた。

 「あのさ――……そういえば、あんたの名前ってなんていうの?」

 少年は驚いたような顔をした。

 「聞く必要があるのか?」

 あるに決まっている、この場合。

 「いいから」

 「――トウマだ」

 私は、にっこりと笑った。

 「じゃ、トウマ。あんたには最初むかついたけど、やっぱり今では感謝したほうがいいと思うの。

 ありがとう、見捨てないでいてくれて。私、この小世界でのことを忘れないようにしようと思う」

 私は右手を差し出した。

 少年は目を丸くしている。

 「……わからないな。お前って、すぐ気分が変わるんだな。死にそうな顔をしていたと思ったら、今度は笑って礼を言う。単純なんだな」

 やっぱりむかついたので、差し出した右手で拳を作り、わなわなと震わせた。

 すぐ気分が変わるというけれど、それが人間ってものだろう。変わらなかったら、ずっと絶望を感じることになってしまうかもしれないんだから。

 私の様子を見て危険だと判断したのか、少年は慌てたように弁明をした。

 「いや、違う、そういうことじゃない。悪い意味じゃないんだ。お前を見ていると、こっちも退屈しなかったというか、言い方は適切じゃないかもしれないが、面白かった」

 これは弁明になっているのだろうか? また馬鹿にされているような気がするんだけれど。

 藤本真奈、と名を呼ばれた。少年に名前を呼ばれるのは初めてだ。

 「俺も忘れないようにする、このことをな」

 拳を作っていた私の手は、いとも簡単に解きほぐされた。私と少年は、しっかりと握手を交わした。

 最初に手を差し出したのは私だったけれど、なんのための握手かは考えていなかった。感謝のしるしだろうか、忘れないと約束するためだろうか。

 けれど、握手をしてみると、なんとなく気恥ずかしいものだった。居心地が悪くなって、私は目を逸らす。

 少年もそう感じているのだろうか。彼がどういう顔をしているのか、私にはわからない。

 少し続いた沈黙は、少年のほうから破った。

 「――戻るんだな?」

 それは、問いかけというより確認に近かった。

 すぐには答えず、私は逸らしていた目線を上に持っていった。

 曇っていた空は、今は晴れて透き通るような青に染まっている。どこまでも高い空だ。どんなに手を伸ばしても、届かないもの。

 現実では、どんな空模様になっているのだろう。晴れだろうか、曇り空だろうか、それとも雨か。

 どんな天気でも、受け入れよう。

 案外私は、雨も嫌いじゃない。

 私は、静かに、空を見上げたまま答えた。

「うん、帰るよ」


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