小説 私だけの世界 Ⅲ、崩壊⑧

 東階段のほうから三階へ上がり、廊下を西へ進む。ひんやりと静まり返った廊下に、人気はなかった。ほとんどの生徒は下校したのだろうか。

 ――と思っていたら、向こうから女子生徒が歩いてくる。

 一瞬、亜梨沙かと身構えてしまったけれど、彼女ではないようだった。まだ幼い感じがする女子で、どうやら一年生のようだ。すれ違う際、シューズとリボンの色が見えた。

 瞬間、私の目の前で、その女子生徒は派手に転んだ。……なにもつまずく物さえないところなんだけれど、なぜ。それとも、足を滑らせたのかな。

 私はかがみこんで、声をかけた。

 「だいじょうぶ?」

 女子生徒が顔を上げる。彼女は照れくさそうに笑った。

 「だいじょうぶです、すみません。転んじゃうなんて、恥ずかしい……」

 そう言うと、彼女はすぐに立ち上がった。その様子からして、どこも怪我はしなかったのだろう。

 「すみません、ありがとうございました」

 いや、声をかけただけなんだけれど。助け起こすこともしてないし。

 彼女は礼儀正しい子のようだ。ぺこりとお辞儀をしてから、私が歩いてきた東方向へ、ぱたぱたと駆けていった。

 廊下は走らない――なんて注意をするほど、私は優等生じゃない。けれど、しばらく彼女の走り去っていったほうを見つめていた。

 ……あんな子、いたんだっけ? 覚えがない……

 首を傾げたけれど、それは馬鹿な考えだと打ち消す。同級生でも知らない人がいるのに、ましてや一年生に彼女がいたかなんて、わかるはずがない。

 なんで、彼女を見たことがないということで違和感を覚えたのだろう。

 今度は反対側に首を傾げる。けれど、当初の目的を思い出して、傾げた首を左右に振った。

 そんなことはどうでもいいか。

 私は視線を前に戻して、再び歩き始める。

 一年生の時は三階の教室だったから、なんだか懐かしい。西階段の正面に空き教室があったかどうかまでは覚えていないけれど、亜梨沙が言うのなら、あるのだろう。

 ――というか、あった。古びたプレートには学年も組も書かれていない。

 西階段の正面、ドアは教室の前方のものだけ開いている。閉まっている後方のドアのガラス越しに人の姿を認め、私は思い切ってそのドアを開けた。

 使われていないというのに、教室の前のほうには机といすがいくつか置かれている。亜梨沙は、その近くの窓辺で、私に背を向けて立っていた。

 ごくん、と唾を飲み下す。

 「亜梨沙」

 声をかける。亜梨沙がゆっくりと振り向いた。その手にはスマホを握りしめている。

 「真奈……」

 私は思わず息をのんだ。

 ……これは、私の責任だろうか。亜梨沙の悩みに気づかなかった私の。避けられていても、無理矢理に家に押しかけるべきだっただろうか。

 亜梨沙はすっかり、やつれていた。少し痩せてしまっただろうか。

 ――ううん、これは身体的な変化というよりも、雰囲気が。今まで、憔悴という言葉のイメージが上手く湧かなかったけれど、この亜梨沙の様子は、まさに憔悴しているということじゃないのか。

 「亜梨沙」

 いったいどうしたの。何の悩みがあって、こんなになってしまったの。

 私は駆け寄った。けれど、亜梨沙の一歩手前で、思わず立ち止まってしまった。

 亜梨沙が、泣いている。

 正確には涙の跡が残っていただけで、さっきまで泣いていたと言うほうが正しいんだけれど、それでも、私には亜梨沙が今も泣いているように見えた。

 なんと言って慰めたらいいのだろう。どうすれば……

 なにも言葉が続かない私よりも先に、亜梨沙のほうから口を開いた。意外にも、しっかりとした声だった。

 「真奈。わたし、真奈に話したいこと――ううん、話さなくちゃいけないことがあるの」

 「うん、聞くよ。」

 私はすっかり、亜梨沙が悩みを打ち明けてくれるのだとばかり思っていた。

 謝罪の言葉を聞くのでも、ある事実を聞くはずでもなかった。想像すらしていなかった。

 けれど、ちゃんと覚悟もしていなかった私は、甘かったのだ。

 都合のいいように現実逃避をしていただけだったのだ。事実はこんなにも、私の目の前にあったというのに。

 気づかない私は馬鹿だった――それを思うにはもう、遅すぎるけれど。

 亜梨沙は、こう言った。

 「ごめんなさい、真奈、わたし――」

 見覚えのある、少女の表情。聞き覚えのある、その決意の声。


 「駿河くんと付き合ってるの」


 これは、あの時と同じ幻だろうか。幻のなかに、私は入り込んでしまったのだろうか。

 私は思わず笑ってしまった。

 「――嘘でしょ?」

 亜梨沙は首を振った。……私の願いも虚しく。

 「ほんとうなの、ごめんなさい」

 なんだか、目の前がふっと暗くなる。一瞬ののち、気がつくと、近くの机に左手をついて身体を支えていた。たぶん、気を失いかけたのだ。

 なんだか、手が震えてくる。それは手だけじゃないようで、なにか喋ろうとした私は、歯と歯がぶつかって、上手く声にならなかった。

 ……私の身体は、どうやら、亜梨沙の言葉をちゃんと理解しているらしい。はは、まったく嫌になる。

 立ちくらみを起こすなんて、身体が震えるなんて、情けない。私はもっと、強かったはず。

 けれど、辛うじて出した声はか細くて、我ながら聞き取りにくかった。

 「なんで……」

 亜梨沙は俯きながら話す。

 「最初は、好きとかそういう感情は持っていなかったの、ほんとうに。でも……」

 亜梨沙が、ぎゅっと目をつぶる。その瞬間、私の頭の中で、ぐわんぐわんと鐘を鳴らしたような音が聞こえた。眩暈がしそうだ。

 
 「でも、塾で一緒になって、彼に助けられたことがあって」

 『文化祭の実行委員で一緒になって、話すようにもなったの』

 「それで、かっこいいなって気になりだして」

 『それから、委員の仕事の時でも頼りがいがあるなって』

 「橋田さんを介して話すようにもなった」

 『目で追うようになってしまったの』

 「でも、真奈に後ろめたかった……怖かった、真奈がこれを知ってどう思うかが」

 『こんな気持ちになってしまったこと、真奈には今までどうしても言えなかった』


 ああ、幻聴が亜梨沙の声と重なる。同じ少女の声。聞き取りづらいはずなのに、どうしてか、内容がよく聞こえてしまう。

 聞きたくない、これ以上――

 亜梨沙の顔から目を逸らしたその時、それは私の目に入った。

 亜梨沙の持つスマホのカバー。彼女の手に隠れていたそれには、馬鹿にしているほど青い空と白い雲、孤独な樹が描かれていた。

 私は、すべてを会得した。

 冷静に考えてみれば――この状況で冷静に考えられること自体驚きだけど――おかしいのだ。五日前、駿河くんが待ち合わせた相手、それが橋田さんであるはずがない。

 私が彼を見かけたとき、あのスマホのカバーは、すでにつけられていた。待ち合わせの相手が橋田さんだったのなら、その時に彼女は、駿河くんのスマホのカバーを見ていた可能性が高い。けれども、彼女は先ほどまでそれを見たことがなかった。

 あの待ち合わせの相手は、橋田さんではない。

 亜梨沙だったのだ、きっと。

 そういえばあの日、亜梨沙も駿河くんも塾の日だった。私が塾の近くに来る前に、ふたりでもう塾に入っていたのかもしれない。きっと、そうだ。

 ――ああ、馬鹿らしい。馬鹿らしくて、笑える。私は能天気に日々を過ごしていたというわけか、亜梨沙の裏切りに気づかずに。


 「ごめんなさい、真奈……」

 『もっと早くに言わなくちゃと思ってた』


 ああ、うるさい。謝るな。

 自分の身体の奥底から、熱いものが湧き上がってくるのが感じられる。

 それは、炎でもマグマのようでもない。そんなに鮮やかでも、目を奪われるようなものでもない。

 もっと、どす黒い。目をそむけたくなるような、けれど、快感を伴う感情と衝動。

 まるで、もう一人の自分がそこにいるかのようだった。行動したのも私、それを見ていたのも私。

 ただ、詳細は覚えていない。自分がその時、なにを考えて、そうしたのか。

 でも、私は、自分の中から顕現した衝動に、逆らわなかっただけなのだ。


 机の上についた左手に、何かが当たった。

 私はそれを手に取った。

 なぜ、それがここにあったのか、そんなことはどうでもよかった。

 私は、手に持ったそれを、振り上げた。


 伝わってきた感触に、私は我に返る。

 気づくと、亜梨沙はうずくまって、両手で顔を覆っていた。その白い指から流れてくる――赤く紅いもの。

 私は、手に持っていたはさみを取り落した。

 けれど、かつん……という床に落ちた音は、いつまで経っても聞こえない。

 あるのは、静寂だった。耳が痛くなるような、無音の空間。

 そして、暗色の世界。いつの間にか、晴れていた空も曇って、教室は夕暮れのように薄暗く染まっている。

 そのセピア色のなかで、亜梨沙の指の間から変わらずに滴る、その紅が、鮮やかだった。

 鮮紅色が目に焼きついて、視線を逸らすことを許さない。

 私はスローモーションのように、時間をゆっくり進めていたのだろうか。滴る紅だけは、普通のスピードだったというのに。

 かつん、とやっと、はさみが床に落ちた音が聞こえた。

 その瞬間、すべての音が舞い戻ってきた――わけじゃなかった。無音の空間ではなくなったけれど、聞こえるのは私の早鐘の音と、私の足元にうずくまる亜梨沙の呼吸音。

 不意に、亜梨沙が身じろぎした。

 私は、はっとして後ずさりする。そしてそのまま、亜梨沙に背を向けて、教室の外へ駆け出した。

 ……逃げるために。

 駆けても駆けても聞こえるのは、自分の鼓動と息遣いだけだった。

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