小説 あべこべのカインとアベル⑥
ひと夏、それは日数でいえば、どのくらいのことを指すのだろう。少なくとも、この時のひと夏は、一か月ちょっとだった。
訣別の日は、突然やってきた。
彼と一緒に、いつものように図書室のソファで本を読んでいた私は、いつの間にか、眠ってしまったらしい。目を覚ますとタオルケットがかけられていて、カインの姿はなかった。
「お兄ちゃん?」
読んでみたけれど、返事はなかった。寝ぼけ眼のまま、体を起こして立ち上がり、なんとなく二階を見上げた。
名を呼んだのは私のほうなのに、逆に、彼から呼ばれるようにして、螺旋階段を上がっていく。カインの姿が見えない時は大抵、彼は二階にいたという事実のせいでもあった。
私が二階にたどり着いた時、カインはであった時と同じように、窓辺に腰かけて外を見ていた。窓はやはり開かれており、風は森の匂いを私に運んだ。
「お兄ちゃん」
私はもう一度、名を呼んだ。
「栞」
彼も私の名を呼んだ。そして、こちらを見ずにこう続けた。
「どうやら、もう帰らなくてはいけないらしい。今日でお別れだ」
私には理解できなかった。いや、言葉は理解できるし、その意味するところも分かる。けれど、それは決してつかめない雲のように、実体がないものだった。
「お別れ……」
「そう、いろいろ楽しかったし、学ばせてもらった。栞といられて、本当によかった。君はやっぱり、とても素敵な人だね。栞が大人になった時にここにいられないのが、ちょっと残念だな」
そう言って、彼は私のほうを見て、微笑む。自己完結の満足感がそこに見て取れた。私を思い出にして。
けれど、まだ、私はカインの過去じゃない。思い出じゃない。
おいていかないで!
「いや」
その時の私に言えたのは、けれど、その二文字くらい。ほかに何が、言えるだろう。
困ったように、カインが首を傾けた。
「でも、僕はいかなければならない。君は物分かりの良い子だ。今は理解できなくても、いずれ、僕がどういう存在か、自分で気が付くだろう。そうしたら納得するはずだ」
私は首をふるふるとふった。こんなことなら、やはり、私はとっくの昔に空気や水になっているべきだった。カインの一部として吸収され、彼になる。いつでも一緒であり、私は彼であり、彼の才能になる。
首を振り続ける私に、困った口調で彼は言った。
「うーん……ねえ、この、栞が好きな本だけどさ」
私が目を揚げると、カインの左手には、あの赤い表紙の本があった。
「実は、作者と僕は知り合いで、ちょっとした手違いで、村崎家の図書室に収められてしまったんだ。本当は、まだ出版されていない本なんだよ」
唐突に彼はそんなことを言い出す。私にはどうでもよかった。
囚われの騎士と彼を救出する妹。確かに私はその本の登場人物を自分たち二人になぞらえてはいたけれど。今の状況は、脱出する兄とそれを阻む妹という、あべこべではないか。
しかし、彼は続ける。
「本当は、これは僕が責任をもって、持ち帰らないといけない。そのためにここへ来たようなものだから。この本は、ここから消えるだろう。……でもね、栞、本というのは文字の記録媒体だけれど、文字を記録できるのは本だけじゃない」
にこりと彼は私に笑いかけた。
「文字は文字として君の目に入り、さまざまな色やにおい、音、空間情報に置き換えられ、脳の引き出しにしまわれる。そして心に。記憶は変えられるし曖昧なものだけれど、心の体験は不変だ。そこには時の流れはなく、色あせることもない。君がこの本を読んだという体験を忘れたとしても、目を閉じればその存在を心のどこかで感じるだろう」
いつの間にか、本や記憶の話になっている。強い体験は、忘れられても、その存在は消えない、そういうことを彼は言いたいのだろうか。私が自分で自分の体の中を見られないように、感知できないけれど、そこにあるということか。
けれど、私が言いたいのはそんなことではなかった。聞きたいのはそんな言葉ではなかった。
本の内容とは、立場が逆転した私たち二人。本のなかで、妹はどうやって兄を救ったのだったか? 私は彼を引き留めることができるだろうか?
そもそも、私が彼になれればよいのに。そうすれば、引き留める必要などなくなる。
カインになるには、どうしたらよいのだろう?
私が、カインになるには。
そこで、唐突に理解した。
カインに、私が、なるのではなく。私が、カインに、なる。それは同じようで、違う。どちらが主体か。
「お兄ちゃん」
私はカインの胸にすがりついた。カインは本を左手に持ったまま、右手を私の背中に優しく置いた。
「栞」
窓は開いていた。風は吹きこんで、私たちの髪をなびかせた。
「私が、お兄ちゃんになるよ」
大好きだから、それを言葉の裏に隠して、私はカインの胸に当てていた両手で、思い切り彼の体を押した。
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