小説 シスター・コンプレックス⑤
叫び声が誰のものだったのか、わからない。おそらく私自身だろう。声を挙げられる状態だった人間は、その時、私しかいなかったのだから。
しかし、思わず目をつぶってしまった私が再び恐る恐る目を開けると、倒れた姉のそばに、見知らぬ青年が跪いていた。
彼は、姉から視線を外して、私のほうを見た。
その目は何もかも見通すようで、しかし、こちらからはその深い色の目に何の感情も見てとれなかった。
「……誰」
「規則破りなのは重々承知しているのですが」
彼の声もまた、目の色と同じく深みが存在していた。それなのに、どこかとらえどころがなかった。
私は以前に彼を見たことはなかった。
真っ黒ではない、どちらかというと藍色に近いその髪は長く、首の後ろで束ねている。細面の顔は、どこか東洋的で、異国的だった。そしてなぜか、白いシャツの上に白衣を着ていた。
「ひとこと言っておかなければ気が済まなかったので」
と言いつつも、彼の声に感情が見て取れない。
「しかし、冷静ですね。姉が死んだというのに、まずは目の前の私を誰何しますか」
死、という言葉で、私の頭は真っ白になった。
「死んだなんてっ…」
物騒なこと言わないで、と言いかけた私を遮り、彼は淡泊に言った。
「事実です。彼女は死にました。この世界ではもう、誰にも彼女を救えません」
そういう彼の表情が、わずかに変化した気がした。しかし、それは一瞬のことで、また無表情に戻る。
「しかし、それだと私が困るのですよ」
「は…」
「別の意味で、困るのは、私だけではないですけどね。あなたに説明する義務もないので、省きますが。ただ、ひとつだけ、私はあなたに言いたいのです」
彼の視線がわずかに強くなった。
「真幌を傷つけることは、実の妹であろうと、私が許しません」
私はますます訳が分からない。死んだという姉のそばで、私はなぜ、見知らぬ人とこんな会話をしているのだろう。
しかし、私は彼との対話を拒否しなかった。たぶん、現実から目を背けたかったのだろう。姉の死、私の行為、そういった悪夢のようなものから。
なぜなら、この場はまるで、時が止まっているかのような感覚にさせられたから。
「…あなたは、真幌の、なに」
「それは重要ではないと思いますが。敢えて言うなら、彼女は私を友人と呼んでいましたが。または、仲間と」
私は姉の交友関係を知らない。だから、彼の言葉の真偽はわかりようもなかった。
「真幌は、あなたの話をよくしていましたよ」
「お姉ちゃんが…?」
しかし、それは疑うまでもなかった。姉が他人に私の話をすることは、そう珍しくない。
「最近、妹がまた写真を撮り始めたと嬉しそうに話していました」
びくりと私の体が震えた。無意識の防御反応だ。
彼は立ち上がり、姉のそばに落ちたカメラを拾った。
「あなたにこれをプレゼントするのだと、嬉しそうに」
彼の言動、表情からはなにも読み取れない。
しかし、このプレゼントによって逆上した私を責めているかのように思えた。
私の心はぐさりと刺されたが、けれども、同時に反感も生まれた。
「…迷惑なのに」
どうして。
「どうしてお姉ちゃんは私を構うの? いっそ、無視してくれたほうがいいのに。なんで、私に期待するの? 私はお姉ちゃんと同列に並べないこと、わかってるはずなのに」
わからないはずない、昔からそうだった。
こんなこと、目の前の青年に言っても無駄だろう。わかってはいたが、止まらなかった。十数年間の鬱憤を晴らすように、私の口からは言葉があふれ出た。
「私はお姉ちゃんから離れたかったよ、でも、お姉ちゃんが私を話してくれないから。愛されてるってわかってるのに、それを蹴るなんて、できないじゃない。私がお姉ちゃんを無視したり嫌ったりしたら、悪いといわれるのは私。私だってお姉ちゃんは好きだけど、すごいと思うけど、でも…」
辛すぎる。姉のそばにいることは、私が彼女に愛されているからこそ、彼女と血がつながっているからこそ、いたたまれないほど辛いのだ。
真幌の妹なんかじゃなければよかった。
そうすれば、きっと、もっと違う感情を抱けただろう。友人になれただろう。憧れの先輩として彼女を見られただろう。
真幌は、近すぎると毒だ。白雪姫の毒リンゴ。触れても大丈夫、魔女がかじった反対側は大丈夫、でも、白雪姫が食べた半分は、死への毒。
自分を白雪姫に見立てるつもりはないけれど、その毒の部分は私の体の中にあるのだ。
でも、リンゴ自体に罪はない。なぜなら、リンゴはただ、魔女によって毒リンゴにされただけなのだから。
私の場合、毒リンゴは偶然の産物か、はたまた、私個人としては、神様の意地悪な意図を疑ってしまうけれど。それはまた、神様がいるならの話だけれど。
けれど、このおかしな状況が起こりえるなら、神様はいるのかもしれない。これが夢なら、神様はきっと夢のなかに。
そして神様は、私を助けてはくれない。
私は片頬を引きつらせ、無理やり笑みのようなものをつくった。
「あなたも私を責める。私は悪者。いっそのこと、私を殺したらいい。真幌が死んだというのなら、彼女は天国に行くんでしょう。私は死んだら地獄だもの」
自暴自棄になっているのはわかっていた。でも、どうしようもなかった。
彼はしかし、首を振った。
「別にあなたを悪者にしませんし、殺しませんよ。それに、真幌が死んだら天国に行くというのはどうでしょう。彼女は、以前、自分は地獄行きだといっていましたよ」
「え…」
思いもよらない話に、私は目を見開いた。
真幌が地獄? あの、完璧な姉が?
「ありえない」
「そうでしょうか? あなたと真幌の関係は、本人たちでないのでわかりませんが、確かに、真幌に非がなかったとは言えないと思いますし」
私は瞬きした。青年が何を言ったのか、すぐにはわからなかった。
彼は、手元のカメラをくるくる回して眺めながら、言った。
「私がこの話をするのはどうかと思うのですが、まあ、言っておくと、真幌はあなたに対して罪がある、近くにいると苦しい、と言っていましたよ」
「は…」
では、なぜ、私を解放してくれなかったのだ?
私は怒りを覚えた。
そんな私の様子を見て取ったわけではないだろうに、彼は補足した。
「しかし、離れられないと。あなたは自分の安らぎでもあるのだといっていましたよ。あなたがいるから、自分は壊れないで努力を続けてこられたのだと。自分は周りの期待にこたえ続けられるほど強くはないが、妹がいれば頑張れる。
昔、真幌はあなたの前で大失敗をしたそうです。でも、あなたは、あきれたり悲しそうにしたりはしなかった。ただ、いつも通り、そばにいてくれた。それからは、失敗しても妹だけは自分を見捨てないと安心して、上を目指せるようになったそうです」
真幌が大失敗…?
全く覚えていなかった。確かに、幼い時なら、多少の失敗は誰でも犯すものだ。けれども、真幌がどのような失敗を頭において、その言葉を言ったのかわからなかった。
「真幌は、いつも怯えていたんですよ。一つ間違えば、自分は周りから見捨てられるのではないかと。恐ろしくて眠れない時もあったといっていましたよ」
わからなくもないですが、と青年は思わずといったようにこぼしたが、私はあまり頭に入っていなかった。
それよりも、真幌が見捨てられるのではないかと怯えていたということに、衝撃を覚えていた。
天才は孤独だ。そのような類の言葉をよく聞くけれど、そういうことなのだろうか。
だから、と青年は言った。
「真幌はあなたから離れられなかった。自分が近くにいることで、あなたがつらい思いをすることが、わかっていても。自分の心の安寧のために、あなたの心を犠牲にしている。
だから、真幌はあなたに対して罪があり、近くにいると苦しい、と言ったんですよ」
姉も苦しんでいた?
そんなこと、今まで考えもしなかった。毒リンゴも、毒に侵されて、苦しかったんだろうか。見た目は全くおいしそうな真っ赤なリンゴだとしても。
「…今更」
しかし、そんな話を聞くのは今更過ぎた。
「なんてことを…」
私は苦しんでいた姉を、この手でさらに苦しませて殺してしまったのだ。
「…私が死ねばよかったのに」
思わず漏れた私の言葉に、青年はカメラから顔を上げた。
「誰も死にませんよ」
意味が飲み込めない私に、さらりと彼は言った。
「これは夢だと思いなさい。あなたは確かに、姉を殺しましたが、あなたが次に目が覚めた時に、彼女は生きていますよ。
あなたは姉殺しの罪悪感を抱えていってください、あなたが殺した彼女の生きている世界で」
青年は一度口をつぐみ、それからまた言った。
「…私は、あなたたちよりコミュニケーションに慣れていません。だから、私がこんなことを言っても、正解であるか、わからないのですが。
ただ、あなたたち二人は、もう少し、抱えているものを互いに打ち明けたほうがいいと思いますよ。すべてではなくて。
あなたたちは互いに気を使いすぎているように、私には思えます。どちらも結局のところ、自分だけが悪いと思っているんですから」
そうでしょう? と彼は私を見つめた。
「あなたは真幌を憎んでいるようですが、それ故に彼女を殺してしまったようですが、実のところ、あなたは全部、自分でしょい込んでいる。真幌が悪いといいつつも、そう思ってしまう自分を責めているように、私には見えます」
だからと言って、罪が許されるわけではありませんが。
彼はそう言って、カメラを手に階段を上ってきた。
「とにかく、私の話を聞いて、真幌を傷つけないと決心してくれるのなら、私はそれで満足です」
知っていましたか? と彼は、つい先ほどまで姉が立っていた段にたどり着いた。
あのとき、姉と私は同じ目線に立っていたが、今、私は彼を見上げる形になっている。体の線がとても細いのに、この青年は、かなりの長身だった。
「真幌があなたにカメラを贈ろうとした理由」
私は答えなかった。
「あなたの写真が、好きだからですよ」
何度も聞かされた言葉をもう一度、見知らぬ青年から聞いて、私はなぜか、涙が込み上げてきた。
苦しんでいた真幌。そういえば、写真のコンクールで賞を取った後も、彼女の机の上に飾ってあったのは、私が撮った写真だった。そして、賞をとった彼女の写真の被写体は、カメラを構えた私だった。
「せっかくだから、受け取ってあげてください」
青年が私にカメラを差し出す。私はしっかりと、それを受け取った。
青年は、念を押すように、私の顔を覗き込んでいった。
「もう、真幌を傷つけないでくださいね。…そして、あなたも、傷ついていいわけではないと思いますよ」
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