小説 あべこべのカインとアベル①
それを栞から聞かされたのは、ある夏の日である。
いつものように、私は暇を持て余して、村崎家に立ち寄っていた。私は定位置になっている一人が家の肘掛椅子に座り、栞はソファに腰を下ろして、低いテーブルの上に置かれた大型本を眺めていた。
私がそのとき読んでいたのは、旧約聖書である。特に何かの宗教を信仰しているわけではなかったが、誰かが信じている、心の支えとしているものに触れることが好きなので、こんな風に新・旧約聖書や神話を読んだり、教会や寺、神社といった場所に行くことが割と私の気に入っている趣味だった。
旧約聖書の、どんな話を読んでいたのかは覚えていない。しかし、その時、不意に栞が、私の左側から本をのぞき込んできた。
「――旧約聖書のなかに」
こうして栞が唐突に話しかけてくることは今までにも多々あったので、私は目を上げずに、「うん?」という相槌だけで先を促した。
「カインとアベルの話があるでしょう」
簡潔に言えば、妬んで弟アベルを殺したカイン。神に追われた放浪者。
「うん」
「兄弟を妬むのは、人間、いつの時代も変わらないんだなって、その話を初めて読んだ時、思った」
私は、おや、と思った。栞に兄弟姉妹はいなかったはずだ。だが、今の彼女の言葉は、まるでそんな感情の体験をしたことがあるような含みを持っていた。経験したものにしかわからない、独特の、苦々しさ。
私は本を閉じて、左に首を回した。何も言わずに問いかける。こんな風に不可解な話をするとき、栞はいつも、何か彼女にとって大事なことを、話したがっている。
私の疑問を汲んだのだろう、栞は口角を少し上げた。苦笑。
「私は、あべこべのカイン。兄の才を欲して取り込んだ、アベルという名のカイン」
彼女は謎めいた言葉を、一番大事な時に使う。しかし、それははぐらかそうとしているわけではなく、逆に、彼女なりの正直さと誠実さなのだった。
短い付き合いだが、私は既にそのことに気づいていた。
栞は、かがみこんでいた背中を伸ばして、レースのカーテンが引かれた窓辺に向かい、そこに佇んだ。何かを回想するように。
「……私は罪を告白する。ずっと、あなたと、この機会を待っていた」
彼女の横顔は、誰かに似ていた。
それが誰だか思い出せないまま、私は彼女が語るのを聞いた。
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