小説 シスター・コンプレックス④

 この夏休みに、特にこれといった予定があるわけではなかった。

 高校の課題をこなし、栞の家の図書室で本を読み、カメラを発見してからは、それを片手に気が向くままに散歩することも多かった。

 もちろん、昼間は暑いので(私は寒いより暑いほうが嫌いだ)、まだましといえる朝や夕方などの時間帯に外に出た。

 朝日が昇るか昇らないかという境界の時間帯の空気は、思いのほか、好きだということを発見した。

 ただ、夕方のほうが個人的にはもっと好ましかった。蒸し暑いとはいえ、日が沈んでいく様は、とても心を惹かれた。

 昔から私は、夕日に照らされてつくられた光と影、その混じり合いそうで混じり合わない様子が好きなのだった。

 そのうちに、フィルムカメラか一眼レフでも撮影してみたいという欲が出てきた。どのくらいの値段なのだろうと思って、試しに駅近くの電気屋で見てみると、購入するにはそこそこの勇気と覚悟が必要な値段だったので、ひとまずやめたが。

 そんな風に、思いのほか穏やかだが充実した夏休みを送っているうちに、私の誕生日がやってきた。

 その日は、栞の家に行く予定だった。彼女からのプレゼントはなんだろう、と考えながら、簡単に出かける支度をした。

 お昼の少し前、部屋を出ると、玄関でバタンという音がした。父も母も今日は仕事だ、ということは、朝早くに、なぜか慌てて出ていった姉が帰ってきたのだろうか。

 そう考えていると、すぐにばたばたと階段を上ってくる音がした。「水穂?」

 「なに?」

 姉が会談の最後の一段のところで立ち止まって、私たちは向き合った。私も背が高いほうではあるが、一段の差があって、やっと、姉と私は同じ目線になる。

 「よかった、まだ出かけてなくて。今日出かけるって言ってたから、もう行っちゃったかと思った」

 姉は家まで走ってきたのか、頬を上気させている。

 「今から出かけるところだけど」

 「ああ、そうなのね。ちょっとだけ大丈夫?」

 別に栞とは、何時と約束していたわけではなかったので、そう告げると、姉はほっとしたような顔をして、後ろ手で持っていたものを差し出して、笑顔で言った。

 「お誕生日おめでとう、水穂」

 目の前に差し出されたのは、青いリボンがかけられた白い箱だった。

 「あ、ありがとう」

 受け取って、この場で開けるかどうかちょっと迷った。

 が、どうせ開けなくても気になってしまうことや、姉からのプレゼントに感情を乱されることだろうことはわかりきっていたので、早く終わらせたほうが良いと思い、姉の目も気にはなったが、この場で箱を挙げることにした。

 青いリボンをほどき、箱のふたを開けた。その瞬間、私は姉の前にもかかわらず、凍り付きそうになった。

 「これ…」

 それは一眼レフカメラだった。私が気になって、電気屋で見た製品だった。

 「最近、水穂、また写真を撮り始めたでしょう」

 姉の声がするが、私は顔を挙げられない。平静を装うふりで精いっぱいだ。私の目はというと、一眼レフに釘付けになっている。

 「この前、偶然、駅前で水穂を見かけて、声をかけようと思ったんだけど、水穂がその一眼レフをじっと見つめてるのに気づいて。私、水穂の撮る写真が好きだったから、私としても、水穂が手法を変えて撮った写真を見てみたいなって」

 何を言っているの?

 言おうと思ったことは、しかし、何にも言葉にならなかった。

 私が撮った写真を、今でも見せてもらえると思っているのだろうか。

 また同じだ、と思った。また私の聖域が侵されていく。

 姉にその意識はないに違いない。だからこそ厄介なのだった。

 そんな姉を疎ましく思い、と同時に、彼女を心の底ではまだ敬愛しているから、私は少しも動けない。人形のように。

 だが――

 「いらない」

 姉がくれたカメラは、二つもいらない。与えられるだけ、奪われるだけの私は、もう嫌だ。

 え、という姉の言葉が聞こえた気がした。

 しかし、私は構わず、言葉の勢いに任せて、一眼レフの入った箱を突き返した。

 「私の撮った写真が好きだなんて、もう二度と言わないで」

 姉の手が、箱を持つ私の手に触れた。その手は熱いくらいだった。走ってきたせいだろう。

 だが一方で、私の興奮は高まり、代わりに指先は冷たくなっていく。

 「水穂」

 顔を挙げられない。が、触れた指先から彼女の感情が流れ込んでくる気がして、ぞっとした。

 熱が伝わるように、私が姉に浸食され、私が私でなくなっていくみたいな気がして。

 いつだってそうだった。私は姉の影だった。外に出れば、光に浸食されて無個性になる。それもこれもみんな、姉が私を抱き込んでいて、ぐいぐいと笑顔で締め上げるからだ。

 その両手から私は愛情も物理的なものも与えられてきたけれど、一方で、私からすべてを奪っていくのもその両手だった。

 私だって、真幌という人間から、何かを奪ったって、いいじゃないか?

 「それでも…カメラは、受け取ってくれないかな」

姉の手が箱を私のほうへ押し返してきて、急に私は恐怖にかられた。

 私はもう、姉に浸食されたくないんだ。逆に私が姉を――

 私もまた、その箱を思い切り姉のほうへ押し返した。私が佐原真幌という人間だったらよかったのに、と頭の隅で考えながら。

 そして、私はただ、とにかく、今すぐ栞のもとへ行きたいと思った。

 あ、という声を聞くとともに、急に、自分の両手の先に何も感じなくなったことに気づいた。

 ものすごく嫌な音がした。

 顔を上げて目を開くと、そこには誰もいなかった。

 「え……」

 そして、階段下には、無防備に倒れた姉の姿と、そのそばには中身が飛び出た白い箱が落ちていた。

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