小説 私だけの世界 Ⅲ、崩壊⑤

 夕方。

 夏は日が暮れるのが遅いので、夕方といってもまだ明るい。

 ふと私は思いついて、駅前の塾の近くに行ってみた。亜梨沙が通っているところだ。

 今日は確か、五時からだと言っていた。今の時間なら、塾があるビルの中へ入る時に会えるかもしれない。

 数人、塾生と思しき人たちが、ビルの中に入っていく。私の座るベンチからは、ちょうどビルの入り口付近がよく見えるのだ。

 けれども、亜梨沙を見かけたとして、果たして私は彼女に声をかけるだろうか。

 まだ、私のこの悩みを聞いてほしいと思っているのだろうか。悩みを打ち明ける決心がついたのだろうか。

 ……分からない。

 けれど、まだ誰もいないであろう家に帰るのは気が引けた。弟は友達の家で夕飯をごちそうになってくると言っていたし、母もまだ仕事だろう。

 まあ、ここでぼうっとしていても悪くないだろう。家に帰るよりは、なにもすることがなくても、外にいたかった。五時を過ぎたら帰ることにすればいいだろう。

 ビルに吸い込まれるように入っていく人たちを見ながら、私はふと、おかしなことを考えた。

 まるで、私だけがこの世界から取り残されているような感じだった。周りのざわめきは耳に入ってくるし、人影も多くあるというのに。

 私は、ビルに入っていく塾生だけではなく、他の人たちにも目を向けてみた。すると、今度はもっと広い世界から、同じく私だけが取り残されているような気分になった。

 疎外感だった。私にはちゃんと自分自身が見えているのに、自分は誰の目にも入っていないんじゃないかと思ってしまう。

 私にだけ、目的がない。どこに行くとも、これからなにをするとも、ない。

 私のように、所在無げに座っている人など見当たらず、みんな、ちゃんとした目的があって歩いたり立ち止まったりしている。

 けれど、ここで唐突に疑問がわく。

 みんな、どんな目的があるんだろう? 塾生はもちろん塾に行くため。あの向こうから歩いてくる女性は、夕飯の買い出しをする主婦だろうか。今、通り過ぎた高校生くらいの男の子は、家に帰るためだろうか。

 そう考えると、当たり前だけれど、みんなそれぞれの生活があるんだなあと思える。それぞれの気持ちがあって(この際、少年の言葉は無視しよう)、それで起こす行動があって、それで成り立つ生活がある。

 なんだか……当たり前なんだけれど、私には不思議に思える。

 私は今まで、自分以外の人の気持ちや生活なんて、考えたことすらなかった。私は私で成り立っていたし、他の人もその人自身で成り立っていた。そう思っていた、ずっと。

 他の人に手を伸ばしてみようだなんて、考えたこともなかったのだ。

 その人が今どんな気持なのか、推し測ったことはあったけれど、もっとその奥、ずっと深いところに、想像を巡らせたことはなかった。そんなこと、考えもしなかった。

 なんだか、新鮮な気持ちだった。なぜ、このベンチに座っていただけでこんなことを思ったのだろうと不思議だけれど、だからこそなのかもしれない。

 やっぱり、ひとりでぼうっとするのも、たまにはいい。

 こういう感傷的な気分は長くは続かないし、すぐに忘れてしまうものだけれど、そして、気づいたところで何かが変わるわけでもないだろうけれど、役に立たなくとも、知らないよりは知っていたほうがましだろう。

 ふと時計を見ると、五時を過ぎていた。

 私は首を傾げる。考え事をしていたとはいえ、亜梨沙の姿を見逃したとは思えないけれど……それとも、今日は休みなのか。

 メールをしたとき、具合が悪そうには思えなかったけれど、そのあとに体調を崩したのかもしれない。それか、私がここへ来る前に、既に塾へ来ていたとか。

 何にしろ、今日は亜梨沙とは会えないだろう。そう思うと心が沈んだので、やはり、悩みを打ち明けたかったのかもしれない。

 あとで、「塾、お疲れさま」とでもメールしておこうかな。そうすれば、具合が悪くて塾を休んだのか、そうじゃないのかわかるし。

 それから、駿河くんを見かけたことも報告しよう。


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